第3話 逃避行
「よ、鎧……? あの
「王妃さまと王太后様をお攫い申し上げるなど、めめ、滅相もないことにございます……!」
「わ、わたくしは何も知りません! 聞いたこともございません……!」
王宮内部の地下牢で、恐怖に顔を引きつらせて喉を絞るように叫んでいるのは、事件から数刻後に捕らえられた貴族の男たちだった。
ここは、ノエリオール宮の地下深くに存在する、地下牢の一角である。
城の片隅から石造りの螺旋階段を下りた場所には、地面深くに穿たれた巨大な地下牢が存在するのだ。それは、数百年に及ぶこの国の、まさに暗黒の歴史を体現する場所でもある。ごつごつした岩壁のあちらこちらにある染みのひとつひとつに、ここに入れられた人々の怨念と慟哭が塗り篭められているのだ。
空気は澱み、長年にわたる経年もあって、そこは独特の腐臭に満たされていた。暗い灯火の作り出す
今そこには、捕らえられて来た貴族や高級武官の子弟や親族が、次々と放り込まれては、担当の武官らから厳しい「詮議」を加えられていた。素直に事実を述べない者は、当然ながらすぐにもそれは「拷問」と呼ばれる段階へと移行した。
もっとも、幸いにして、口の堅い者はさほど多くはなかった。
なんと言っても、相手は甘やかされた境遇に育ってきた貴族連中の子弟である。拷問部屋の隅に置かれた、どす黒く変色した血糊の跡のついた大小様々の拷問具を目にし、ごつい体躯にいかつい顔をした武官どもの白い
とは言え、そうして語られる内容には、さしたる有益な情報は見つからなかった。
かのバシリーを初めとする高級文官らの一党は、まことに秘密裏に今回の計画を立てたらしい。彼らの妻子も親族も、その計画のごく僅かの部分さえ耳にしたことはないらしかった。なによりも問題だったのは、それら妻子を事前にどこかに隠した上でこの計画に及んでいる者が多かったことである。
それらの家族については当然ながら追手をかけ、王都ばかりか各地域の小都市や農村地帯まで、虱潰しに探すように厳命を下してある。
ヴァイハルトは地下牢の一室で、じりじりしながらそれら「詮議」の様子を部下らの背後からしばらく観察していた。が、やがて眉間に厳しい皺をたてたままの顔でそこを後にした。
(何もかもが、後手だ……。くそっ!)
思わず、通路の石造りの壁に拳をぶち当てる。
そこにずらりと並んだ分厚い鉄扉の奥からは、女々しい男のすすり泣きや「助けてください」「どうかお許しを」という、哀願の声が響き渡っていた。中には、確かに女や子どもの声も混じっている。
しかし、ヴァイハルトはそれらの声すべてを無視して、ただ大股に長い石段を上り、自分の執務室へ戻っただけだった。
後からついてきていた若い補佐の武官が、やや青ざめた顔で「茶でもお持ちいたしましょうか」と言うのを片手で制して、ヴァイハルトは腕を組んだまま、捕らわれた猛獣さながらにうろうろと部屋の中を歩き回った。
(追跡の部隊は、何をやってる……!)
奴等がレオノーラを連れて逃げた方向はほぼ特定できているというのに、早馬の騎馬兵らがいまだにそれを発見できずにいた。
出来ることならこの自分も、愛馬「
肉親の情が、冷静であるべき場面でその判断を鈍らせることは無理からぬ話である。
そうした者を事件に直接関わらせないことは、古くからこの国の軍内部での常識だった。
仕方なく、この切羽つまった場面において、ヴァイハルトはぎりぎりまでその理性を保たせつつ、己に課せられた使命を果たし続けるしかなかった。すなわち、この一連の事件の首謀者であるバシリーとその一族、及び協力者とその一族の身柄を一刻も早く拘束し、必要な「詮議」を加え、事実関係の洗い出しを急ぐことである。
それと共に、追跡隊へ間断なく早馬を走らせて、明らかになった情報をなるべく早くそちらに知らせることにも怠りなかった。
伯父である竜将ザルツニコフも、王妃レオノーラの伯父であるがために、直接の捜索隊への参加は許されなかった。やむなく彼も、ヴァイハルトと協力して、王都とその周辺の「反逆者」の一党の捕縛と詮議の任に就いている。
しかし、頼みの綱である捜索隊からの吉報はいっさい聞かれることもなく、ただぐずぐずと、時間ばかりが無為のままに過ぎていった。
「せめて《鎧》の場所を正確に知るものが、もう少し王宮内部にいてくれればな――」
溜め息混じりにザルツニコフがそう言う声にも、焦燥の色が露わだったが、今更そう言ったところで、何の益にもなりはしなかった。
ヴァイハルトは「詮議の間」に時折り顔を出す以外は、自分の執務室に籠もって様々の報告をまとめ、判断し、上へその報告をあげて部下らに次の指示を出す以外、できることもなかった。
そうして情報部門の武官ら全員がほぼ不眠不休の中、レオノーラの行方は
「夏至の日」の到来である。
◇
がたがたと、箱馬車が激しく車輪を軋ませている。
向かい合わせになった座席の片側に、王太后ヴィルヘルミーネが、王妃レオノーラをその胸に抱きしめるようにして座っている。その脇に、侍女コリーナが、やはりレオノーラの体を庇うようにして座っていた。
ヴィルヘルミーネはずっと向かいの座席に座った武官の男二人をじっと、凄まじい目で睨み据えている。
レオノーラは半ば気を失ったような状態で、顔色はもう真っ青だった。その頬は、埃と涙ですっかり汚れている。必死に嗚咽をこらえるようにして震えているコリーナも、似たようなものだった。
王都を出て、はや二日。
あの日の深夜、寝所で休んでいたレオノーラは、いきなり部屋に飛び込んできた武官らしき男ら数名にあっという間に拉致された。彼らは皆覆面をつけマントのフードを深く被っていた。
すぐ隣の小部屋に休んでいた侍女のコリーナが飛び出してきて、大声を上げようとしたのだったが、即座に取り押さえられて猿轡をかまされた。
武官らはそれでも、一応夜着のままの王妃を連れ出すつもりはなかったようで、がたがた震えている侍女の少女に軍刀を突きつけて王妃を外出着に着替えさせ、二人にマントを被らせて連れ出した。レオノーラの髪には、このような事態にも関わらず、その色によく似合う、橙色の髪飾りが挿されていた。レオノーラは、まるで何かのお守りのように大切そうに、それに時折り手をやっていた。
やがて連れ出された後宮の廊下には、いつもならいるはずの女官らの姿はなく、いたとしても薬で眠らされて倒れた姿のものばかりだった。
そこへ、不意に王太后が現れたのである。
彼女は何か考えに耽ることでもあったのか、深夜であるにも関わらず、また夜着に着替えてもいなかった。
「曲者ッ! そなたら一体、何者じゃ!」
いきなり目を怒らせて一喝してきた長身のヴィルヘルミーネを見て、賊どもは一瞬、
「…………!」
レオノーラの顔が恐怖にひきつる。賊どもはどうやら、王太后ヴィルヘルミーネに手を掛けることは相当に躊躇われるらしかった。それは彼らが、間違いなくこの王家の臣下であることの証だったろう。
「手荒な真似はしたくありません。王太后様、どうかおどきを――」
覆面の下から発せられたその声を聞いて、ヴィルヘルミーネの柳眉がぴくりとはね上がった。そして、そのままずいと、こともなげに賊どもへと足を進めた。
「王妃をかどわかすこそ泥風情が、わたくしに何をほざくのじゃ?」
それは、相手を蔑みきった声音だった。
「娘をどうしようというのです。そなたら、よほど命が要らぬと見ゆるな?」
この王太后は、女だてらに若い頃はそれなりに、様々の武術もたしなんでいたやに噂されている。腕に覚えのある者らしく、動きは落ち着いた上に機敏そのもので、その背筋はぴんと伸び、その目も油断なく賊どもの動向を窺うやに見えた。
が、武官らがぐいと王妃の喉もとにさらに刃をたてようとしたのを見て、ヴィルヘルミーネはぴたりと足を止めた。
しばし、その場に恐ろしい沈黙が流れた。
レオノーラは猿轡を噛まされており、腕は後ろ手に縛られている。そばにいるコリーナも同様だった。どうやらこの娘は、レオノーラの身の回りの世話のために連れてこられたらしかった。
「…………」
ヴィルヘルミーネはしばし考える風にしていたが、やがてひとつ息をつくと、こともなげに言い放った。
「……よろしい。では、わたくしも同行します」
「は……?」
賊の武官らは、さすがにぽかんとして長身の王太后を見返した。レオノーラの瞳が驚きに見開かれる。それから必死に首を横に振って、猿轡の奥で悲痛な声を立てた。
ヴィルヘルミーネはにこりと笑って、そんな義理の娘を見返した。
「息子と約束したのですよ。この子をしっかとお守りすると」
それは勿論、国王サーティークその人のことであろう。
そうして言いたいことを言うだけ言うと、ヴィルヘルミーネは寧ろ賊どもを先導するかのようにして、ぐいぐいと大股に、後宮の出口へ向けて歩き出したのであった。
賊の武官らは呆然としたまま、もはや否やも言えずにレオノーラとコリーナを連れてその後に従って歩いていったのだった。
その後、合流した一味の文官、武官らも、腰に手をあててその場に傲然と立っている王太后殿下を目にして一様に驚き呆れ、絶句した。
が、それでも気を取り直し、彼女にも猿轡を噛ませて腕を戒め、箱馬車に乗せて王都を急ぎ離れたのだった。
それから、二日。
悪路もいとわず、全速力で走らされる箱馬車の揺れは、それは大層なものだった。後ろ手に縛られた姿勢ではとても持たず、三人は今では縄目を解かれて、猿轡もされてはいない。周囲は延々と続く農地や原野ばかりであって、彼女らがここからどう叫んだところで、誰の耳に届くはずもなかったからだ。また、たとえ女の足で逃げ出してみたところで、妊婦をつれて、何ほども逃げられるはずもなかった。
レオノーラの体調は、思わしくなかった。
さもあろう。このような極限状態、臨月になろうかという身重の体で、到底耐えられるものではなかった。
レオノーラは、食事など当然喉を通らず、やっと水を飲む程度のことで、時折り気を失う以外は、ぽろぽろと涙を零しては王太后への謝罪の言葉を繰り返しているばかりである。
「お母様……、申し訳、ございません……」
半ばうつらうつらと夢うつつででもあるのか、時折りそこに、かの青年王の名前も聞こえた。
「サーティーク、さま……ご、ごめん、なさい……」
そんな「娘」の言葉を聞いて、ヴィルヘルミーネはまた、ぎゅっとその体を抱きしめた。
「心配いりませんよ、レオノーラ」
このような極限でも、彼女の声は凛として力強かった。結い上げた黄金色の髪が零れてその
「貴女のことは、このわたくしが――」
このわたくしが、命に替えてもお守りしてみせるのだから――。
王太后ヴィルヘルミーネのその呟きも、鳴り轟く箱馬車の車輪の音にかき消され、虚しく霧散していったのだった。
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