第五章 暗転

第1話 胎動

 その策謀が、いつ、どこから始まったものか、ヴァイハルトには知る由もなかった。

 いや、実際には相当に近いところに迫ってはいたのだったが、薄皮一枚のところで、その真実には辿りつけなかったと言うのが正しいのかも知れなかった。


 ともかくも、あのレオノーラが懐妊し、先王の崩御によって暗く塞いでいた王宮と王国が明るい話題に包まれて以降、ヴァイハルト自身も相当に多忙だったのだ。その仕事の大半は、もちろん通常の自分の職務と、レオノーラをいまだ追い落とそうとする貴族連中の動きを注視したり、事前に阻止することで占められていた。

 そんなこんなでヴァイハルトも、残念ながらそのほかの王宮内の動きをはっきりと認識するには至らなかったのだ。


 ヴァイハルトも今では、若いながらも王家から万騎長を拝命する一将校として、才能のある部下らを使い、王宮内の裏事情には相当詳しくなりつつあった。 

 どの貴族が、どの宮中伯または将軍と繋がりが深いのか、また対立しているのか。どことどこの家が婚姻によって繋がっていて、どの貴族また臣下を疎ましく思っているのか。経済的に依存しあっているのはどの家とどの家か。

 そして、レオノーラを疎んじる貴族、また王家にあまりいい感情を抱いていない貴族や臣下はだれなのか――。


 自分では思ってもみなかったことだったのだが、これら、いわば「情報部」とでもいうべき部門を預る将校として、ヴァイハルトにはある種の才能のようなものがあったようだった。サーティークはそのことにいち早く気付いて、彼をまさしく適材適所よろしく、この部門に配属させたのである。

 因みに、この部門そのものは、名目上、王宮内に存在しないことになっている。ヴァイハルトが預るのは、表向き、別にどうということもない、武官に関する事務方のひとつに過ぎないことになっていた。

 しかし事実上、それは国王サーティークと、宮宰マグナウト直属の極秘部門として、ごく活発に機能していたのである。


 ヴァイハルトのほうでも、若き王の期待にはそれなりに応えられたのではないかと思う。どうやら自分には、ただ普通に世間話をしている相手からでも、その目つきや話しぶり、細かな手の動きなどから、多くの事実を見極める才があるようなのだった。それもその、妙に貴族娘らに受けのいい、爽やかな笑顔を崩さぬままにだ。

 なによりこの美貌でもって、折々催される夜会などでは、ヴァイハルトはあちらの貴族、こちらのご婦人たちへと次々に渡り歩いてはにこやかに挨拶と雑談を交わし、多くの情報を引き出すことに余念がなかった。

 こと、情報部門の将校として、これほど有用な才はない。勿論、その「予想」に基づいて、集めた言質をもとに秘密裏に部下らを動かし、裏を取ったのは言うまでもない。

 そのようにして、ヴァイハルトはここしばらくの間、国王サーティークの手足となり、彼のために様々に目立たない場所で活動を続けてきた。かの青年王がそれらの情報をもとに、裏で不埒な真似をしていた貴族の家を糾弾したのも、一度や二度の話ではなかった。

 当の青年王は、そんなヴァイハルトを面白げに見ているようだった。もともとはその妃レオノーラのためにと身分を引き上げた義理の兄が、思いがけずなかなか使える人材だったことに、この王はことのほか満足しているらしかった。

 そして、時には人払いをした王の執務室で、二人きりで密談するようなことすらあった。



「バシリーの一党の、近頃の動きはどうだ? ヴァイハルト」

 執務机の向こうで椅子に座り、いつものようにサーティークがそう尋ねる。本日の青年王は、赤と黒を基調にした王族の装束に身を包み、黒いマントを流している。その落ち着きようといい言葉遣いといい、とても先年王位を譲られたばかりだとは思われない。

 年の頃も、まだ十分に「少年」と呼んでもおかしくはないほどなのだが、この王はすでに、到底その表現にはそぐわない雰囲気を身につけていた。

「バシリー閣下、でございますか――」

 最近のこの青年王のもっぱらの関心事は、どうやらその老人のことに集中しているようだった。それが何故であるのかまでは、この王は語らなかった。しかし、ヴァイハルトの考えるに、どうやら定期的に開かれている御前会議の席で、かの老人は近頃、先鋭的な発言が多くなっているらしい。

 しかもどうやら、特にこの王が忌み嫌う、とあることに関してだ。


「相変わらず、特定の宮中伯の爺様がたやら貴族連中を引き連れては、王宮内を練り歩いておられるようですが。今のところは特に、普段と変わったことは」

 執務机のこちらで姿勢を正し、ヴァイハルトはそう答えた。こちらは将校の着る灰色の軍服に黒いマント姿である。

「……そうか」

 何事かを考えるようにしながら、サーティークは少し顎に手を当て、眉間に皺を寄せる。そのまっすぐな黒髪は、今では胸の辺りまでの長さになっていた。


 病がちだった先王から王権を引き継いでよりこの方、日々をかなり多忙に過ごしているこの王は、もともと年齢よりも随分と大人びた少年だったが、最近とみにその傾向が強まっている。

 今では「地球」とやらいう世界でいうところの十六、七歳ぐらいになってはいるのだが、すでに二十歳を越えているといわれても、あまり違和感はないほどだ。

 ヴァイハルトもあちこちで、この青年王について、その聡明さ、豪胆さは勿論のこと、さらには剣の腕にもより磨きが掛かっているやに聞いている。


「ともかく、あまり目を離さぬようにだけはしてくれ。このところどうも、胡乱な態度が目に付くのでな」

「畏まりました」

 まだ御前会議への出席は許されない身分であるために、ヴァイハルトには具体的にその場で何が起こっているのかは分からなかった。しかし、それにしてもサーティークのその表情は優れないものだった。

 ヴァイハルトは王に一礼して執務室を辞すと、自分の執務室に戻って部下らを集め、改めてバシリー一党に関するより細かな情報収集を命令した。


 今にして思えば、それをもうふた月、いやひと月でも早く始めていれば、あのような悲劇は回避できたのかもしれなかった。

 「向こう」の陣営では、恐らくもうこの時点で、非常に巧妙に忍ばせていた「密偵」によってサーティークとマグナウトの動きをこと細かに掴み、彼らの動きを阻止するべく、すでに動き始めていたというのに。


 しかし、どれもこれも、今更何を言おうが虚しいばかりだ。

 ことは、起こった。

 その年の夏、そのひどく暑かった、夏の日に。



                ◇



 そうこうするうちにも、刻々とあの「夏至の日」は近づいていた。

 レオノーラのおなかは随分と目立つようになり、そろそろ臨月を迎えようかという頃合いだった。


「今年も、あの《儀式》に臨むのですか、サーティーク」

 わが息子を人払いした自室に呼びつけて、王太后ヴィルヘルミーネがそう訊ねたのは、「夏至の日」から十日ほど前のことだった。

 レオノーラに対するのと同じく、公的な場では「陛下」と呼びながらも、やはり私的な場面では、息子をその名で呼ぶのがこの王太后の常だった。先頃までは、先王を喪ってひどくお力落としされていた王太后だったが、このところは新しく生まれてくることが分かった命を楽しみに、相当、もとの活発さを取り戻しつつあるようだった。


 王族であるヴィルヘルミーネは、すでにかの《黒き鎧》の存在と、その《儀式》の何たるかを、夫たる先王ナターナエルから聞いて知っている。今日は涼しげな薄絹でできた浅葱色のドレスを纏っていた。

 ヴィルヘルミーネは相変わらずの豪奢な容貌でゆったりと長椅子に腰掛け、面前に立ったままの息子をじっと探るような目で見上げている。

「……はい。そのつもりでおります、母上」

 母が自分に何を訊かんとしているのかを計れないまま、サーティークはそう答えた。

 だが、そのいらえは、事実ではなかった。


 実際のところ、今年に限ってサーティークには、それを行なうつもりはなかった。

 昨年、あの《黒き鎧》の《儀式》に臨んで、そのあまりの過酷なことと、その意義の不透明さに疑問を抱いたサーティークは、マグナウトと謀って、ためしに今年の《儀式》を行なわずにおこうと画策していたのだ。

 当然ながら、そうした計画に至るまでに、秘密裏に集めた優秀な文官らを組織して、かの《鎧》中にある古代文字を調べ、その秘密を解き明かすという、壮大な事業にも手を染めている。


 長い間、この国の伝説、そして王族の中の言い伝えによれば、《鎧の稀人まれびと》たる国王がその《儀式》を行なわなければ、この地は平衡を失い、世界が滅ぶのだと言われてきた。


(だが、それは本当に「事実」なのか。)


 まずはそれを解き明かさないことには、何の話も始められぬ。


 しかし、兎にも角にも歴代の国王は、その言い伝えとしきたりに従って、ずっとこの数百年というもの、かの《鎧》の《儀式》を行ない続けてきたのだ。

 サーティーク自身、《鎧》が実在する建造物のようなものであって、歴代の王らがその中に入り、あの凄まじいまでの《儀式》を完遂せねばならないのだということを知らされたのは、一昨年、先王崩御の直前に過ぎなかった。

 ただ実際には、ことサーティークに関して言えば、かの宗之によってもっと早くからその事実を教えられてはいたのだったが。


 ヴィルヘルミーネは、母親の持つ独特の嗅覚でもって、「息子の胸の内にあるものなどとうにお見通し」といった視線でサーティークの顔を少し睨んだ。

「嘘をおっしゃい」

「…………」

 サーティークはサーティークで、もはや沈黙で答えるのみだった。

 いくら母に対してでも、この件ばかりは洩らすわけには行かなかった。それは勿論、彼女自身の身を守るためでもある。

 もしもあの「狂信者」どもにこの一件が漏れでもしたら、彼奴きゃつらがどのような行動に出るものか、それは想像の埒外だった。


 このところ、あの「《鎧》信仰擁護派」たるバシリーを筆頭とする一団は、サーティークやマグナウトに対して、どうも奇妙な視線と態度を隠そうともしなくなりつつある。彼らはあの《黒き鎧》に相当の執着、もはや信仰心と呼んでもよいほどのものを持ち、この国に連綿と続いてきたあの《鎧》の《儀式》をどうあっても完遂させることを希望しているのだった。

 彼らがどこかで何かを嗅ぎつけた可能性は低かったが、どうもここしばらくの様子を見ていて、どうにもサーティークは不穏な胸騒ぎがするのである。

 とは言え、あのヴァイハルトを初め、あちこちに潜ませているサーティークの息の掛かったからは、特にこれといった妙な動きの情報は上がってきていなかった。


 ともあれ、《鎧》の中にマグナウトと二人きりで入ってしまいさえすればこちらのものだ。かの老人たちがなにを吠えようと、何の手出しが出来るはずもない。

 だから、サーティークは彼らを甘く見すぎていたのかもしれなかった。

 さらには、その時は何よりも、時を置きすぎて彼らがなにがしかの準備を整えきるのを待たぬほうが良いという気持ちのほうが勝ってしまったのだ。

 結果としては、それが最悪の成り行きを引き寄せてしまったのだが。



 この国において、国王の権力は絶対だ。

 それを今まさに体現している自分が、その権力の裏打ちともいうべきかの《鎧》の伝統に疑いを差し挟む、それこそがこの件の、最大の矛盾であり皮肉だとは思う。

 だが、事実は事実なのだから、仕方がない。

 あの胡乱な歴史の産物である《鎧》を腹に抱えたままでは、これ以上この国の新しい未来を描くことは難しくなるばかりだろう。


 事実をこと明らかにし、ごく公平な視線で客観的に眺め、判断し、不要な伝統であればそれを絶つ。

 それもまた、英断であろう。

 たとえこれまでの国王に、それを成すための機会や、知恵や、勇気や力がなかったのだとしても、だから自分もまた同様に、唯々諾々とその道を選ぶというのは、どうにもサーティークの性質にはそぐわなかったのだ。



 もはやその場に傲然と立ちつくし、沈黙を守るばかりの息子の顔をじっとみつめて、ヴィルヘルミーネはすうっと目を細めて言った。

「ともかくも。今は、あなたの御子がお生まれになろうという、大切な局面なのです。くれぐれも軽はずみな真似はなさらないことをお勧めしますよ」

 そしてすっと立ち上がると、真っ向から息子の目を見つめて駄目押しを言い放った。

「それがあの子……、レオノーラのためでもあります。……いいですね」

 サーティークは素直に一礼した。

「肝に銘じます、母上」

 そうして頭を上げると、母に向かって軽く笑った。

「どうか、私が不在の間のこと、よろしくお願い申し上げます」

 ヴィルヘルミーネはきりりと頭を上げたまま、鋭くも明るい眼差しで長身の息子を見返した。

「勿論です。誰に向かってものをお言いか」

 よく通る声でひと言いうと、ヴィルヘルミーネは翳りのない笑顔でにこっと笑い、持っていた飾り扇をぱちりと閉じて、話もそこで終わらせた。

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