第5話 崩御
ノエリオール国王がご崩御されたのは、その翌年の春だった。
サーティーク殿下は、
温厚篤実、賢王の名を
その傍らで、やはり心の痛みに耐えながら、サーティークはずっと、母を案じてその心をお支えしていた。
こと、ここに至っては、国王陛下の血の繋がった娘でもないレオノーラにできることなど殆どなかったけれども、それでも自分をまるで我が娘のようにして可愛がってくださった陛下のご崩御は、レオノーラの気持ちを深く沈ませた。
ぼうっとしていると、ついぽろぽろと涙を零してしまっては、サーティークに心配されてしまう自分が、ひどく情けなかった。自分こそが、遺された王妃さまやサーティーク殿下を励まし、お支えせねばならない立場だというのに。
しかしサーティークは、そんなレオノーラをどこか嬉しげな目で見つめていた。そして、「父のために泣いてくれて礼を言う」と、静かな声で言ったのだった。
ただ、ひとつだけ、レオノーラは不思議だった。
なにかずうっと、サーティークが悲しんでいるのは、国王陛下ご本人のためだけではないような気がして、仕方がなかったのである。
(もしかして……、あの方のため……?)
あの日、陛下のご寝所で偶然見てしまった、なにか別人のような「国王陛下」のことを、レオノーラは忘れていなかった。ただもちろん、その事を誰かに話したりはしなかった。何となくだが、サーティークの表情から、それはこの王室の、触れてはいけない重大な何事かであるような気がしていたからである。
そうして。
ナターナエル公のご崩御からほどなくして、ノエリオール宮大広間で、サーティークの王位継承と、戴冠の儀が厳かに執り行なわれた。
こうして初めて、サーティークは正式にその王位を継がれ、第三十五代ノエリオール国王、サーティークが誕生したのである。
すでに長い間、病の床に臥せっていた父王の代わりに公務の殆どをこなしていたサーティークだったが、それでもその双肩にかかる重責は何倍にも増したように見えた。
とは言え彼は、レオノーラの前で泣き言などひと言も洩らさなかった。ただ、夜、寝所にやってきてレオノーラの隣に潜り込むと、彼女の細い体を抱きしめるようにして、ことんとすぐに眠ってしまうような日々が長く続いた。
自分の胸元で、やや疲れた顔で眠っている精悍な若い「陛下」のお顔を、レオノーラはじっと見つめて、その長いお
◇
ヴァイハルトが家族と共に王宮に招待されたのは、サーティークの王位継承からひと月ほど後のことだった。
因みに、ヴァイハルトはサーティークの王位継承を機に、王妃の親族であるということもあってまたひとつ階級を引き上げられ、この時すでに万騎長へと昇進を果たしている。この点については、二人の兄も同様だった。
正装した父母や兄たちと共に、王宮内の応接の間へと通されたヴァイハルトは、サーティークと共に部屋に入ってきた妹を久しぶりに見て、少し驚いた。
レオノーラは、小柄でやせぎすだった体がややふっくらして、肌艶もよく、なによりひどく幸せそうに見えた。淡い橙色のドレスに身を包み、今や「王太子妃」から「王妃」となった我が妹を、ヴァイハルトはなにか、眩しいものを見るような思いで見つめていた。
(そうか……。幸せなのだな、レオノーラ。)
どこかに痛みを秘めつつも、それでも温かく嬉しい思いが、ヴァイハルトの胸をじんわりと満たした。そうして、父母や兄たちと共に応接用の長椅子から立ち上がり、二人に向かって武官としての礼をした。
「陛下、王妃様。このたびは、お招きに預りまして恐悦至極にございます」
たとえ肉親といえども、この場で妹に普段のような振る舞いで話しかけることは許されない。実に、一年以上ぶりで会う妹だったが、自分たちがその体に手を触れたり、親しい言葉で話しかけることも叶わないのだった。
それでも父母は、久方ぶりで娘に会えたことを心から喜んでいた。
「王妃さま、ご健勝そうでなによりでございます」
「お顔の色がよろしゅうございますね、王妃様……」
そばに立つ兄たちも、妹に丁寧に頭をさげて、同様の挨拶をした。
「は、はい……。ありがとう、ございます……」
レオノーラは家族の者らを見て非常に嬉しそうだったけれども、それぞれが発するごく儀礼的な挨拶を受けて、少し寂しげな笑みを浮かべ、やや俯くようにしていた。
サーティークはちらりとそんな妹の顔を見下ろしたかと思うと、さっと片手を上げて、その場にいた侍従や召し使いたちを下がらせた。そして自分も黒いマントを翻すと、あっというまに扉に向かった。
「えっ、陛下……?」
びっくりしてレオノーラが振り向いて言いかけたが、サーティークは扉の前でちょっとこちらを向いて「静かに」という仕草をして見せた。
「ここからは『無礼講』だ。あまり長い時間は無理だろうが、まあゆっくりしていくがいい」
そんな、ちょっと矛盾したような台詞をさらっと言って、サーティークは意味ありげな笑みを浮かべたかと思うと、あっという間に扉の向こうへ消えてしまった。
閉じられた扉を見つめて、ヴァイハルトは心中、舌打ちをした。
(……あいつ。)
あんな調子で、相も変わらずレオノーラの心を独り占めにしているわけだ。
今の一件で、レオノーラの中のサーティークの株はまた一段上がったのに違いない。
そんな風に思うと、またむらむらとおさまった筈の「
だが、すっかり嬉しげになってしまったレオノーラの紅潮した顔を見ていると、そんなぶすぶすと
◇
そうして、二ヵ月後。
サーティークは、初めてあの《黒き鎧》の《儀式》に臨んだ。
勿論これは、ごく限られた家臣たちしか知らないことなので、当時のヴァイハルトには知るよしもなかった。従って、これらの事実はずっとあとになってから、本人やマグナウト翁に語られて知ったことに過ぎない。
ともかくも。
サーティークはその夏、「夏至の日」に合わせて宮宰マグナウトと共に十数名の警護兵を連れ、ノエリオール南方辺境にあるという、《黒き鎧》へ向かったという。
そこで彼が生まれて初めて体験したというその《儀式》が、一体どんなものであったかは分からない。しかし、それが相当の過酷なものであったことは、彼らの弁から明らかだった。
なるほど、先王ナターナエルが、この《儀式》に臨むたびにご体調を悪くされていったのも頷ける。あの、まだ若くて元気盛りのサーティークですら、体力的にかなり厳しいものだったというのだから。
ともかくも、《儀式》から戻ったサーティークは、その後、何か思うところができたらしく、緊密にマグナウト翁と相談しあって、何事かを画策し始めたらしかった。もちろん、当時のヴァイハルトにはそれがどういう意味を持つものであるかは分からなかった。
(だが……。)
だがそれが、やがてあの恐ろしい悲劇に繋がってゆくことになる。
今にして、何を後悔したところで無駄だ。
失われた命は、何を、どうしたところで戻っては来ない。
そんなことは、分かっている。
だが、それでもヴァイハルトは、
『あの時、その計画に、この俺も参加させてくれていたなら』と。
勿論それが、細心の注意を払って秘密裏に進めねばならない計画だったことは理解している。しかし。
もしそうしてくれていれば、もしかするとあの狂信的な「《鎧》信仰者」どもの企みを一部なりとも嗅ぎつけることに、自分も一役買えたかもしれないではないか。
レオノーラの婚儀のために、あちらこちらと隠れた情報を集める仕事に従事した経験と人脈をもってすれば、恐らくなにかは、助けになれたはずだというのに。
事実、あの当時ヴァイハルトは、なにか奇妙な雰囲気をまとわりつかせた文官の一団が王宮を闊歩するのをよく見かけていた。それは、宮中伯筆頭であるバシリーという、なにかもはやわざとらしいまでに「清貧」を身に纏わりつかせたような、痩せた老人の率いる一団だった。
決して派手なことをするのでもなく、物腰などはごく穏やかで温厚であり、なにかの求道者のような、また宗教家のような清廉な雰囲気は感じるのだが、それでもなにか、彼らはどこかが危うく思えたものだった。
もっとも、万騎長になったとはいえまだまだ単なる若造に過ぎなかったヴァイハルトには、その
ともかくも、そのようにして、先王を喪った悲しみに暮れている王太后をはじめ、王宮はしばらく、暗い霧の中に閉ざされたようだった。
しかし、そんな沈んだ王宮に、遂に明るい知らせが届く。
それは勿論、かの凄まじい悲劇につながる知らせでもあったけれども。
その年の暮れ。
あのレオノーラが、懐妊したのだ。
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