第4話 見舞い
そして、翌年の夏。
国王ナターナエルは、例年同様、この国の伝統に従い、宮宰マグナウトだけを伴って南方辺境のとある場所に向かわれ、《黒き鎧の儀式》に臨まれたようだった。そして、これまでも決しておよろしくはなかったそのご体調が、一気に悪化されてしまったご様子だった。
《黒き鎧》に関する一連のことは、たとえこの国の王太子であるサーティークにですらも、さほど詳しくは教えられていなかった。その成り立ちや歴史、場所はおろか、「それが一体なんであるのか」自体さえ、細かなことは知らされなかった。
それは、サーティークがいずれこの国の王となったとき、初めて明かされる秘中の秘なのだった。臣下の中にも、それが実在する何かであるという事を知っている者は少ない。そもそもこの国の人々は、《鎧》がこの国に旧くからある伝説に登場する「つくり話」だと信じている者が大半だった。
《儀式》からどうにかお戻りにはなったものの、ナターナエル王はそのまま病の床に就いてしまわれ、政務の大部分は、もはやほぼサーティークが担わなくてはならなくなった。
この年、サーティークは十二歳。「地球」と言われる
ヴィルヘルミーネはひどく夫の体を心配して、いつもはあれほど明るく元気な彼女が、食欲も落ちて、憔悴した様子に見えた。
◇
「レオノーラ様! こちらのお花など、可愛らしゅうございますよ。いかがでございましょう?」
自分とさほど年も変わらない侍女見習いの娘にそう訊ねられて、手許で花を選んでいたレオノーラは顔を上げた。
王宮、中庭の一角である。
庭園のそこここでは、色とりどりの夏の花々が「この世の春」を謳歌して咲き誇っている。空はからりとした晴天で、真夏の暑い日ざしが庭じゅうに降り注いでいた。
「あ、そうですね。とっても綺麗……」
にっこり笑って、つばの広い飾り帽子の陰から少女にそう返事をする。
レオノーラは、晴れて王太子妃となった今でも、やっぱり下々の者たちに対して相変わらずの応対だった。言葉は馬鹿丁寧なままだし、かれらから少し不審げな顔でもされてしまうと、すぐに慌てて周囲が見えなくなり、しなくてもいいような失敗を繰り返してしまう。
今、一緒に花を摘んでくれている少女が、側付きの中で一番レオノーラにとって気の張らない相手だった。彼女には一生懸命お願いして、本来ならばきちんと「王太子妃殿下」と呼ばねばならないところを、今ではどうにか二人きりのときだけでも名前で呼んでくれるようになっている。
「ありがとう、コリーナ。そろそろ、陛下のご寝所にお持ちしましょう」
娘の名を呼んで、立ち上がる。
そう、これは、いまご体調を崩されて長く臥せっておられる国王陛下への見舞いのための花なのだった。
(早く、お元気におなりくださればいいのだけど……。)
花束を抱えた侍女見習いの少女とともに王宮の廊下を歩きながら、レオノーラは思う。
優しく穏やかなナターナエル王も、その妻であり、明るくさばさばした気持ちのよい性格のヴィルヘルミーネも、レオノーラは大好きだった。お二人とも、自分の信頼する息子の選んだ人ならばと、一言の否やもおっしゃらずに王家に自分を受け入れてくださった上に、普段からなにくれとなく、レオノーラに目を掛けてくださっていたからである。
もしもかれらが、心の狭量な王と王妃であったなら。
考えるだに、レオノーラはぞっとするのだ。
レオノーラも、実はサーティークとの婚儀が決まってから、自分の屋敷にあったこれまでの王家の歴史記録等々をこっそり盗み見たりした。
結論から言えば、そこにはもう、目を覆うような「現実」が、山ほど織り込まれていた。勿論、そういう書物を自宅に置いておくこと自体、罪に問われかねないため、そうした書物はほんとうに、ひっそりと書庫の奥に隠されていたのだったが。
だから、レオノーラはサーティークの父母である国王陛下と王妃様に、ただただ、もう感謝の念でいっぱいだった。あのサーティークを生み育てたお二方であるからには、素晴らしい方々だということは信じて疑わなかったけれども、それでも特に王妃様には、どんなに感謝してもし足りない思いだったのだ。
息子を愛する母の気持ちというものを、レオノーラは自分の母と兄たちとを見てきて良く知っている。自分の母も、二人の兄たちがそれぞれ妻を娶る話になったとき、なんとも言えない寂しげな風情だったことを思い出すし、ひとり残ったヴァイハルト兄のことは、もうどうあっても手許に残って欲しいのだという彼女の思いが、黙っていてもひしひしと伝わってきたからだ。
息子の妻は、母から息子を奪うものに他ならない。
その寂しさから、つい母がその妻にひどい仕打ちをするのだとしても、それは咎めることの難しい話なのだろう。
それは、ただただ母の愛と、心の弱さが生じさせるものだからだ。
だが、ヴィルヘルミーネにその「弱さ」は存在しなかった。
というよりも、その高すぎるほどの自尊心が、彼女をしてその弱さの存在を許さないのかも知れなかった。
勿論、彼女はサーティークを我が命以上に大切に思い、愛しておられる。
それでも、決して王妃は、この平凡でどうということもない貴族娘の自分を、ひとつも嘲笑ったり、見下したりすることもなく、惜しみなく両手を広げて、この場所に受け入れてくださったのだ。
それも、ただ目線のひとつ、言葉尻ひとつにさえも、暗くて愚かなものを匂わせずにだ。これは、
それはもう、「さすがはあのサーティーク殿下のご母堂だ」と、周囲の臣下たちですら御見逸れするほどだったのだ。
その
「父上のところへか? レオノーラ」
政務の補佐を務める文官らと共に、廊下の向こうから黒いマントを翻しつつ大股にやってきたサーティークが、レオノーラたちの姿を認めて足を止めた。
レオノーラはびっくりして立ち止まり、ぱあっと頬を染めた。
「あ……は、はい……」
夫婦になって既に一年と少しが経とうかというのに、相変わらずレオノーラは自分の夫たるこの人を前にすると、そわそわと落ち着かなくなってしまう。それはこうした公の場でも、寝所でも変わらないのだった。
サーティークは、政務の殆どをこなすようになってから、更に大人びた風情を身につけ始めたように見えた。しかしこの王太子は、慣れない上に多忙の中、妻であるレオノーラの前ですら、さほど疲れた顔も見せなければ、泣き言のひとつも洩らさない。むしろ、こちらからは見えないところで、王宮の新参者であるレオノーラのことをあれこれと気遣ってくれているようだった。
サーティークは、侍女の少女が手にしている花にちらりと目をやって、少し笑ったようだった。
「いつも済まんな。俺も、手が空き次第お見舞いに伺うつもりだ。よろしくお伝えしておいてくれ」
「は、はい……殿下」
どぎまぎしながらも貴婦人の礼をすると、サーティークは笑ったままひとつ頷いて、また大股に立ち去って行った。
◇
ナターナエル公の病室は、分厚いカーテンが引かれて薄暗かった。
大きな天蓋つきの寝台に横たわった王と、その枕辺にいる王妃とは、手を握り合って、いつも静かに言葉を交わしておられる。
控えめに声を掛けて部屋に入ると、レオノーラはいつものように、侍女の少女の準備した花瓶にもって来た花を挿し、ふた言、三言、陛下や王妃とお話をして、その場を辞そうとした。陛下はややお疲れ気味のようで、もうお休みになられるところのようだったからである。
しかし、一礼して下がろうとしたレオノーラを、ヴィルヘルミーネが呼び止めた。
「あ、待って下さい、レオノーラ。貴女、少しの間ここに居てもらえないかしら?」
「えっ……?」
驚いて見返すと、ヴィルヘルミーネは底意のない笑顔で笑って言った。
「少し、所用があるのです。すぐに戻りますから」
「あ、は、はい……」
女性である以上、なにかとつまらぬ「所用」が生じるのは常のことではある。
言われるままに、レオノーラは今まで王妃の座っていた寝台の傍の椅子に腰掛けて待つことにした。陛下はすでに、すっかり眠っておられる御様子だった。
そのお顔の色はすぐれず、ここしばらくで随分とお痩せになったように見えた。
その妻であるヴィルヘルミーネや、息子たるサーティークの気持ちを思うと、どうしてもレオノーラの気持ちは塞いだ。
(本当に、はやくご回復してくだされば良いのだけれど……。)
と。
いきなり目の前から声が掛かって、レオノーラはびっくりした。
「君は……」
見れば、陛下が目を開けておられる。
「あ、陛下……。お目覚めでいらっしゃいましたか?」
慌てて声を掛けたが、その相手は少し変な顔をして、周囲を見回すように目を動かした。
「…………」
謎の沈黙がしばらく続いた。
「あ、……いや。すまない、いいんだ……」
やがて聞こえてきた掠れた声は、余計にレオノーラを不思議な気持ちにさせるものだった。
レオノーラは相手の顔をまじまじと見つめてしまった。何となくだが、目の前のその人物が、いつもの陛下とは様子が違うような気がしたのである。何か、言葉遣いまでもがいつもの陛下のようではなかった。
と、扉が開いて、召し使いの静かな声が掛かった。
「王太子殿下、御成りです」
その声とほぼ同時に、足音もさせないまま、サーティークがするりと部屋に入ってきた。
「あ、殿下……」
言いかけたレオノーラと、寝台の上のナターナエル公をひと目見て、サーティークは突然、はっとしたように見えた。そのまま素早く寝台に近づいて、陛下のお顔を覗き込むようである。
「…………」
それは、レオノーラの気のせいだったのかも知れなかった。しかし、サーティークは確かに、寝台の上のその人と、目だけで会話をしたように見えた。
「有難う、レオノーラ。ここには俺がいる。もう行っていいぞ」
やんわりとした言い方だったが、それは明らかにサーティークによる「人払い」に他ならなかった。
「は、……はい……」
レオノーラは勿論、ひと言も言い返すことなく、お二人に一礼すると、素直にその部屋を後にした。
部屋の外で待っていた侍女の娘とともに、足早に廊下を戻っていきながら、レオノーラは不思議な感覚に満たされていた。
そんなことが、あるはずがない。
しかし。
(あの方はいったい……だれなの?)
だが、レオノーラの胸に広がったその疑問が彼女の中で解き明かされることは、ついになかったのだった。
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