第2話 失踪

 そして、「夏至の日」の四日前。

 サーティークは、マグナウト翁と十名ばかりの護衛兵らを連れて、件の《鎧》のある南方辺境へ向けて出立した。


 レオノーラとヴィルヘルミーネは、お付きの者らと共に、王城の入り口までサーティークとマグナウトの見送りに出た。

「では、留守を頼むぞ、レオノーラ」

 自分の愛馬、青嵐セイランに跨った青年王は、馬上から爽やかに笑ってレオノーラにそう言った。王族としてはやや簡素な旅装束に、黒マントの出で立ちである。

「はい。どうぞ、道中お気をつけて……」

 胸の奥から寂しい気持ちの湧き上がってくるのを抑えながら、レオノーラは精一杯の笑顔でそう答えた。往復の行程とあちらでの滞在期間を合わせても、せいぜい十四、五日のことだとは分かっている。それでも、何故かレオノーラの胸の中には、理由わけもなくもやもやとした霧のようなものが漂っていたのだった。

 それがいったい何であったのかがはっきりと分かるのは、残念ながらこれより更に数日後のことになる。

 隣に立つヴィルヘルミーネが、軽く肩を抱いてくれていた。

「陛下。くれぐれも、お気をつけて」 

 レオノーラとは対照的に、王太后はしゃんと顔を上げ、凛とした声で我が息子にそう言った。その声は言外に、「この子のことは任せておきなさい」と告げていた。

「はい、母上。では、行って参ります」

 馬上で軽く一礼し、馬首を巡らしてサーティークが速歩はやあしに駆け去ってゆく。もう振り向きもしなかった。箱馬車に乗ったマグナウト翁も、窓の内側からこちらへ一礼し、その後を追って行った。


 王都の石畳の上を駆け去ってゆく青年王の一行を、レオノーラとヴィルヘルミーネは、その姿の見えなくなるまで見送っていた。




 情報将校ヴァイハルトは、その時、自分の執務室で部下らから集められた報告書を前に、眉間に皺を寄せていた。

 はっきりとは分からないのだが、かの老人、バシリー宮中伯筆頭を初めとする「《鎧》信仰擁護派」の面々に奇妙な動きがあるというのだ。それはごく秘密裏に進められているらしく、いまだ何もはっきりとした概要はつかめていなかった。

 その上、彼らに最も近い場所へ潜り込ませておいた手下てかの士官や文官の数名が、このところ姿を消したり、高所から「過って転落して」命を落としたりということがちらほらと起こっていたのである。胡散臭いこと、この上もなかった。

 無論このことは、すでに南方へと出立したかの青年王サーティークと宮宰マグナウトにも即座に早馬を出して報告した。しかし、後日戻ってきた伝令によれば、それに対する返事としては「事件の詳細を調べ、今後ともよくよく注視しておくように」とのことだった。


 この時点でヴァイハルトは、その二人が出先で秘密裏に画策している、とある「計画」については預り知らなかった。

 そして、何よりもそのことが、その後の判断を狂わせたのだとも言えた。

 しかし、これもやはり、すべてが終わってみて初めて言えることでしかなかった。


(……まずいことにならなければいいが。)


 そうは思いつつも、確たることは何一つ浮かび上がってはこない。

 ヴァイハルトは、どうにも胸に忍び寄る焦燥を禁じえないまま、それでも部下らに更なる情報収集に努めるようにと指示を出し、事態を静観していたのだった。



                 ◇



 そして、翌日。

 その事件は起こった。


 翌朝、まだ相当に早い時間から、王宮内は騒然としていた。

 後宮付きの護衛兵の一人が血相を変えてヴァイハルトの私室の扉を叩いたのは、白夜で空は明るいものの、起床までにはまだ随分と間のある時刻だった。

 夜着の上にガウンを羽織ったヴァイハルトを前にして、護衛兵のその男は、真っ青な顔色でぶるぶる震えているようだった。一見して、ただ事でないことは知れた。

「なんだ! 何があった!」

 そう訊いたときには既に、胸の塞がるようなどす黒い予感が湧き上がっていた。


「お……、王太后様、王妃様……」

 護衛兵は掠れた声で、喉を絞るようにして言った。

「ご……ご失踪――」


「…………!」


 かッと目を見開いて、ヴァイハルトは一瞬、沈黙した。

 が、次の瞬間にはもう、相手の男の胸倉を掴み上げて怒鳴っていた。

「何と申したッ……! 貴様……!」

 そして、目の前が真っ暗になる幻覚に襲われた。

 よくよく聞いてみれば、それは「失踪」というよりは、深夜、秘密裏に後宮に忍び込んだ不届き者らによる「略取」とでもいうべきものだった。王太后ヴィルヘルミーネやレオノーラと共に、レオノーラ付きだった侍女の少女も行方不明であるという。

 とはいえこの白夜の期間の折、賊どもは夜陰に乗じることもできなかったはずだ。どうやら後宮内に、賊らの手引きをした者がいるようだった。


(しまった……!)


 ヴァイハルトはぎりぎりと歯噛みした。

 王宮内でサーティークに対抗する不穏な分子が様々に暗躍しているとはいっても、まさかあのレオノーラに直接にその影響が及ぶなど、僅かも考えてはいなかった。そもそも、畏れ多くも男子禁制の後宮に踏み込んで、王太后や身重の王妃を連れ去ろうなど、どんな狂人が考えた暴挙だというのだろう。

 そんな恐るべき真似をしでかして、奴らに何の得があるのか。


 かちかちと、思わずまた親指の爪を噛んでしまいながら、ヴァイハルトは忙しく考えを巡らせつつ素早く軍服を身につけ、部下らを呼んだ。すぐにも関連する情報を集めさせ、王太后とレオノーラの捜索を始めなくてはならない。

 捜索そのものは、元帥閣下の命により、竜将や天将などを初めとする将軍らが既に動き出しているとのことだった。それにみずから同行したいのは山々だったが、ともかくも、ヴァイハルトに最優先される仕事は情報集めだったのだ。

 下手人は間違いなく死刑だろうが、まずはその正体を正確に知る必要がある。その上で、下手に蜥蜴の尻尾切りなどさせないように、この愚挙に関わった者らを末端にいたるまで全て拘束せねばならない。そして一刻も早く、出来るだけの情報を吐かせるのだ。

 ともかく、全ては時間との勝負だった。


(よくも、身重のレオノーラを……!)


 矢継ぎ早の指示を受け、それぞれの持ち場に散ってゆく部下らの背中を見つめながら、ヴァイハルトはきりきりと胃の辺りに痛みを覚えて拳を握り締めた。

 その拳を、がつんがつんと、何度も己の額にぶつけ続ける。


(俺の失態だ……!)


 たとえ普通の体であっても、無理やりの誘拐騒動に巻き込まれるのは非常な苦痛を伴うはずだ。それを、あの身重のレオノーラが、いったいどうして耐え抜けるのか。その苦難たるや、想像を絶することだろう。下手をすればその一事だけでも、彼女の命に関わるはずだった。

「くそっ……!」

 がつっと、執務机に拳をぶち当てる。


(レオノーラ……!)


 力任せに噛み締めた唇の端から、じわじわと血の味がした。


(俺が、もっと早くに、やつらの企みを正確に見抜けていれば――。)


 それは、たぎるような自責と、後悔の念だった。

 が、ヴァイハルトはすぐに、そうした忸怩たる思いを無理やりにも自分の思考から切り離した。今は、そのような済んだことに拘泥こうでいしている場合ではない。

 レオノーラを探すのだ。そのために、首謀者と協力者の全てを炙り出すことこそ先決だ。自分はそのためにこそ、ここに居る。

 ヴァイハルトは素早く軍刀を腰にくと、黒いマントを翻し、捜索隊を指揮する将軍らの部屋へ向かうべく、大股に執務室を出て行った。



                 ◇



 部下らの迅速な働きにより、賊どもの足取りはわりあいに早く掴めた。

 王太后ヴィルヘルミーネと王妃レオノーラと思しき人物を連れた一団が、深更に王都を離れて南方へ向かう街道を凄まじい速さで抜けて行ったのだという。


 王都の中央にたついちのために朝早くから動き始める商人たちの言によれば、それはフードを深く被った文官らしき男ら数名と、武官数名、それに囲まれるようにして佇む、もう少し小さな人影が三名という一団だった。

 その小さな人影は、マントのフードを深く被らされてはいたものの、間違いなく女性だったということだった。彼女らはどうやら猿轡を噛まされていたらしく、奇妙な呻き声を少し上げただけで、周囲の武官らに箱馬車に詰め込まれるようにして乗せられたとの事だった。

 そしてそのまま、その箱馬車は五名ほどの騎馬兵に守られて、王都の大門へ向けて駆け去っていったらしい。


 将軍たちは、即座に南方方面へ、騎馬の捜索隊を発進させた。いずれ劣らぬ、駿馬と巧みな騎手の部隊である。


「南方……というのが、どうもひっかかる」

 ノエリオール王国軍竜将でもある、伯父ザルツニコフは、自分の執務室で、ぎらぎらと厳しい眼光でぎょろりと周囲をひと睨みしてからそう言った。まるで野獣が唸るがごとき声だった。

「と、おっしゃいますと」

 もはや蒼白といってもいい顔で聞き返す美麗な甥の相貌を、ザルツニコフはぐっと見返した。

「昨日、陛下が旅立たれたのもそちらであろう。ただ王太后殿下と妃殿下をお攫い申し上げることが主目的なのであれば、むしろ陛下とは違う経路を辿って逃げるはずのところだとは思わんか」

「……確かに」

 そこで、ザルツニコフはちょっと周囲の兵らから離れ、ヴァイハルトだけを傍に呼んでこう言った。

「南方辺境にあるは、かの伝説の《黒き鎧》だ。陛下はいま、そこでとある《儀式》を行なうためにそちらに向かっておられる。もしかすると――」

 ただでさえ目つきの鋭い伯父の鶯色の目が、もはや猛禽のような光を宿している。

「伯父上……? いま、何と――」

 ヴァイハルトは目を見開いた。驚きを禁じえなかったのだ。伯父の口から出た短いその言葉の中には、彼が生まれて初めて聞く内容が相当量、含まれていたからである。


(《黒き鎧》の……《儀式》だと?)


 それが実在する何かであることすら、当時のヴァイハルトはまだ知らなかった。

 が、伯父は甥の驚愕になど頓着する気はないらしく、不快げに言葉を続けた。

「あのクソ爺いどもめ、レオノーラを陛下に対する何がしかのにせんと企みおるのではあるまいか――」

 もはやその声は、地獄の底を這いずるように低かった。


 この頃にはもう、情報部の部下らの精力的な働きにより、首謀者がかの宮中伯筆頭バシリーであり、その信奉者たる高級文官や武官、そして貴族連中であることがあらかた分かりかけてきていた。

 ちなみに、事前に彼らの動向を監視させるべく貼り付けていたヴァイハルトの手下てかの者は、いずれも殺されたり、拘束されて物置部屋に転がされているのが発見された。

 ノエリオール王国軍の主要武官らは、急ぎ、その一味を特定して捕縛する部隊と、逃げ走ったバシリーら一行を追う部隊とに分かれ、それぞれの行動を開始したのだった。

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