第2話 初夜
王太子殿下と侯爵令嬢レオノーラの婚礼の儀は、それから間もなく執り行なわれた。ぽかぽかと春の日差しの温かい、天候に恵まれた吉日だった。
臣下を初め、近隣の貴族たちも多数招かれて、ノエリオール宮は華やかに着飾った人々で満たされた。王城の中庭やその周囲にも、王都や近場の村々などから大勢の人々が詰め掛けて、王太子の婚儀を大いに寿いだ。
レオノーラが純白の婚礼衣装に身を包んで、かちんこちんになって王太子の隣に並んで雛壇の上にいるその姿を、ヴァイハルトと父母、そして兄二人は大広間の隅でそっと見守っていた。
顔に婚礼用の白いヴェールをかけたレオノーラの表情は、遠目ではっきりと見ることはできなかったけれども、彼女があきらかにこちらを見つけていて、時々ちらちらと自分の家族らに目をやっている様子なのはすぐに分かった。
やがてその宴も果て、夕刻になって人々が三々五々、城から引き上げていく。その波を追いかけるようにして、ヴァイハルトも家族とともに屋敷に戻った。
父と母はこのところ、愛する一人娘の輿入れを心から喜びながらもどこか寂しげで、二人だけで屋敷に戻らせるには忍びなかった。そのため、ヴァイハルトも事前に希望を出して、この日は特別の措置で
屋敷に戻り、父母が自分たちの寝室に引き取ったあと、ヴァイハルトはまだ武官の礼服を着たまま、自分の部屋でぼんやりと窓の桟に腰掛けて夜空を見上げていた。
胸の中にぽかりと空いたその穴を、無遠慮な視線で見下ろしてくるのは、いつものあの「兄星」だ。
(……幸せにな。レオノーラ――)
今ではもはやヴァイハルトも、それ以外の何を望むこともなかった。
とはいえ、まだまだレオノーラの得たその地位を妬む者、喉から手が出るほど欲しがっている者らは存在している。今後も引き続き、あの王太子や宮宰マグナウト翁と共に、それらを虱潰しにしてゆく必要はあるだろう。今後もおいそれと気が抜けないことは確かだった。
あとはただただ、一日も早く懐妊でもして、彼女自身がその立場を確固たるものにしていってくれればと願うばかりだ。
「…………」
ヴァイハルトはそれでも、なにか恨みがましい思いで、大きな顔をして空を占めるその惑星をじっと打ち眺めていた。
今宵は初夜だ。
今日で本当に、妹はあの男のものになる。
頬をなぶる夜風を感じながら、ヴァイハルトはそこでしばらくそうしていたが、やがてひとつ溜め息をつくと、少しだけ自嘲ぎみに笑って、静かに窓を閉じたのだった。
◇
ようやく婚礼の儀のすべてが恙無く終了し、王太子妃としてそれらから解放されたのは、その日の夜半になってからだった。
一日中、あまり動きの取れない重い婚礼衣装に身を包み、堅苦しい挨拶と儀礼に埋め尽くされていたレオノーラがほっとしたのは、初夜を過ごす二人のために準備された後宮の寝所でのことだった。
天蓋つきの大きな寝台には、品のある意匠の施された豪華な厚手の垂れ布がさがっている。柔らかな寝床は、花鳥の刺繍のあるやっぱり華麗な掛け布で丹念に整えられていた。部屋の四隅には凝ったつくりの灯火台や燭台が置かれていて、静かに橙色の光を放っている。
寝所でこれから行なわれることを様々に補佐するために、部屋の隅に置かれた衝立の向こうには、こそりとも音を立てずに閨付きの女官たちがかしずいている。
すでに衣装は身の回りの世話をする女官たちによって着替えさせられ、レオノーラは白い薄絹の夜着と薄桃色のガウン姿になっている。
しかし、レオノーラが重い衣装から解き放たれて、柔らかくて大きな寝所のソファに座りこみ、やれやれと肩の力を抜いていたかといえば、それはとんでもなかった。
これからの閨でのあれこれについては、レオノーラも閨房の諸事担当の教育係の女官から、様々に、こと細かに指南を受けている。もうその話を聞いている時から、レオノーラは赤くなったり青くなったり、こちこちに固まってしまったり、それはもう大変なことだった。
それらのことが、これから現実になろうとしている。
そう考えるだけでもう、大声を上げてその場を逃げ走りたくなる欲求を、どうにもこうにも抑えられなくなりそうだった。
「何も心配はいらないのですよ」
こともなげに、落ち着いた声音で教育係の女官は言ったものだった。
「すべて殿下にお任せなさいませ」
殿下は殿下で、そちらの教育係から、必要な情報は指南されていらっしゃいますので、というのが、その女官の弁だった。
(いえ、でも……!)
レオノーラはさっきから、両手で顔を覆って身を縮め、もう真っ赤になっている。
問題は、そういう具体的な話以前のことだった。
そもそも、衝立の向こうに人がいる状況というのからして、耐えられない。
あの王太子殿下とこういうことになるのが嬉しくないはずはないのだけれども、どうしてここまで「公の場」で、こんなことに及ばねばならないのだろう。
王族の皆様というのはいつも、
こんな状況でこのようなことをなさるのだろうか……?
(ど、どどど、どうしよう……。)
レオノーラは今度は真っ青になって、ただもうソファの上でしゃがむような姿勢になり、そこで震えているばかりだった。
ぐるぐると考えれば考えるほど、気を抜くと目の前が暗くなってきて、ふっとその場で気を失ってしまいそうになる。
(いいえ! だめだめ……!)
そんなみっともないことになってしまったら、父や母や、これまで何かと自分のために尽力してくれた、あのヴァイハルト兄に多大な迷惑を掛けてしまうことになる。
レオノーラは必死になって気合を入れ、両手の拳を膝の上でぎゅっとにぎりしめて、ひたすらにその時を待っていた。
と。
「王太子殿下の、御成りです」
大きな観音開きの扉をそっと開いて、静かな女官の声がかかり、レオノーラはびくっと飛び上がった。
間髪いれず、ぐいと大股に、長身の王太子殿下が現れる。
「待たせたな、レオノーラ」
それはいつもの、落ち着いた低い声だった。レオノーラはおずおずと、自分でもわかるほどに不自然な動きで、今日から自分の夫となったその人を見上げた。
サーティークもまた、夜着の上に金糸の刺繍の入った濃い赤のガウンを羽織った姿で、扉のこちら側に立っていた。彼はしばし、少し驚いたような目で、長椅子で震えて座り込んでいるレオノーラを見ていたようだったが、やがてすいっと片手を上げると、こともなげにこう言った。
「今宵はいい。みな、下がれ」
即座に、音もなく女官たちが下がってゆき、あっというまに部屋には彼と自分の二人だけになる。
さっさと部屋の中にいた全ての女官を下がらせてくれた王太子を、レオノーラはびっくりして見上げていた。
サーティークは軽い足取りでレオノーラの近くにやってくると、その隣に無造作に腰掛けた。
「今日は一日中、堅苦しいことばかりで疲れたであろう」
「は、……い、いえっ……」
レオノーラの声は、とんでもなく裏返っていた。それはもう、いったいどこから出ているのかも分からなかった。
両の拳は、もう握り締めすぎて感覚がない。レオノーラはそこにじっと視線をあてたまま、王太子の顔を見返すこともできないでいた。
隣にいる王太子は、ちょっと言葉を切ってこちらを見つめていたようだったが、やがて、ふ、と軽い吐息が聞こえた。少し、笑っておられるようだった。
「……そう緊張するな」
「…………」
レオノーラはぱちぱちと瞼を何度か開け閉めしただけで、なにも答えられなかった。
「まあ、そう言われてそうできれば、苦労はしないのだろうがな」
くすくすと、静かな笑声が隣で聞こえる。
「…………」
レオノーラは、ふと不思議な思いになって、そうっと隣に目をやってみた。
王太子には、緊張など何もないのだろうか?
身分が身分だとはいえ、この人だって自分と同じで、こういうことをするのは初めてに違いないのに。
いくら教育係からあれこれ事前に指南を受けたとは言っても――。
そういう思いのすべては、レオノーラの瞳が如実に語ってしまったらしかった。
「そんなに不思議か?」
サーティークはそう言って、すっとソファから立ち上がった。
「勿論俺も、これらのことは初めてではあるが。今日のところは、別にそこまでいたさずともよかろうよ――」
さらさらと、こともなげにそんなことを言っている。
「…………」
思わずじっとその精悍な横顔を見つめてしまっていたら、ひょいと
「こんな、檻の隅で震えている小ネズミのようなモノに、わざわざ襲い掛かるほど、俺は野暮でも暇でもないぞ?」
つん、と指先でおでこをつつかれる。
「え……」
相当、失礼なことを言われているのだが、今のレオノーラにはそれに引っかかっている余裕はなかった。
「あ、あああの――」
つつかれた額に思わず手をあてて、レオノーラは震える声を上げた。しかし、サーティークはそれには頓着せずに、くるりと踵を返して寝台に向かう。
「今夜は、さすがの俺ももう疲れた。寝る」
ばさっと掛布を引き上げて、その上にガウンを放り出し、王太子はもうその中に潜り込みかけている。
「でっ、でで、殿下――」
慌ててレオノーラも立ち上がった。
このままここに放置されるというのは、それはそれでなんだか色々困ってしまう。
「ああ。その呼び方だが――」
すでに眠そうな声を出しながら、寝床からサーティークがこちらを見た。
「二人の時はやめてもらいたい。……構わんか?」
「……は?」
言われたことが分からずに、その場に棒立ちになったレオノーラを、サーティークは枕の上で片肘をついて頭を支え、少し笑って見返した。
「今後は、名前で呼んでくれ。父上、母上もお互いそのようになさっているしな」
「え、あの……ええっと――」
もうしどろもどろで、胸の前で両手をもみ合わせているレオノーラを見て、王太子は堪らず吹き出したようだった。
「まこと、そなたは……。面白いな」
そして、ちょいちょいと、「こっちへ来い」という手招きをした。それがあまりに自然な仕草だったせいか、レオノーラはつい、無意識にとことことそちらへ近づいた。
途端、ひょいと手を握られて、寝台の縁に座らされる。
「あ……」
驚いてどぎまぎしてしまったが、王太子は寝転んだ姿勢のまま、レオノーラを見上げただけだった。
「……そら。呼んでみよ」
にこにこ笑っている王太子には、なんの下心もないようだった。
「…………」
今まで彼を「殿下」としかお呼びしたことのなかったレオノーラにとって、これはこれで大きな試練のような気がした。かあっと、耳がまた熱くなった。
「え、ええ、っと――」
「違うな」
即座に言われて、「は?」と目をやれば、王太子の黒い瞳はやっぱり笑っていた。
「俺はそんな名ではない」
「…………」
レオノーラは、困って何もいえなくなる。再び茹で上がって俯くしかなかった。
勿論、それは単なる軽口なのだろうが、なにも間髪いれずにそんな事を言わなくても。サーティークは、そんなレオノーラの内面などお見通しのようだったが、ややわざとらしいしかめっ面を作ってまた言った。
「まさかとは思うが。俺の名前を知らんのではあるまいな? ……だったら面白すぎるぞ、そなた」
「い、いいえっ……!」
思わず、真っ赤になって言い返した。
「そっ、そんなわけっ……!」
そうだ、そんなわけはないだろうに。
(まったくもう、このお方は――。)
ちょっと膨れっ面になって唇を突き出してしまう。
恥ずかしくて、どぎまぎして、なにも出来なくなっていることぐらい、とうにお分かりでいながらも、こうして自分をからかうことが大好きなのだ、この王太子は。
と、その膨らんだ頬を、サーティークの指がまたつついた。
「……なら、言ってみろ。俺の名は?」
レオノーラはそれでも、しばらくの間、逡巡していた。
が、やがてとうとう、小さな小さな声で言った。
「……さま」
「あ? ……聞こえんな」
にやにやと、王太子は容赦なく言いなおさせる。
思わずちらっと、彼の顔をにらんでしまってから、レオノーラはまた向こうを向いて、もう少し大きな声で言いなおした。
「サーティーク様……です」
うんうん、とサーティークが頷いた。
「良かった良かった。忘れられているのかと思ったぞ」
わざとらしさの極みである。
「も、もうっ……!」
遂に憤慨して、レオノーラは更に膨れっ面になった。
ははは、とサーティークが笑声を上げる。
「その意気だ。そんな風に、いつも堂々としていればいい」
ぽんぽんと、その手がレオノーラの背を叩いた。
「……え」
驚いて見下ろせば、やっぱりサーティークは嬉しげな目で己が妃となった人を見上げていた。
「そなたは俺の妃だ。誰に恥じることもない。女官どもが煩わしければ、堂々と『出て行け』と言えばいい」
「…………」
レオノーラはきょとんとして、王太子を見下ろすばかりだ。サーティークは静かな声音で言葉を続けている。
「あまり、伝統やらしきたりやらに振り回されるな。いずれにしても、俺はそうした抹香臭いものにがんじがらめになったような女は好かん」
「…………」
「そなたは、そなたのままでいい。無理せず、今まで通り、なるべく自分の屋敷に居たまま暮らせ。文句をいう者がいるなら、まず真っ先に俺に言え。すぐにでも黙らせる」
(えーと……。)
それはそれで、相当に躊躇するけれども。いわばそうした自分の「告げ口」によって、身近な誰かがこの王太子からひどい責めを負うようなことになるなんて、どうも自分には耐えられないような気がする。レオノーラは困って、視線を宙に泳がせた。
「……わかったな」
最後にそういった王太子の目は、真っ直ぐにレオノーラを見つめていた。
「…………」
レオノーラは少し言葉を失っていたが、やがてこくんと、ひとつ頷き返した。
「はい……」
「よし。では、寝るか」
にかっと笑って、サーティークは寝台の奥へ身をずらし、掛布を持ち上げてレオノーラを自分の隣に差し招いた。
「……え」
自分に何を求められているのか一瞬わからず、レオノーラはちょっときょろきょろしてしまった。サーティークが変な顔になる。
「まさか、そちらで寝るとは言うまいな? 輿入れ早々、風邪をひくぞ」
ちらりと、その目線が先ほど座っていた大きめの長椅子の方を見やって、レオノーラも困ってしまう。確かに、それはどうにも心寂しい。
「勘弁しろ。そんなことになったら、そら……そなたの恐ろしいあの兄上殿が、俺を殺しに飛んでくるぞ」
サーティークが、何を思い出したのかまた吹き出した。
「まこと、冗談ごとでなくやりそうで参るわ、そなたのあの兄上は――」
そうやって笑う王太子は、ひどく楽しげに見えた。彼はどうやら、このところあの兄と随分親しくしてくださっているらしい。なぜそうなったのかまでは、レオノーラにはよく分からなかったのだけれども。
「俺の可愛い妹に風邪など引かせて」と、激怒するあの優しい兄の顔を思い描いて、思わずレオノーラも噴き出した。
「……そ、そうでございますね……」
くすくすと、笑いを収められずにいるレオノーラの細い腰を、次の瞬間、サーティークの腕が軽くさらって、あっさりと寝床に引き入れた。
「……あ!」
びっくりして目を見開いたら、目の前に王太子の顔があった。
そのまま、ほんの微かに、彼の唇が自分のそれに触れられた。
「……今宵はここまでとしよう。ゆっくり休めよ、レオノーラ」
こつりと、額と額をあわせて言われる。
一体なにが起こったのかもわからないでいるうちに、サーティークはレオノーラの頭を少しぽすぽす叩くようにしてから、あっさり掛け布を引き上げて横になると、むこうを向いて眠ってしまった。
「…………」
呆然と、その背中を見つめて横になっていたレオノーラは、そうっと自分の唇に指先を触れさせて、しばらくひとりで真っ赤になっていた。
けれども、それでもやがて、一日の疲れがどっと襲ってきたようで、遂にはそれに負けてしまい、隣の王太子殿下の背中の温かさを感じつつ、いつしかとろとろと、夢の中に
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