第5話 変貌

 ヴァイハルトは、何も知らなかった。

 その時にはもう、自分がこの世の誰より愛したその人が、この世の人ではなくなっていたということを。


 その知らせが届くまで、ヴァイハルトは殆ど寝る間も惜しんでバシリー一党の行方を探し、またかの一党に連なる人々を次々に捕縛しては地下牢に放り込んで厳しい「詮議」を続け、己に課せられた使命をただ淡々と果たしていただけだった。

 やがてその恐ろしい一報が早馬によって王城に届き、即刻、国王不在のままに「御前会議」が招集されて、真っ青な顔色の将軍たちや宮中伯らが、続々と会議の間へと集まったようだった。

 それでもまだ、ヴァイハルトを初めとする王城にいるほかの臣下には、起こったことのほんの一部ですら公表はされなかった。


 会議の間から出てきた面々は、やはり一様に青ざめた表情のまま、言葉少なにそれぞれの持ち場へと散っていった。その中には、伯父・ザルツニコフの姿もあったのだが、王宮の廊下の隅から自分を見ているヴァイハルトに気付いても、ただ一瞬はっとしたような顔になっただけで、何も言わずに大股に自分の執務室へと戻って行った。ただ、その黒々とした髭がびりびりと震えるように見えたのは、明らかな憤怒の表情だったかと思う。

 上官からの命令は今までどおり、「バシリー一党の関係者を洗い出し、全てを捕縛したうえ、厳しく詮議せよ」というものだった。



 そして、二日後。

 国王サーティークが、老マグナウトと共に秘密裏に帰城した。

 王太后ヴィルヘルミーネも、王妃レオノーラも、戻ってはこなかった。


 その知らせを受けてすぐ、ヴァイハルトは事実を確認するべく青年王への面会を求めたが、あっさりと拒絶された。何かの間違いではないのかと、何度も担当の文官に問い合わせたが、何度訊いても答えは同じだった。


(何を考えてるんだ、あの王は――。)


 攫われた当の王妃の実の兄である自分に対して、なんの報告もしないつもりか。

 一体、レオノーラはどうなったのか。

 胸も潰れんばかりにわが娘の身を案じているあの父母に、なんと言って報告せよというのだろう。

 ただただ、嫌な予感ばかりが真っ黒に胸をいた。


 出来ることならヴァイハルトも、王の執務室に怒鳴り込んでやりたかった。

 しかし、臣下の身でそれは許されぬことだったのだ。


 そして、翌日。

 その「蛮政」は始まった。

 サーティークは、持てる限りの部下を使って、ノエリオール王国じゅうのありとあらゆる「《鎧》信仰擁護派」の人々を拘束し始めた。勿論ヴァイハルトに対しても人を介してその命は下り、彼も部下らを連れて王都やその周辺地域にまだ潜んでいると思われる、バシリー一党やその家族らを捕縛する任に当たることになった。

 しかしその命令は、過酷なまでの厳しさを備えていた。

 今までのそれとは、まったくの別物と言ってもよかった。


 ともかくも、この件に関わった一族郎党、女子ども、老人から赤子に至るまで、虱潰しにして捕縛せよと言うのだ。これまでなら多少の「袖の下」だの「コネ」だのでお目こぼしに預れたような立場の者まで、一切、なんの温情もかけてはならぬと、それは厳しいお達しだった。

 そして、捕縛されてきた人々は、さほどの「詮議」もされないままに、あっという間に厳しい「拷問」へと移行された。そればかりではない。早い者ではなんとその捕縛された翌日にも、死刑執行人の手にかかって斬首された。


 王都の人々は、戦慄した。

 石畳の敷かれた目抜き通りには、日々、ひっきりなしに太い鉄格子の嵌まった檻馬車が行き来して、各地から捕らえられて来た「《鎧》信仰者」らが次々と王城の地下牢に収監されていた。

 王都の人々は自分の家の門戸を固く閉ざして、決してそれらの人々を見ようとはしなかった。彼らを少しでも憐れみ見るような目をした途端、国王直属の「《鎧》信仰者捕縛部隊」とでも呼ぶべき武官の一団が、家の中になだれこんでくるようなこともしばしばだったからである。


 「陛下はきっと、気狂いに陥ってしまわれたのだ」と、王都のそこここで囁かれぬ日はなかった。

 かの賢王ナターナエルから王座を継いで後、ごく知的で聡明な青年王は、決して暴政などはしていなかった。寧ろ国力を上げるべく、各地に出向いては農地の開墾だの治水だのといったことにも熱心だったし、能力のある若者はその身分に関わらず登用したりして、民たちの評判もすこぶる良かった。

 そんな、年に似合わぬ英明さを発揮していたはずの青年王が、なぜ此処まで豹変したのか、それをいぶかしまぬ者とてなかった。

 それはもちろん、ヴァイハルトとて同じ気持ちだった。


 やがて、巷には彼に対するかんばしからざる呼称が密かに囁かれ始めることになる。


「狂王、サーティーク」。


 それはそのまま間違いなく、その時の彼を過不足なく表現した呼び名であった。



                 ◇



 ヴァイハルトが、その父と母を連れて王宮に伺候するようにとの要請を受けたのは、それから数日後のことだった。

 どす黒い暗雲の垂れ込めたような王都クロイツナフトの異様な雰囲気の中、怯えきった父と母は、屋敷の門を閉ざしてひっそりと息を殺すようにして過ごしていた。怯える二人を宥めすかして、ヴァイハルトは二人を連れ、ノエリオール宮、国王の謁見の間へと足を運んだ。


 ノエリオール宮は、一変していた。

 建物は勿論もとのままだが、その雰囲気が以前とはまったく変わってしまっていた。

 先王を失ったその時、やや翳ったその雰囲気が、今ではレオノーラの懐妊もあり、すっかり元のような明るさを取り戻しつつあったというのに。今はそれが、真夏であるのにもかかわらず、空気までが厳寒のごとき冷たい沈黙に凍り付いているかのようだった。

 衛兵も、廊下で雑務をする召し使いや女官たちも、青ざめた顔でなにかびくびく、こそこそと落ち着かない様子に見えた。


(無理もない……。) 


 父母を伴って廊下を行きながら、ヴァイハルトは暗澹たる溜め息をついた。

 今ではほんの僅かの讒言ざんげんでも、「《鎧》信仰者」だと疑われた者は、王宮仕えの者であれ高位の貴族連中であれ、だれかれ構わずに地下牢送りになっているのだ。そして恐るべき早さで処断が下され、もう翌日には、死刑執行人の処刑用の斧の錆になっていることもざらだった。

 ただ、全く関係のない恨みを理由にして嘘の讒言をした者には、当然ながら厳しい処断、つまり死罪が言い渡されることになっている。今のヴァイハルトにはそのことで、「冤罪」の悲劇が少しでも減じてくれるようにと、ただもう祈ることしかできなかった。



 国王謁見のに入り、そのだだっ広い空間に両親と三人でひざまずいて、ヴァイハルトはその相手を待った。


(ようやく、会える――)


 その男に会ったら、罪に問われようがなんだろうが、ともかくはっきりと事実を聞くのだ。必要とあらばその胸倉を掴んででも、きちんと説明させてやる。

 ヴァイハルトはずっと前から、そう心に決めていた。

 と、「陛下のお成りです」との控えめな文官の声がかかって、頭を下げた三人の前方で、ずかずかと大股にやってくるその男の足音が聞こえた。雛壇の上に、どかりと腰掛ける音がする。

 相手はどうやら、雛壇上の自分の玉座ではなくて、雛壇そのものに腰を掛けたようだった。つまり今、彼は自分たちの目の前にいる。


おもてを上げよ」

 低く、錆びたような声音がした。

 両親が恐る恐る頭を上げるのにあわせて、ヴァイハルトも頭を上げた。


(…………!)


 そして、絶句した。


(な……。)


 両親も、ヴァイハルトの隣で凍りついた。


 サーティークの相貌は、恐ろしいまでに変容していた。

 思ったとおり、雛壇の縁に腰を掛け、片方の膝に肘を乗せるようにして、じっとこちらを見つめている。

 だが、その目がもう異様だった。


 一体、この青年は何日眠っていないのだろう。

 美しく、凛々しかった風貌は見る影もなく土気色に変わり、目の下にはひどい隈ができている。両眼だけが白くぎらぎらと滾るような光を湛えて、相手の魂の底まで見通すように鋭かった。頬はこけ、全体にその顔がひどく鋭い印象になっている。乱れた長い黒髪も、くしけずることなどとうに忘れているらしく、ぼさぼさで、まるで幽鬼のようだった。

 その髪の奥から、ひたとぎらつく双眸でこちらを睨みつけるようにして、青年王はしばし、黙ってそこに座っていた。


 誰も、何も言わなかった。

 隣に居る両親はもうすっかり怖気をふるって、がたがた震えているばかりだった。

 さすがに武官であるヴァイハルトは、驚愕は隠せなかったけれども、それでもその恐ろしいまでの王の視線をまともに受けて、しっかりと見返した。


(何があった……!)


 そこまでの青年王の様子を見れば、もう八割がた、何が起こったのかの想像はついた。しかし、事実は事実として、この場ではっきりと聞いておかなくてはならないのだ。

 あの大切な妹の身に、いったい何があったのかを。


「…………」

 それでもしばらく、地獄の使者さながらの姿の青年王はものを言わなかった。


 が、やがて。

 訥々と、ぽつぽつと、男は言葉を搾り出し始めた。

「……済まぬ」

 まずは、そんな言葉からだった。

 その声は、鉄錆を飲んだごとくに枯れきっていた。


「……許せ」

 ヴァイハルトと両親は、一言もなく、彼の顔を凝視していた。

「守れなかった。……済まぬ」

 ただそう言って、青年王は頭を下げた。

 言葉のひとつひとつが、まるで喉から血を搾り出すかのようだった。

 その瞳には、一粒の涙もなかった。というよりも、そんなものはここまでで、とうの昔に枯れ果てていたのだろうと思われた。



 サーティークは、話した。

 淡々と、ただ淡々と、あの日、この王宮から連れ去られてからのち、レオノーラの身に何があったのかを。

 両親は、互いをひしと抱き合うようにして、そこにうずくまり、ずっと震えながら聞いていた。

 ヴァイハルトは二人の肩を抱くようにして、その場に跪いたまま、やはりじっと青年王の目をまっすぐに見て、その話を聞いていた。

 その話は、気の遠くなるほど長いもののように思われた。だが、実際にはひどく短いものだった。


 やがて、ついに話が果て、再び謁見の間に、重苦しい沈黙が訪れた。

 ぐわんぐわんと、耳の奥で激しい痛みとともに真っ黒な渦が暴れ狂って、ヴァイハルトは眼前が暗くなるような錯覚を覚えた。

 うまく呼吸もできず、気がつけば床に片手をついて、必死に胸に空気を取り込もうと、荒い息をついていた。


 ……と。


「ウ……、オオオオオオゥオオオ…………!」


「ヒイ、イイイイ――アアアアア……ッ!」


 腕の下から、野獣のような唸り声が上がって、ヴァイハルトは正気を取り戻した。

 見れば、両親が顔を覆い、抱きしめ合いながらも床に突っ伏して、喉も裂けんばかりにして大声を上げていた。

 身も世もなく号泣している二人を力いっぱいに抱きしめて、ヴァイハルトもしばし、嗚咽を堪えて目を閉じた。


 無理もない。

 妹は、この王都に無事な姿で帰ってくることもできなかった。

 夏場の折、その亡骸を、ここまで傷めずに運ぶことは不可能だったのだという。

 だから青年王は、その母とともに彼女を向こうで荼毘だびに付した。その後、遺骨のみをこの地へ持ち帰ったとのことだった。


 ふと気付けば、その場に青年王の姿はもう無かった。

 すべき話はすべてし終えたと、そういうことらしかった。


 ヴァイハルトが呆然と、まだ号泣している両親を抱きながら彼の出て行ったらしい謁見の間の扉を見ていると、その傍に立っていた痩せた女官姿の少女が、青ざめた顔のまま、そっとこちらに近寄ってきた。

 レオノーラほどの年のその少女には見覚えがあった。

 確かレオノーラの側付きの侍女で、名をコリーナと言ったはずである。

 少女はひどくやつれて見えたが、大切そうに胸に抱いたある物を持って、少しよろめきながらも、両親の傍に膝をついた。


「こちらを……」

 少女の声も、掠れきっていてほとんど聞こえないほどだった。

「陛下から、です……」

 もうそれだけ言うのがやっとだったらしく、その声は途端に嗚咽と涙にまぎれ、震える手でもっていた物を父に渡すと、少女も顔を覆ってしゃがみこんでしまった。

 父、エグモントは涙とはなみずまみれの顔で、ようようそれを受け取った。

「…………」


 そして、三人はまた声を失った。


 それは、レオノーラの橙色の髪のひと房と、

 その色によく似合う、可憐な髪飾りだった。


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