第七章 来訪者

第1話 ユウヤとアキユキ

 ノエリオール王国、その「夏至の日」。

 王太后とレオノーラが身罷みまかって、はや八年の歳月が過ぎ去っていた。


 ヴァイハルトはその当時、いくつか点在する北方の「赤い砂漠」近くの城塞を管轄する任を与えられ、そこに常駐する将軍として働いていた。階級はまた上がって、やはりこんな若輩には不釣り合いな、竜将にまでなっている。

 実は、「第二次フロイタール王略取作戦」とでも呼ぶべきその作戦に、ヴァイハルトは参加しなかった。さほど多くの将兵が必要な作戦ではなかったことと、王を奪われたフロイタール軍のその後の動きを注視することが自分の最大の務めだったからである。


 結論から言えば、フロイタール軍は動かなかった。

 それが何故であるのかをヴァイハルトが知るのは、唐突にかの青年王から、文書ひとつで王都クロイツナフトに呼び戻されてからのことである。

 実はその書簡の中に、ひとつ不可解な文章があり、ヴァイハルトはちょっと首をひねりながらも、愛馬に跨って王都を目指したのであった。



                ◇



 久しぶりに足を踏み入れたノエリオール宮は、かつての明るさを相当に取り戻しつつあるように思われた。

 八年前、夏であるにも関わらず凍りついたようだったその広い廊下も、その当時だったら考えられないほどに穏やかな空気に満ちている。


「あら、見て! ヴァイハルト様よ……!」

「あっ、ほんと……」

「ああ本当に、いつ見ても凛々しい方ねえ……!」


 何よりも、将校の軍服を身にまとって廊下を行く自分を、こんな風になにか嬉しそうにこそこそ話しあいながら見送る女官たちの姿に、ヴァイハルトはある種の懐かしさを覚えるのだった。

 黒いマントを翻しつつ大股に進んでゆくと、謁見の間の少し先で、長い黒髪の国王と、老宮宰の小さな姿が目に入った。

 サーティークはこの七年で相当に精悍さを増し、近頃ではその端正な横顔に、大人の男としての色気すら漂うようになっている。いまやどこからどう見ても、他に隠れなきこの国の王としての堂々たる風情を身につけていた。


 因みに、そのあたりはヴァイハルトの方でも似たり寄ったりではある。

 もともと自分も、貴族のご婦人がたに妙に受けのいい容姿はしていたようなのだが、レオノーラの一件以来、そこに何かが加わったらしかった。それが何であるかは知らないが、夜会などで自分に群がり寄ってくるご婦人の数が、一段と増えたのは事実だった。

 とはいえヴァイハルトは、決して人には洩らすことのできないひどい「傷心期間」でもあって、とてもご婦人たちとのあれこれ――巷間には「恋の鞘当て」などと呼ばれるあれだ――を、楽しむ気持ちにはなれなかった。

 勿論、「もと情報将校」としての職業病のようなもので、彼女らにはごく物柔らかに、またにこやかに応対し続け、あれこれとそれとなく、必要な情報を聞き出してはいたのだったが。


 そしてこれも、何故なのかは分からなかったが、どうも自分は、上に兄やら姉のいる女性から特に好まれるようだった。時折り、王宮や地方都市の貴族の屋敷で催される夜会の折には、気がつけばそういう境遇の女性がたに周り中を囲まれていることもしばしばだった。

 そして、そのせいかどうかは分からないが、ヴァイハルトの方でもなんとなく、「そういう境遇の」女性を瞬時に見分ける目を培ってしまったようだった。自分の好みとしても明らかに、そちらの女性に好意を覚えていたからなのは言うまでもない。


 なお、この八年、ヴァイハルトは誰か特定の女性に対して、レオノーラに抱いたような、魂に深く食い込むような気持ちを持つことは決してなかった。それは、彼自身無意識のうちにも、まだ十分には癒えていないそのに、誰にも触れて欲しくなかったからかもしれなかった。

 しかしそれでも、ヴァイハルトはヴァイハルトで、で相当の経験を積むことにはなった。要するに、こちらの望むと望まざるとに関わらず、相手のご婦人がたの方で、非常に積極的だったということだ。

 別に大きな声で言うことでもないのだが、ともかくも、わが身の名誉のために事実として、それだけはこの場で述べておこうと思う。


 ただ幸いにして、ヴァイハルトはそうした「いい加減な」あるいは「大人の」関係にありがちな、なにか自堕落で爛ただれたような、乱れた生活とはずっと無縁に過ごしてきた。それはとりもなおさず、いま目の前に居るこの精悍な義弟の存在があったればこそだったろう。

 恐らくはかの事件で自分よりも深く傷ついたに違いないこの王が、しっかりと足を踏みしめ、何であれ生きる目標を持ち、まっすぐに隣で生きている。そうである以上、曲がりなりにもその義兄あにである自分が、その道に堕するわけにはいかないのだ。


 考えてみればそれは非常に、自分にとって有難いことだった。

 その目標が、たとえ暗い復讐であれなんであれ、今をただ立っているための、生きるよすがであることもある。

 それを一体、誰が責められると言うのだろう。



 ともかくも。

 王宮の廊下の向こうにいる、見覚えのある二人の向こう側に、見知らぬ人影を見てヴァイハルトは眉を顰めた。


(……ん?)


 彼ら以外に、あと二人の人物が、そこで話をしているようだった。一人は萌黄色の文官服に身を包んだ青年であり、年の頃はサーティークと同じぐらいであるようだ。もう一人はどうやら、彼付きの召し使いといった出で立ちだった。


(……もしや。)


 ヴァイハルトはそちらへ近づきつつも、先日、北の城塞で受け取った書簡の内容を反芻していた。

 実はこの青年王の文章はいつも端的にすぎて、理解不能のことも少なくない。その癖「意味が分からん」と問い合わせると、「こんなことも理解できんのか」とばかりに、更に小馬鹿にしたような書簡が返ってくるので、実に業腹なのだった。

 しかし、今回はとくにその言いようがふるっていた。


『妙なものを拾ってきた。会わせておきたいから戻って来い』。


 そう言うからには、相手は人間で間違いないのだろうとは思ったが、重要な城塞での任を置いてまで、自分が王都に戻るほどのことなのだろうか。

 実のところ、北の城塞にも、このところ奇妙な噂が流れてきていた。

 それは勿論、「王が南の辺境から拾ってきた、謎の優秀な算術教師」の噂である。

 となれば、サーティークが自分に会わせたいという相手は、その男で間違いないのだろう。


(ふざけた相手だったら許さんぞ。)


 と、そんなことを思いつつも、一応相手は義弟だとはいえ国王である。ヴァイハルトは仕方なく、言われるままにはるばるここまで戻った訳だ。


(まさか……こいつか。)


 ヴァイハルトは、外出着を着た青年王と老人に壁に追い詰められるようにして立っている、その文官姿の青年を素早く観察した。

 装束は萌黄色で、中級文官のそれである。柔らかそうな濃い茶色の髪に、茶色の瞳。全体に、非常に優しげで柔らかい印象の青年だ。というよりも、自信なさげと言ったほうがいいのかもしれなかった。

 今も、目の前に立つ高貴な二人にあれこれ言われて、おたおたと手にした書類やらなにやらを床に落としてみたりと、やたら落ち着きがない。


 ヴァイハルトは妙な既視感を覚えつつ、しかしその原因には思い当たらないままに、何故か不快な気分に襲われた。

 なにより、彼の相手をしている青年王とマグナウトが、なにか楽しげに見えるのが非常に気に食わなかった。


「ヴァイハルト! 戻ったのか」

 青年王がこちらに気付いて、早速彼を紹介した。

「ユウヤ中級一等だ。先日来、算術の講義を受け持ってくれている」


(……やはりか。)


 ヴァイハルトは心中、舌打ちした。

 彼らに近づいてから後も、気分はもやもやと、鳩尾のあたりで停滞したままだった。

 そして思わず、慌てたように挨拶をしてきたその青年に、必要以上に硬質な声で応えてしまった。普段、基本的には人当たりが良く、物柔らかな自分にしては珍しいことだった。態度も恐らく、彼にとっては十分「怖い」と思えるようなものだったろう。


 それについては、後から隣にいたマグナウト翁に、こっぴどく釘を刺されることになってしまった。

 老人は、やや悲しげな目をしてこう言ったのだ。


「陛下は、あのお方にだけは、かつてのような笑顔をお見せになられる」

「そのようなことはこの王宮で、あれ以来、絶えて久しくなかったことじゃ」

「そう、かつてこの王宮で、そなたの妹御いもうとごに向けておられたような、心よりの笑顔をの――」


(なんだと……?)


 ヴァイハルトは、それで初めて、自分の不快感の理由を悟った。


(……そうか。あの男――)


 ここで初めて、思い至ったのだ。

 男であるにも関わらず、先ほどのユウヤという青年が、慌て者でそそっかしかったあの妹に、ひどく似た雰囲気を持つ人物だということに。



                 ◇



 やがてその後、改めてサーティークからその正体を聞かされた時、ヴァイハルトは心底、驚愕させられることになる。

 彼はなんと、かの北の王国フロイタールの国王、ナイトの「影武者」を務めていた男だった。それも、にわかには信じがたいが、この世界ではないどこか遠いほかの世界から、《鎧》の力によって召喚された者だというのだ。

 なるほど、目の前で自分たちの戴く国王陛下を奪われておきながら、何故あの北のフロイタール軍が怒り狂って攻め寄せてこなかったのかが、これで分かろうというものだった。たかが「影武者」ごときに、大軍を動かす馬鹿もあるまい。


 しかしまあ、何と言うのか、本人はそんな様々の複雑な事情が信じられないほどに、ひどく普通の、いやその歳の男にしてはだいぶ涙もろいようだったが、ともかく普通の青年だった。

 彼は彼なりに思うところがあり、こちらの国の事情、とりわけあのサーティークが何故フロイタールを攻めるのかを知りたがっている様子だったが、何しろ引っ込み思案というのか嘘のつけない性格というのか、考えていることが態度の端々から丸分かりなのだった。とても隠し事のできる性質たちではない。

 そんな所さえあの妹を彷彿とさせるようで、ヴァイハルトは彼の顔を見ると、なにかやるせない胸の痛みと共に、不思議な温かさをも覚えるのだった。


 やがて、彼を妹の眠る陵墓に連れてゆき、彼の涙を見るに至って、心の奥底にわだかまっていた最後のものは、遂に拭い去られたような気がした。


 彼は、彼だ。

 レオノーラと非常によく似た雰囲気を持つことは、別に彼の罪ではない。

 むしろそれが、長きに亘って凍り付いていたあの義弟の心を解かす契機になるというのであれば、それに越したことはないではないか。

 事実、サーティークはあのレオノーラの非業の顛末を、遂にこの青年に話したという。それはここまでの経緯を知る自分にとってもマグナウトにとっても、まことに驚くべきことだった。

 そして間違いなく、大きな喜びでもあった。


 語れるようになる、そのことは、思った以上に大きいことだ。

 心の奥底にわだかまり、こびりついていたその感情を、あの青年王は遂に、他人に話すことが出来たのだ。

 それを可能にしてくれたのは、他ならぬあの「普通の」青年だった。

 それがどれほどの意味を持つことだったかを、恐らくあの青年は知らないだろう。


 だから、ヴァイハルトは感謝している。

 サーティークの心と共に、

 あの時、自分の心も恐らく、同時に救われたのだと思うからだ。


 それ以降はヴァイハルトも、次第にあの宮宰マグナウト翁同様、彼をそのまま、こちらに迎え入れる気持ちになっていったのだった。



 そして、もうひとり。

 ここで必ず言及しておくべき人物が現れる。


 なんとフロイタールには、サーティークとそっくりの相貌をした、もう一人の青年がいるというのだ。彼もまた、あのユウヤと同じく《鎧》の力によって、異なる世界からやって来た男だというのだった。

 サーティークはその男と、「夏至の日」の作戦時、ほんの数瞬ではあったものの、あちらの国でやいばを合わせてきたのだという。


 それは恐るべき剣勢を持つ、見るからに清廉そのものの青年だった。

 その名を「アキユキ」と言うのだと、あのユウヤは語ったという。


 やがてその「アキユキ」が、ヴァイハルトにとっても非常に重要な意味をもつ、とある驚くべき人をもたらしてくれる人物であることを、この時のヴァイハルトはまだ知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る