第6話 王太后
「あらあら、レオノーラ。いけませんよ、そんなに早足に歩いては。あなたは本当に
中庭に面した王宮の廊下に、よく通る王太后の声がする。その声はひどく上機嫌だ。
「本当に、いつもの体とは違うのですからね。十分に気をつけなくては――」
先年、最愛の夫を亡くしたばかりのこの王太后は、息子の妻であるレオノーラをいまだ「王妃」とは呼ばない。もちろん、第三者に対して、公的な場面ではそう呼ぶのであるが、本人に向かっては、必ずその名前で呼ぶのだ。
それは勿論、このそそっかしい義理の娘を忌み嫌ってその立場を認めないからなどではなく、むしろその逆だった。
「我が娘を『王妃』などと呼ぶ母がどこにいますか」
ヴィルヘルミーネは最初にそう言ったきり、周囲の臣下がどう言おうが、サーティークの妻たる人をその名でしか呼ばなかったのである。
「あっ、はは、はい、お母様――」
レオノーラは、その周囲を数人の女官らに囲まれるようにして、慌てて長身の
「も、申し訳ございません……」
レオノーラのほうでも、本人から散々言い直させられた挙げ句、「王妃様」やら「王太后様」やらという敬称でお呼びすることを禁じられて、今ではこの美しい義理の母親を「お母様」と呼ぶに至っている。
素直そのもののその風情を見て、王太后ヴィルヘルミーネは大輪の花のような笑みをその美貌の上に刷いた。高く結い上げた黄金色の髪が、王宮に差し込む日の光にきらきらと眩しい。
「近頃では、
むしろ男に生まれるべきだったと自他共に認めるような、豪胆、快活な王太后は、しかし、レオノーラに対してこうした細やかな気使いを見せてくださる方でもあった。女性にはよくあるような、べたべたした甘い優しさではないけれども、確かにこの女性も、気高く明るい優しさをもつ人であった。
さすがは、あのサーティークを生み育てた人だけのことはある、といったところだろうか。
初めのうちこそびくびくして、近寄り難いと思っていたこともあったのだが、レオノーラは最近では、ただもう素直にこの
「はい、有難うございます、お母様……」
御殿医から、「ご懐妊でございます」との診断がおりて、はや五ヶ月になろうとしていた。このまま順調であれば、この年の夏には、可愛い第一子が生まれてくるはずだった。
季節は移ろい、城の周囲は寒くて暗い冬の季節を終えて、温かな春を迎えつつある。
レオノーラのおなかは、まださほど目立つほどにはなっていないものの、それでもだいぶ膨らみをもってきて、そこにある確かな命を感じるほどになってきていた。
みずからレオノーラの手を取って、その傍らを一緒にゆっくりと歩きながら、王太后が言葉を継いだ。
「サーティークは、何やら近頃、あれこれと忙しすぎるようですね。ちゃんと貴女の顔を見にぐらいは戻ってきているのかしら?」
「あ、ええ……はい」
それは本当だった。
昨年のあの「夏至の日」を境に、どうもサーティークは一連の政務以外のことで、何か心に決めた事でもあるらしく、もともと暇でもないところへ持ってきて、このところそれに輪を掛けて忙しそうな様子だった。
最近では、夜もだいぶ遅くなってからやっと寝所に戻ってきては、レオノーラを抱きしめ、さもいとおしげに腹部の膨らみをそっと撫でたかと思うと、すぐに寝入ってしまうようなこともしばしばだ。
政務を初めとする表向きの事柄について、サーティークはレオノーラにいっさい何も語らないと決めているようだった。だが、それは勿論、なんの腹芸もできないこの王妃に精神的な負担をかけまいという心遣いからくるものであったろう。
その事がわかっているだけに、レオノーラのほうでも敢えて、彼にそういった類いのことを訊こうとはしなかった。
(でも……本当は。)
本当の本当は、少しだけ寂しかった。
レオノーラの父と母も、非常に仲の良い夫婦だったけれども、お二人はお互いに、弱いところも苦手なものもよく知り合っていて、辛い時には泣き言もいい、それを互いに慰めあうような夫婦だった。
だからレオノーラも、夫婦というのは、ああいうものなのだと思っていた。
もちろん、ごく一般的な貴族の男に過ぎない自分の父と、あのサーティークを同列で語ってはいけないと思う。でも、それでもレオノーラは、ほんの少しでもいい、彼の肩に乗っている重たい荷物のほんの僅かの部分でも、自分が担えたらいいのにと願わずにはいられなかったのだ。
あのサーティークが泣き言を並べるところなんて想像もつかないけれども、もしも彼の心に掛かる重たいものがあるときには、ただ聞いてあげるしかできないのだとしても、レオノーラはそうして差し上げたかった。
レオノーラのそんな思いを見透かしたのかどうか分からなかったが、隣を歩いていた王太后が、ふと笑ってレオノーラを見下ろした。長身のヴィルヘルミーネは、サーティークほどではないけれども、それでもレオノーラからすれば、見上げるような背の高さなのだ。
「心配はいりませんよ、レオノーラ」
「……はい?」
何を言われたのか分からなくて、レオノーラはきょとんと
「貴女は十分、王妃としての務めを果たしています。あの子がああして頑張れるのも、
「…………」
びっくりして、レオノーラは目を丸くした。
「……そ、そうでしょうか……」
「そうですとも!」
いきなり立ち止まり、仁王立ちになってはっきりと言い切られ、レオノーラはへどもどした。
「え、あのう……」
ふう、とヴィルヘルミーネが溜め息をつく。麗しい眉間にちょっと皺が寄った。そんなところはこの王太后、本当にその息子によく似ているのだ。
「貴女に問題があるとすれば、唯一、そこでしょうね。もうほんの少しでもいいので、貴女も自信というものをお持ちなさいな」
明るくきらきらした碧い瞳にみつめられて、何故かどぎまぎしてしまう。
「は、……はあ……」
(自信……。)
今の自分のいったい何処に、そんなものを持つことができるのだろう。
「…………」
ちょっと困って俯いてしまったレオノーラを、さも「困った子ね」と言わんばかりの視線で見下ろして、ヴィルヘルミーネが苦笑した。
「あらあら。わたくしの自慢の息子が選んだ
くすくす笑うその声に、嫌味などは微塵もない。これは、紛れもなくこの王太后の心から出た言葉なのだった。
「それはあの子に失礼でしょう。よーくお考えになることを勧めますよ、レオノーラ」
にっこり笑ってそう言うと、ヴィルヘルミーネはにこやかな笑顔を崩さないまま、レオノーラの手をそっと放すと、歩度を上げて颯爽と、自分の私室へ向かって行ってしまった。おつきの侍女たちが、足早にその後をついてゆく。
レオノーラは慌ててその後ろ姿に礼をして、嬉しい気持ちでその背中を見送った。
何かほかほかと、胸の辺りが暖かくなった。
(……幸せ、なのだわ……。わたくし……。)
しみじみと、そう思う。
優しかった先王はお亡くなりになってしまったけれど、陛下も、王太后さまもこんなにまでもお優しい。臣下の皆様も、自分にはとてもよくしてくださっている。周囲を守ってくれる武官の皆さん、召し使いの皆さんも、いつも本当に細やかに自分を気遣ってくれている。
その中の誰一人、自分を卑しめて見下したり、馬鹿にするような者はない。
初めのうちこそ、召し使いや侍女たちから少し苦笑されるようなことは多かったけれども、最近はそんなこともなくなってきて、ただただ、皆が自分を気遣ってくれているのが分かるのだ。
勿論それは、自分が王の子を身に宿したからということも大きいのだとは思う。けれども、やっぱりそれは何よりも、あのサーティークの計らいが大きい筈なのだった。
(愛され……てるのよね、わたくし――。)
ほわほわと、くすぐったいような気持ちが胸の奥から湧き上がってくる。
そっと自分のおなかを撫でて、レオノーラは微笑んだ。
この子を無事に、お生みすること。
それが何よりの自分の務めだ。
この子を、間違いなく、彼の腕に抱かせてあげたい。
それさえできれば、きっと……きっと。
もしかしたら、これといった自信のないこの自分にも、
ほんの小さな、
ちいさな「自信」が持てるかもしれないのだから――。
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