地下水路

「それでさ、今度の休みにみんなで海にでも行かない?」

 陽が傾き、西の空の雲が少しだけ赤らみ始めた頃、人通りの殆ど無い裏通りを、若い女が歩いていた。

「もうそろそろ梅雨も明けるし、最近だんだん暑くなってきたじゃん。サークルのみんな誘って、近くの海にでも行こうよ」

 スマホを耳にあて、友人と楽しげに会話をしながら歩いていた。

「私がみんなを誘うから、友美が詳しい計画立ててよ。…………え? 面倒だから嫌だ? ふっふっふ、そんな事言っていいのかな~。私が計画立てて良いなら、啓太君と他の女の子、同じ部屋に泊まらせちゃうよ~~?」

 はっはっは、と大袈裟な仕草笑いながら、女は空に顔を向けた。空はどんよりと曇っている。間も無く雨が降ってきそうだ。

「ま、そういうことだから、泊まる場所とか車の配分とかお願いね~。私は今から他のみん…………え?」

 女が違和感を覚え下を見ると、地面を踏んでいるはずの右足が宙を浮いていた。正確には、ぽっかりと開いた円形の穴の中に、今まさに落ちようとしていた。

「え!? ちょ…………!」

 突然のことに慌てふためき、落ちていく右足を止めようと咄嗟に右手を前に振り出す。が、慌てすぎていたか、右手は宙を切り、その拍子にスマホも遠くへ投げ出された。

 余計にバランスを失った女は、穴の縁に勢い良く頭をぶつけた。ゴト、と鈍い音が鳴り、女は意識を失った。


……………………………………………………………………………………………………


 顔に水が当たる感覚を覚え、女は目を覚ました。何処かに倒れ込んでいるようだが、嫌に暗い。

「あ…………」

 上を見上げると、ほんの少しだけ明るい円があるのが見えた。雨が降っているようで、大量の雨粒が目に入る。上を向けていられず、すぐに顔を背けた。

 そして、女は自分が穴の中に落ちたという事を認識した。途端、全身が急激に痛み始めた。

「ああああああああああああああああ!!!」

 特に痛むのは、両腕。共に前腕の部分から骨が飛び出していた。また、全身は痣だらけ、所々擦り切れており、血がにじんでいた。

「いたい……いたい……いたい……いたい………………!」

 女はうずくまるように顔を下に向けた。すると、顔が何かに埋まった。

「!?」

 目が暗闇に慣れ、上からのかすかな光によって見えたそこは、両腕をぎりぎり広げられるぐらいの円形の水路だった。既にくるぶし埋まる程の高さで水が流れている。

「まず…………!」

 女が逃げ場を求めるように再び上に目を向けると、地上まで続く梯子が目に入った。女は咄嗟に、手近にある梯子の段に手を掛けた。

「うあ……、ああああああああああああ!!!」

 そして再び、腕の激痛によって顔を歪ませた。のたうち回ろうとしたが、精一杯の理性が働き、何とかそれは押し止めた。

「つ………。こんな状態じゃ登れない…………。もう! 一体どうなってるのよ!」

 そんな悪態をつくも、反応する者は誰もいない。そうしている間にも、ほんの少しづつではあるが、徐々に水嵩みずかさが増してきている。

「だ、だれか! 助けてくださああああい!」

 上に向けて精一杯叫ぶも、何の反応もない。そもそも激しい雨音で女の声は殆ど響かず、外からの音も、雨音以外は全く聞こえなかった。

「……………………」

 しばらく叫んだ後に無駄だと悟り、女は痛む両腕を体に寄せて、じっと考え込み始めた。

「このままじゃらちが明かない。携帯も無いし…………」

 その時ふと、水路の奥に、小さな小さな光が見えた。

「あれは…………」

 小さくはあるが、上の穴から漏れているような微かな光ではなく、星のような確かな明るさを湛えていた。

 女は少しだけ考え、明かりの方に向かって歩き始めた。歩くたびに痛む両腕を庇うように、そして万が一にでも足を滑らせないように、慎重に歩を進めた。


……………………………………………………………………………………………………


「え?」

明かりがだいぶ大きくなってきた頃、背後から、微かに鈍い音がしたような気がした。耳を澄ましてみると、その音はだんだん大きくなり、近づいてきているようだ。

「……………………」

 女は、痛む両腕を庇いながらも、できる限り歩を早める。そして、ようやく明かりの直ぐそばまでやって来れた。

「そんな……………………」

 そこは、広い空間だった。

 高さ、横幅、奥行がおおよそ10mの空間が、そこにはあった。下3m程には酷く濁ったヘドロのような汚水が溜まっている。そして、遥か上には、少し大きめの排水口と、そこから見える街頭があるだけだった。

「誰か! 誰か助けて!」

 返事は、無かった。相変わらず大きく響く雨音だけが、女の耳に入った。

「ああ………………」

 そうして女が絶望に浸っていると、背後から聞こえていた音が急激に大きくなり、急速に近づいてきていた。

 咄嗟に後ろを向くが、その時には鉄砲水が女の目の前にまで迫っていた。驚く間も無く、女は怒涛ように流れ込む水流によって、広い空間へと落ちていった。

 女は顔面から着水。次いで両腕が水面に打ち付けられた。あまりの痛みに叫ぼうとしたが、叫ぶために必要な空気が肺に入ってくることは無く、代わりにヘドロが侵入してきた。

 催す吐き気に耐えることは出来ず、女は肺の中の空気を全て吐き出してしまう。

 激烈な痛みと吐き気に晒されてもがく力も湧かず、空気を失った女の体は、ゆっくりと水底に沈んでいった。


 雨は未だ止む気配が無く、その空間の水嵩も加速度的に増していった。

 しかし、女の体が浮き上がってくることは、雨が止むまで一度も無かった。






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