第4話 バシリー
もはや永遠かとも思われるような、その箱馬車での強行軍がやっと終わったのは、一行が王都クロイツナフトを出てから三日後のことだった。
途中、短い時間ではあったものの、賊どもの協力者であるらしい貴族の家で何度か宿泊を挟んだのだったが、その屋敷に入る間、女性三人はみな猿轡と目隠しをされていた。迎えに出てきたらしい貴族や召し使いらも、かねて計画のとおりなのか、ひと言も発することなく、そのために準備された寝室へと案内されるだけだった。
遂に目的の場所に着いた時、レオノーラはもうふらふらになっていた。
辛い三日間の馬車の旅と、ずっと続きっぱなしだった不安や恐れといった精神的なものも相まって、腹部はずっと張っており、こめかみには脂汗が浮かんでいる。
王太后ヴィルヘルミーネは、そんなレオノーラを道中ほとんどずっと抱きしめるようにして、彼女を安心させるべく、いつも優しい言葉を掛けてくださっていた。
隣にいる侍女の少女コリーナも、自分自身ひどい不安で青ざめた顔をしていながらも、ずっと目に涙を浮かべながら、必死になってレオノーラの腰を擦ったり、汗を拭ったりしてくれていた。
「長旅、まことにお疲れさまにござりました」
見張りの武官らに促されて、ようやくのことで箱馬車から降りた三名を、枯れたような老人の声が穏やかに出迎えた。
見れば周囲は、
老人の声を受けて、ヴィルヘルミーネがじろりとその声の主を睨みつけた。
「バシリー……。そうか、そなたが首謀者であったのか」
固い声で自分を抱きしめたままの
うっすらと目を開けて見れば、数名の見るからに高位の文官らしい中年や老年の男らに囲まれて、ごく簡素な文官服に身を包んだ、背のひょろりと高い老人が立っているのが分かった。それは、レオノーラも王宮内でたまに目にした事のある、高齢の老人だった。
顔色は青白く、痩せた体躯に深い紫色の文官服を纏い、装飾品などはいっさい身につけていない。一見したところ、至極素朴な風情であって、穏やかな笑みを浮かべたその姿は、まさに「清貧」を絵に描いたように清らかげにも見えた。
しかしその瞳を見た時、レオノーラは本能的に、なにかぞっとするものを覚えて身を竦めた。
その目は確かに美しかった。いや、美しすぎた。
澄み切った深い深い泉の底をのぞくとき、人はそこに吸い込まれそうな気持ちになることがある。丁度、そんな気持ちにさせられるような、それは底のない「美しさ」だったのだ。
そしてその奥の奥、ずうっと深い場所には、なにか危うい、非常に脆いものが秘められているようにも思われた。
ぞくぞくと背中に怖気が走って、レオノーラにはその瞳をじっと見つめることがもう出来なかった。それで、甘えてはならないと思いながらも、つい優しく強い義母の胸に、自分の顔を
ヴィルヘルミーネはそんなレオノーラの頭を優しく抱いて、相変わらず毅然とした態度を崩さず、鋭い眼光でその老人を
「この子をどうしようと言うのです。身重の王妃をこのような目に遭わせて、そなた無事で済むなどとは思うておらぬであろうな?」
だが、王太后のその視線を、とぷりと深すぎる瞳の色で包み込むようにして、老人はけろりとしたものだった。そして、慇懃極まりない様子で深々と二人に礼をした。
「これは、王太后様。このような所までご足労頂きまして、まことに恐悦の極み」
「黙らっしゃい!」
ヴィルヘルミーネは声音で人が殺せるものならそうしているといわんばかりの、刺すような声で言い放った。
「今すぐにも、王妃を王都へお戻しせよ。さすればわたくしの一存にて、
「ほほ、ほ……、そのような」
「戯言を申されますな」と言わんばかりの顔で、バシリーが軽く笑った。
勿論、ここまでの時点で、王城の文官、武官らに事件の概要は完全に広がってしまっている。王太后一人が口止めしたところで、あの青年王の耳に事実が届くのは時間の問題でしかなかった。
「そのような覚悟でこのわたくしが、ここまでの事に及びましょうや」
言い知れない深みだと思われた老人の瞳が、さらに深くなったようだった。
「貴女様までもこちらへお連れしてしもうたは、
静かで温かにさえ聞こえるその声音は、レオノーラを心底、
「や、やめて……。お母様、お母様は……!」
この方は関係ないと、どうか王都にお戻しして差し上げてほしいと必死に言おうとするのだが、喉になにかがつかえたようで、それ以上は何も言えなかった。ただもうヴィルヘルミーネのドレスの胸元を掴んで、ぶるぶる震えているしか出来ない。
と、ついとバシリーが手を上げて、その傍に居た武官が一名、さっとこちらに近づいて来た。
はっとして、ヴィルヘルミーネとレオノーラは身を固くした。
「無礼者ッ! なにを……!」
が、ヴィルヘルミーネの声など無視して、武官は素早く手を伸ばし、無造作にレオノーラの頭から、あの髪飾りを抜き取った。男はそのまま足早に、バシリーの元へ戻ってそれを老人に手渡した。
レオノーラははっとして、それを見つめた。
「あ! そ、それは……!」
陛下がくださった、大切な大切な髪飾り。
この恐ろしい顛末に巻き込まれた時、あのどさくさの中、思わず身につけてきてしまったものだ。
これがあれば、きっと陛下がお守りくださる。
少しも現実的なことではなかったけれども、
レオノーラの中に、そんな縋るような気持ちがあったのは確かだった。
思わずそちらに手を伸ばして、レオノーラは掠れた声で叫んだ。
「か、返して……! それは――」
しかしバシリーは、まだ幼さの残る妊婦の少女の声など、まるで聞こえぬかのような風情だった。渡されたその橙色の可憐な髪飾りを、さも厭わしいものでも見るような視線でちらっと見やっただけで、すぐにその武官の手に戻してしまった。
「少々、お預かりさせて頂きまする。なに、用が済みますれば、即刻お戻しいたしますほどに――」
その老人が、それを一体何に使うつもりであるのか、レオノーラには分からなかった。しかし、どうやらヴィルヘルミーネにはぴんと来ているらしかった。
「そなたら……。この子を餌に、いったい陛下に何を求めるつもりじゃ?」
その碧く澄んだ瞳は、怒りの頂点に達してきらきらと
バシリーはやや沈黙したが、また静謐すぎるその瞳でこちらを見やると、普段どおりの声音で答えた。
「……なに。この国の臣下として、当然のことを申し上げるまで」
「…………」
王太后が押し黙る。
空中で、彼我の視線が音を立ててぶつかり合うようだった。
「この身を賭しても、今はかのお若すぎる陛下をお諌め申し上げねばならぬのでござりまする――」
それだけ言って、老人は、ついとこちらに背を向けた。そのまま背後に連れていた馬に騎乗し、森に囲まれた細い山道を辿っていく様子である。
その痩せた背中には、この老人なりの、命を懸けた覚悟のほどが仄見えた。
王太后ヴィルヘルミーネはその後ろ姿を、やっぱり焼き殺さんばかりの視線で睨みつけていたが、軽くレオノーラの背に当てた手でそこを叩いて静かに言った。
「心配しなくても大丈夫です。
「…………」
涙と埃に汚れた顔を上げ、レオノーラは
「あの子を信じてやろうではありませんか、レオノーラ」
ヴィルヘルミーネの声には、決然とした覚悟がはっきりと表れていた。
「…………」
レオノーラもしばし沈黙し、旅の埃に汚れてはいてもやっぱり輝くばかりの母たる人を見上げて、少し眩しそうな顔をした。そして、からからに乾いた喉をこくりと鳴らすと、ひとつ、しずかに頷いた。
やがて武官らに促され、馬を与えられて、レオノーラはヴィルヘルミーネと共に騎乗し、コリーナは武官の一人とともに馬に乗せられて、沈黙のままに山の小道を入っていった。
一行はまるで葬列のような静けさで、ただ淡々と木々の間を抜けてゆく。
周囲は静かで、しっとりと健やかな緑に包まれ、時折りおだやかに、鳥の声や川のせせらぎがどこかから聞こえてくるばかりだった。
レオノーラとヴィルヘルミーネが、生きてこの道を戻ることは遂になかった。
その忘れえぬ「夏至の日」が、こうして始まったのである。
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