第3話 花宵(はなよい)

 二人の本当の「初夜」の訪れは、そこから更に数ヶ月を要した。

 なんとなれば、まだ年の若すぎるお二人である。いつもサーティークによって寝所から追い出されてしまう女官たちの弁によれば、お二人は相当の長い期間、同じ寝床に休んではいながらも、なかなか「そこまで」の状況には及ばれなかったらしかった。


 周囲の臣下やら侍従やらは、なにか勝手にやきもきしていた。彼らは一日も早いレオノーラの懐妊を望む者と、まったく望まぬ者とにはっきりと二分されてはいたものの、当の二人はのほほんと、気の向くままにしか動かないようだった。そしてレオノーラはともかくも、あの「俺様」な性格の王太子は、臣下が何を言っても馬耳東風で、果ては「我らのことは放っておけ」と一蹴するばかりなのだった。


 国王陛下と王妃のお二人は、それでもほのぼのと、温かくお二人を見守ってくださっていた。

「何も慌てる必要はないのだよ」

 国王ナターナエルは、朝餉の席などで一緒になるときには、優しくレオノーラにそうおっしゃったものだった。

「そなたらはまだまだ若いのだから。今はゆっくりと、二人の仲を育ててゆく時なのであろうよ――」

 近頃ではお顔の色の優れないことの多い陛下だったが、その表情も声音も、いつも落ち着いて静かなものだった。隣に座られた王妃ヴィルヘルミーネも、普段どおりの派手でにこやかな笑みを浮かべて、やはり同様にして頷いてくださるのだった。

「陛下のおっしゃる通りですよ、二人とも。年寄りたちのつまらぬ言葉に惑わされてはなりません。それで正道を見失うことこそが、厳にわたくしたち王族が慎まねばならぬことなのですから」

 凛としたよく通る声で美貌の王妃がそういう言葉には、非常な説得力があった。その背後には、勿論、彼女自身が王妃となったいきさつに、深い関わりがあるのに違いなかった。

 朝餉のテーブルを前にして、お二人それぞれにそうして励まされ、サーティークとレオノーラは、ふと目を見交わして密かに笑い合ったものだった。


 たとえがまだなかったとしても、二人は十分に仲睦まじい「夫婦」だった。公務の合い間、ちょっとした時間を見つけて、サーティークはレオノーラの顔を見にやってきては、中庭などに連れ出していた。

 時には、彼女と共に少し遠出をして、王家の持ち物である涼しい湖畔の別邸などに連れて行くこともしばしばだった。その頃にはまだ、ナターナエルの病状もさほどひどくはなく、サーティークも多少の時間の融通が利いたのである。



                ◇



 それはその年、夏の頃のことだった。

 サーティークはレオノーラと供の者、それに警護の兵ら数十名を連れて、いつものようにノエリオール西方にある王家の別邸へやってきていた。


 王家の持ち物とはいっても、基本的に豪遊や贅沢を控える気風の強いノエリオール王家のことでもあり、別邸とはいえ相当に小ぶりなものである。ただそれの面している湖はごく静かで大きく、清らかなもので、遠くに見える山の稜線を鮮やかに湖面に映して美しかった。

 周囲を囲む森の木々も、風にその香りを運ばせてくる。時折り、その中に爽やかな花の香りも混ざるようだった。

 王族が逗留する間だけは、その周囲は警備兵が周回して、常に警護されることになっているが、そうした「無粋な」ことのすべては少し離れた場所で行なわれているため、サーティークとレオノーラが彼らの姿を見ることはほとんどなかった。


 二人は夕刻の湖畔を、供の者らも連れずに二人だけでぶらぶら歩いた。長身のサーティークの隣を歩いているレオノーラの背丈は、彼の肩口あたりまでしかない。サーティークは彼女の手を引いて、黙ったままゆっくりと湖の畔の下草を踏みしめて歩いてゆく。

 時々吹いてくる風が、湖面の上にさざなみをたてて、さらさらと涼しげな音をたてた。湖畔の森の中からは、そろそろ寝床に戻ろうとする鳥たちの鳴き交わす声がしていた。

 遠くの山の端が、橙色から次第に紫色になり、山裾からせり上がって来る群青色へと変化してゆくさまを、二人は立ち止まって、長い間じっと見つめていた。空の色が夜に落ち込んで行くにつれ、反対側に巨体をさらしているあの「兄星」が光を増して、その存在感を誇示し始める。


「……そろそろ、戻りますか」

 サーティークがひと言いって、レオノーラは頷き返した。

「はい」

 こんな風に、たまにサーティークは、いまだに彼女に丁寧なものいいをする。

 近頃では、もう基本的には一人称も「俺」で固定されてきており、ぞんざいな口調であることが殆どなのだが、どうかした拍子に、レオノーラに対する場合だけ、以前の言葉遣いに戻ってしまうらしい。勿論、父王や王妃に対してだけは別である。

「……ふふ」

 レオノーラとしては、どちらで話しかけられるのも好きなので構わないのだが、彼がどうやら無意識にそうなる時、なんだかそれがちょっと嬉しかった。こんな言葉を使うのはいかにも不敬なので決して口にはしないけれども、なにか「お可愛らしい」と思ってしまう。

「ん? ……なにか可笑しかったか」

 もう元の言葉遣いに戻ってしまって、サーティークがふと訊いた。

「いいえ。……なんでも」

 それでも、さりげなく口許に手をやって笑っているレオノーラを、サーティークはしばし見つめるようにしていた。が、不意にその腕で抱き寄せたかと思うと、そのまま力をこめて抱きしめた。

「……え」

 びっくりしていつものようにまた固まっているレオノーラの耳もとで、彼の低い声がする。

「ようやく少し、慣れて来たか?」

「……はい?」

 何を訊かれているのかわからずに、レオノーラは顔を上げた。真っ直ぐな黒い瞳に、すぐ上から見下ろされている。

「近頃では、俺を見ていても、さほど顔が茹で上がらなくなった」

 ちょい、とまた額を指先でつつかれる。

「……あ」

 そういえば、以前のように、この王太子に見つめられただけでどぎまぎして何処を歩いているのかも分からなくなるなどということはなくなってきた。また、普段でも、前のように本当に前後の見境がなくなるといったことは少なくなってきたような気がしなくもない。

 それでもやっぱり、こんな風に抱きしめられたりしてしまうと、胸の鼓動はうるさいぐらいに高鳴ってしまう。耳だってきっと、真っ赤になっているはずだ。

 そのことにはサーティークも気付いているようだったが、それは彼自身も同じであるらしかった。なぜなら、今耳もとで聞こえている彼の鼓動は、確かにいつもよりも早かったから。

 そんな事に気付いたのも、ごく最近のことだった。

「……まあ、お互い様ともいえるからな。そなただけのことではないさ」

 サーティークは、静かに笑ってそう言うと、レオノーラの顎を持ち上げて、そっとその唇に触れた。レオノーラも、ふわりと目を伏せてそれを受ける。

 もう、以前のように、何が起こったのか分からないということもない。


 ただ、嬉しくて、幸せだった。

 こんな日々が、これからもずうっと、

 たとえ子供ができてからでも続くのだと信じていた。


 互いの唇が離れると、そっと体を離してまた歩き出す。

 やっぱり、手はつないだままだ。

 さらに光を増した「兄星」が、湖面にもその巨体を映して、じっと二人を見つめていた。



                ◇



 その夜。

 レオノーラは、愛する人のものになった。


 ただただもう恥ずかしくて、何がなんだか分からないうちに終わってしまったので、詳しいことはまったく覚えていない。ただ、王太子がひどく優しくて、ずっとあの低い声で言葉を掛けながら進めてくれたことだけは覚えている。

 その後、両手で顔をひたすら隠したままのレオノーラを抱いて湯殿に向かうサーティークは、ただもうずっと楽しげに笑っていた。


 翌朝、やっぱり顔を真っ赤にして、ろくにサーティークと目も合わせられず、ぎくしゃくと挙動不審に陥って朝餉も喉を通らないレオノーラを見て、「ああ、お二人はとうとう……」と、気付かぬ者はいなかった。それら侍従や侍女たちの中には、感極まって涙するような者までいた。

 勿論、非常な「鈍い」性質たちの臣下については、その限りではなかったけれども。


 王都に戻り、下々の者からその「事実」をお聞きになられて、国王陛下も王妃も、大層なお喜びようだったとのことだった。

 それら様々の話をお付きの侍女見習いの少女から聞き及んで、レオノーラはもう、その日は一日中、時々「もう、いやー!」などと叫びつつ、真っ赤な顔で寝所の寝台に潜り込んで、ばたばたしているほかはなかった。

 そんなレオノーラを見て、例によって面の皮の厚い王太子ご本人は、もちろん「羞恥」の「しゅ」の字もない顔で、ただもう心底楽しげに腹を抱え、涙まで滲ませて爆笑していたのだった。

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