第2話 拳

 王族の陵墓は、王都クロイツナフトから馬で四半刻ほども北上した場所にある。

 臥せっている両親を兄の家族に任せて、ヴァイハルトはそこへと向かう街道上を、愛馬・白嵐ハクランに駆けさせていた。将校の着る灰色の軍服に身を包み、腕には、王都で求めた白い花束を二束、抱えている。


 王都の中心部にあるいちの立つ広場も、いまやかつての賑わいがすっかり嘘だったかのように、ひどく静かなものだった。それでも、生活のために商売をやめるわけにもいかず、商売人たちはいつもの元気な客引きの声は上げないままに、そこで店を出していた。

 花屋を覗くと、いつもは色とりどりの花々で溢れているのであろうその大小さまざまの水瓶には、墓参に使うことの多い、この白い花ばかりが置かれていた。しかし、今のヴァイハルトにとってそれは、むしろ好都合というものだった。



 広く開けた王家の陵墓の区画に到着すると、ヴァイハルトはそこの入り口を守る衛兵に、ディートハルト兄から渡された許可証を見せ、中に入った。

 先日、大々的な葬儀の執り行なわれたその場所は、中央の巨大な円い墳墓とその脇にある小ぶりな墳墓の前が葬儀用の花々で埋め尽くされており、いつもよりも賑やかに見えた。それが心なしか、皮肉に思われた。

 墳墓の前には今はだれもおらず、真夏のぬるんだ風が時折り吹きすぎるだけで、なにか閑散とした風情だった。


 ヴァイハルトは、まず大きな墳墓の前にゆき、そこへ花を手向けて膝をつくと、しばらく目を閉じた。そうしてまた立ち上がり、その脇にある小さな墳墓へと足を向けた。

 小さな墳墓の石版には、新しく彫り付けられた人の名が刻まれていた。

 白い手袋を外し、その文字の羅列をそっと撫でてから、ヴァイハルトはもうひとつの花束をそこへ手向けた。花を生けるための水盤には、先日の葬儀のときのものらしい大きな花束が置かれていたが、その脇に、橙色や桃色の花でまとめられた、小ぶりな花束が置かれていた。

 ヴァイハルトは、しばしその花束を見つめていたが、やがてここでも片膝をつくと、こうべをたれて目を閉じた。


 不思議と、涙はこぼれなかった。

 此処にあるのは、もはやあの愛しい人の抜け殻だけなのだという思いが、どうしても拭い去れなかったせいかもしれない。

 彼女の命は、恐らくあの南方の、《黒き鎧》から旅立った。


(すまなかった……レオノーラ)


 それでも、ヴァイハルトはその人に語りかけた。

 風がさらさらと、手向けた花の花弁を揺らしている。


(お前を守れなかった兄を、許して欲しい……)


 そうして胸底から溢れ出すのは、狂おしいまでの悔恨だった。


 こんな事なら、決してあの男に、お前を渡しはしなかったものを。

 かの不届き者らが求めていたのは、別にレオノーラ本人ではない。

 ただただ、その身に宿っていた、まだ日の目も見ない赤子の方だったのだから。


(……誰でも良かった。)


 人非人にんぴにんいいであることは百も承知で、そう思う。

 別にそれは、どこかほかの、見知らぬ貴族娘でもまったく構わなかったはずなのに。

 あの「夜会」で、王宮の大広間にわんさかと集まっていた少女たちのだれでも、なんの問題もなかったはずだ。それを。


(何故、よりにもよってレオノーラが――)


 それがあの、レオノーラでなければならなかった理由は何だ。


 兄妹でなければ、

 兄妹でさえなければ、いっそ――。


 彼女を連れて何処かへ……などと、夢想したことすらあるというのに。

 もちろんそんな不埒な思いは、湧きあがってきた途端幾度となく、ヴァイハルトは即座に振り払ってきた。そうしてただ、あの子の「優しい兄」として、彼女の前に立ち続けてきた。

 ……そう、ずっとだ。


(……だが。)


 それに、何の意味があったというのか。


 こんな事になるとわかっていたなら、そのような人界の、瑣末なかせなどかなぐり捨てて、彼女の意思さえ無視しても、連れ去ってしまえばよかったのだ。

 あの男の手も届かないほど遠くへと、彼女を連れて逃げればよかった。

 こうして今、彼女のの前に花を手向けることになるぐらいなら、どんな規範も常識も、飛び越えられなかったはずはないのだから。


(……愛していた。)


 は唐突に、ヴァイハルトの胸の中ではじけた。

 一度はじけてしまったら、それは次々に泡のように膨れ上がって、あっという間にヴァイハルトの胸をいっぱいに満たしてしまった。


(愛していたんだ……俺は。)


 兄としてではなく、ただ、一人の男として。

 今ごろ気付いたところで、何も、どうにもなりはしない。

 そんなことは、分かっている。


 むしろそれでよかったのだと、父母や兄たちが聞けば言うだろう。

 たとえ本当に彼女に伝えることが出来たとしても、

 あの子はただびっくりして、それこそあの日のように、

 その場から逃げ出してしまったに違いないのだ。


 しかし。


 その想いはもう、どこへも行けない。

 もう誰も、聞いてくれることもない――。


 ぎりぎりと、血の滲むほどに奥歯を噛み締める。


「レオノーラ……!」


 ヴァイハルトは、顔を覆って、ただ、叫んだ。


 掠れたその慟哭は、ひび割れて殆ど音にはならず、

 そのままばらばらと地面に落ちて、

 そこに浸み込んでいっただけだった。



               ◇



 どのぐらいの時間、そうしていたものか。

 ヴァイハルトは、じっとそこに片膝をついたまま、片手で顔を覆って俯いていた。

 真っ赤な太陽が西に傾き始めて、周囲の日差しは穏やかになり、陵墓の周りを囲む高い柵の影が長く地面にのびていた。


 ……と。


 かつ、と背後で静かな足音がした気がして、ヴァイハルトはのろのろと目を上げた。

 そのままの姿勢で、ゆっくりと振り向き、背後を見る。


「…………」

 その時のヴァイハルトは、ただ死んだような目をしていたと思う。

 相手が誰であるかを認めても、それは変わらなかった。

 その男の顔を見ても、特に何の感慨も浮かばなかった。


 男は手に、優しい色目の小ぶりの花束を抱えていた。美しかった黒髪は、なにか今は蓬髪と言ってもいいほどに乱れている。黒を基調にした王族の装束に黒いマントのため、なにか真っ黒な小山が立っているかのようにも見えた。

 相変わらずの、痩せて尖った相貌で、目ばかりがぎらぎらと白く光っている。

 相手の青年も、こちらを認めても特に何も言わなかった。そして黙って目の前を行き過ぎると、先ほど彼が置いた花束の隣に、もって来たそれを静かに置いた。ふと見れば、先王と王太后の眠る陵墓の祭壇には、すでに同じ花束が添えられていた。


 彼がヴァイハルト同様、その場に膝をついて目をつぶり、陵墓のかの人に心の中だけで語りかけている間、ヴァイハルトはその後ろに立って、黙ってそれを見つめていた。

 やがて彼が目を開けて立ち上がり、踵を返したのに合わせ、自分もその場を後にした。二人は黙って、陵墓の入り口から外へ出た。


「……陛下」

 入り口を一歩出たところで、押し殺した声でそう話しかけたが、サーティークはそれを素早く片手で制した。すぐ近くで聞いている、衛兵の目を気にしたのだろう。即座にそれと察して、ヴァイハルトは口を噤んだ。

「ついて来い」

 ただそう言って、サーティークは青嵐セイランに跨ると、もうあとも見ないで行ってしまうようだった。ヴァイハルトもすぐに白嵐ハクランに騎乗して、疾駆する青年王を追いかけた。


 そこから少しばかり馬を駆けさせて、青年王が足を止めたのは、周囲になにもない、ただの荒地だった。農村や畑などからも離れており、石のごろごろしただだっ広い草地である。

 赤い西日と、反対側の遠くの山のにあの「兄星」が白い顔を覗かせている以外、ただ頭上には夏の夕空が広がっているばかりだった。

 なるほど、ここなら少々の物音も誰にも聞かれるはずはなかった。


 サーティークが下馬して、近くの立ち木に馬をつなぐ。ヴァイハルトも同様にして、青年王に向き直った。

 サーティークは無言だったが、その態度は明らかに「話があるならここで聞こう」と言っていた。


 ヴァイハルトは、しばらくそんな青年王をじっと見つめていたが、やがて出し抜けにこう言った。

「……なぜですか」

 青年王は、やはり無言である。

 ヴァイハルトは一歩、彼に近づいた。

「なぜ……、あの子が、こんな目に遭わねばならなかった――」

 書いたものをまるで棒読みするように、ただ平板な声が流れ出た。

 サーティークは微動だにせず、ただ目の前に立っている。

 その口も、瞳も、わずかも動きはしなかった。そしてただじっと、ヴァイハルトの相貌を見返していた。まるで、人形かなにかに話しかけているようだった。


(……なぶるのか。)


 この期に及んで、まだ、俺を。


 ヴァイハルトはぎゅっと拳を握り締め、初めて相手をぎらっと睨んだ。

 ぐらぐらと、今はじめて、はらわたから煮えあがるような何かが突き上げてきた。


「……答えろッ!!」


 その途端、あらゆるものが爆発した。

 ヴァイハルトは青年王に一気に駆け寄ると、渾身の力を籠めて、拳でその片頬を張り飛ばした。


 もはや、「敬意」など忘れていた。

 「殺さば殺せ」と、そう思った。


 いや、いっそ殺して欲しかった。


「なぜだ……、なぜ、だああああッ……!!」


 二発、三発と、ヴァイハルトは青年王の顔を殴り続けた。

 サーティークはその場を一歩も動かずに、ただ黙ってその拳を受けた。

 青年王の唇は切れて、赤いものが滴った。

 だが、それでも彼は何も言わず、なんの抵抗もしなかった。それどころか、声のひとつも上げなかった。そしてただ、ヴァイハルトの目をじっと見つめているばかりだった。


 四、五発も殴ってから、ヴァイハルトは自分の方がよろめいて、サーティークから少し離れた。

 肩で大きく息をしながら、相手をにらみつける。


「なぜ……、なんだ――」


 食いしばった歯の間から出る、その言葉の語尾は震えて、空中にわだかまった。

 あらん限りの力を籠めて、ヴァイハルトはまた拳を握り締めた。


「貴様は……、王だ」

 言ってまた、ふらりと青年王に近づく。

「その貴様が、なぜ……、なぜッ……!」

 振り上げた拳で再び、彼の顔を殴りつけた。


 『何故、死なせた』。


 『なぜ、守り切れなかった』――。


 何度も何度も、頭の中を回り続けていたその言葉が、今やすべて拳になって、目の前の男の顔に降り注いだ。

 やがて、力が緩んで速さを失ったその拳を、青年王の片手ががしりと受け止めた。そのままぎりぎりと、力を籠めて握られる。

 サーティークは、その半分を赤く腫らし、口許を血塗れにした顔で、それでもじっとヴァイハルトの目を見つめていた。その目にはやはり、涙はなかった。

 零れた声はもう、隠しようもなく震えていた。


「か……、えせ――」


 あの子を、今すぐ。


 気が付けばヴァイハルトは、もうぼろぼろと涙を零していた。それはもうとどめようもなく、次から次へと滴った。

 必死に奥歯を噛み締めるが、それでも漏れ出す嗚咽をこらえることも難しかった。


「返して、くれ……!」


 もう片方の腕も拳ににぎって、今度は力なく、「返せ」、「返せ」とひと言ひと言いいながら、相手の胸元を虚しく叩いた。


「お前、ならと……思ったから――」

 とす、とすと男の胸に力のない殴打を繰り返す。

「だから、俺は……」


 そこまでだった。

 両腕で彼の胸元を握り締め、ヴァイハルトはあとはもう、何ひとつ言えなくなった。

 溢れ出たもので視界はぼやけ、憎い男の顔も何もかも、熱い雫で見えなくなった。

 今はただ俯いて、必死に嗚咽を堪えるだけだった。


 サーティークは、やっぱり何も言わなかった。

 左目は、腫れあがった瞼に隠れてもう見えなくなりかかっていたけれども、それでも自分の胸にとりついて肩を震わせている義理の兄を、ただじっと見下ろしているだけだった。

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