第四章 婚儀

第1話 木漏れ日

 王太子殿下ご婚約の儀は、その年の新年祝賀の宴からほどなくして、粛々と行なわれた。

 新年の宴の場で初めて王太子意中の相手の存在を知った臣下たちや貴族連中は、幸いにも表立った反対などはせず、レオノーラとその一家はそのままごく和やかに婚礼の儀までの日々を過ごすことになった。


 ……というのは、あくまでも建前の話である。

 実際には、あれほどマグナウトと王太子が下準備をし、相当のを埋めていたにも関わらず、水面下ではあれやらこれやら、家臣や貴族たちは大いに反対の狼煙のろしを上げんと暗躍してくれたのだった。

 王太子は勿論、そうして新たに出てきた火種の全てを見切って、一つ一つを着実に潰して回った。勿論ヴァイハルトも、それに大いに協力したことは言うまでもない。


 例えば、こんなことがあった。

 それは、ご婚約の儀も終わった、その年の夏のことだった。

 事前にどうも動きの怪しい貴族連中の話を聞きつけていたヴァイハルトは、サーティークとも相談の上、ひとつの罠を張ったのだ。

 ある日ヴァイハルトは、さもレオノーラが乗っているように見せかけて、実は隊内の細身で小柄な少年兵にドレスを着せた上で箱馬車に乗せ、それを王宮へ向かって走らせた。

 こちらの計画は図に当たり、いかにも盗賊風の装束に身を包んだ十数名の男たちが、抜刀して馬車を取り囲み、馬の足を止めさせた上で襲い掛かってきたのである。


 しかし、箱馬車の中からは、かねて待ち構えていたヴァイハルトとその部下の武官が数名飛び出し、あっさりと賊どもを斬り伏せ、蹴散らした。さらに、密かに馬車の後ろから追いかけさせておいたほかの部下らが、逃げ走ろうとする賊の残りを全て捕らえて、王宮へ連れ戻った。

 彼らを厳しく詮議したところ、黒幕の貴族の名はすぐに知れた。

 もちろん、その家の一族は厳罰に処し、首謀者の貴族の男は死罪を言い渡された。その家そのものも、未来永劫、断絶の運びとなった。


 これら一連の血なまぐさい顛末を、しかしサーティークは、ひと言もレオノーラには洩らさなかった。勿論、ヴァイハルトの家の者らには、ある程度の情報を与えて、彼女の身を守るようにと言い含めていたのだが。そして勿論、サーティークの息のかかった侍女や召し使いを送り込んでもいた。

 父母、そして兄たちは、これらの話を聞いて怖気をふるい、ひどく青ざめていたようだったが、サーティークはからから笑って、「心配いらん」と言うだけだった。


 ともあれ。

 その事件が、最終的な契機になった。

 サーティークは、そうしたいわば「魑魅魍魎」の蔓延はびこる外の世界から隔離するという意味もこめて、本来であればまだ自分の屋敷で過ごすはずの婚約者を、速やかに王宮に差し招いたのだった。そうして、サーティークやマグナウトの息の掛かった手足てだれの武官ら数名を常に彼女の身辺警護に置くこととした。

 また更に、機転が利いて信用の置ける侍女や召し使いで周囲を守らせ、普段からレオノーラの口にはいる物すべてにも十分に目を配らせた。

 ヴァイハルトにとっては想像することさえ忌まわしい話だったが、ちょっとした飲み物や食べ物から「謎の病」を発症して死に至った身分の低い「王族の婚約者」の話は、これまでのノエリオール宮の歴史上、枚挙にいとまがないからである。


 しかし、一皮剥けばそのような戦々恐々とした内情ではあったけれども、レオノーラ本人は至ってのほほんとしたものだった。それは勿論、かの王太子と、宮宰マグナウトそのほかの、信頼できる家臣団の心遣いの賜物だったろう。

 王宮の中庭などでたまに見かけるレオノーラは、それは幸せそうだった。ただ、未来の「王太子妃さま」としての自覚はとんと生まれていないようで、周囲の侍女やら召し使いやらに対しても、ひどくぺこぺこと、遠慮しきって応対している風だった。

 晴れて「未来の王太子妃」の座を射止めた立場であるにも関わらず、レオノーラはやっぱりレオノーラのままだった。ごく平凡な貴族娘としての振る舞い以上のことなど到底できず、たまに顔を見に現れる王太子の姿など見ると、またもう真っ赤になってしまって、急に物に躓く頻度が上がってしまうのだった。


 周囲の人々は、このやたら目下の人々にぺこぺこして、特に素晴らしい美女というわけでも、華々しい才覚があるというのでもないそそっかしい少女を見て、初めのうちこそ「なんでこんな小娘が?」という目をしていたものだった。

 事実、ヴァイハルトは憤慨したのだったが、実の両親ですらどこかでそんな風に思っていたらしかった。驚くべきことに、後々、当のサーティークから聞いた話では、両親はこっそりと、かの王太子にまで「なぜ我が娘を?」と尋ねすらしたらしいのだ!

 これにはさすがのヴァイハルトも、開いた口が塞がらなかった。


 どうしてみんな、あの可愛らしい妹の良さがわからないのか。


 どんな美貌に恵まれていても、たとえ才気に溢れていても、その心が汚泥のごとくに穢れているとしたら、それらに何の意味があろうか。

 「夜会」の場で折々に目にしたような、誰もが目を見張るような美しい娘も良いだろう。傍に置くなら、心の中身がどうであれ、そういう女性にょしょうがいいという男が多いのも、事実だとは認めよう。しかし。

 あの「夜会」で、妹レオノーラをさげすみ見ていたような少女たちには、レオノーラのまことの素晴らしさは、恐らく髪の一筋たりとも理解はできまい。そうして、そのような少女たちに、あのサーティークが目を向けることなど、もとよりあるはずがなかったのだ。


 今ではヴァイハルトも、不承不承ながらも理解している。

 サーティークが、まことに稀有な少年であって、いわば「心眼」とでも言うべきものを持ち、他人の人となりを判断する才を持つ者であることをだ。そしてそれは、確かに本物の王者には必須の才だといえるだろう。

 とは言え、最近ではなにやら随分と大人びた様子になってきた王太子は、「少年」というよりは寧ろ「青年」と形容したほうがしっくりくるような雰囲気を身につけつつあるのだが。

 そして、これは決してあの「少年」殿下に対して認めてやる気はないけれども、そのサーティークが他でもない、自分の妹レオノーラを選んでくれたという事実に対して、仄かな誇らしさをも覚えるのだ。


(絶対に、あいつには言ってやらないけどな。)


 ふん、と少し鼻を鳴らして中庭の隅の木陰に佇んでいたヴァイハルトを、侍女や召し使いらと共に宮殿から出てきたレオノーラが目ざとく見つけて、ぱっと笑顔になった。

 途端、薄緑色の長いドレスの裾を持ち上げてこちらに駆けて来る。

「兄さま! いらしていたのですか?」

 王族の一員となる者として、日々、厳しい教育係からそれなりの礼儀作法を教えられているはずなのだが、それでも兄であるヴァイハルトを見ると、レオノーラはいつもすぐ、元の「ただの貴族娘」に戻ってしまう。

「ああ、ちょっと殿下にお話があったものだからね」

 優しく笑って、そんな妹を迎え入れる。


 先ごろまでは冷たかった風も、最近ではとみに優しい微風となって、ときには馥郁ふくいくとした花の香りを運んでくる時候となっていた。

 サーティークとレオノーラのご婚約の儀が終わって、そろそろ一年が過ぎ去ろうとしている。ご婚約の儀と婚儀との間に相当の期間をおくのは、この国の古くからのしきたりだった。恐らくは、確かに王家の血を受け継ぐ男子を儲けるためであろうと思われる。

 ヴァイハルトは感慨を籠めて、小ぶりな妹の手を取り、少し屈んで囁いた。

「いよいよ、あとひと月だね。心の準備はできてきたかな? 『王太子妃殿下』?」

 少しおどけて、片目をつぶって見せる。

「えっ!? ……は、……い、いいえ……」

 驚いて見上げてきた鳶色の瞳は、やっぱり自信のなさげな色をいっぱいに湛えて、しおしおと足元を見つめてしまった。


(……おやおや。)


 これはさぞかし、教育係の中年女から、毎日のように厳しくあれこれと叱られてしまっているのだろう。少し可哀想にはなるが、立場が立場である以上、それもやむを得ない話だ。教育係のその女だって、別に意地悪でしているのではなく、ただ仕事に忠実であろうとしているばかりのことなのだから。

 ヴァイハルトはしおれてしまった妹の細い背中を軽く叩いて、にっこり笑った。

「大丈夫。殿下ならお前のことを、ちゃんと支えてくださるさ――」

 気がつけばヴァイハルトは、本人が目の前にいたら決して吐かないだろう台詞で妹を励ましていた。

「何も心配はいらないよ。レオノーラのにあるものは、ほかのどんなご婦人にも負けないのだから」

 言って、そっと彼女の薄い胸のあたりを指差してやる。

「…………」

 レオノーラがまん丸に目を見開いて、じっとこちらを見上げてきた。

「ヴァイハルト、にいさま……」

 あっという間に、そこに熱い雫が溢れ出して、こちらの方がちょっと慌てた。この妹は、それほど不安で、自信がないのだ。それはもう、無理からぬ話である。

 なによりも、当の彼女自身がまだまったく、自分がそんな立場に選ばれたことの実感もなければ、自分を望んでくれた王太子の気持ちも理解できないでいるのかもしれなかった。


(……だが。)


 ヴァイハルトは、そっと妹の橙色の髪を撫でて優しく言った。

「お前なら、心配いらない。何よりも、他ならぬあの王太子殿下が、あの大勢の娘たちの中からお選びくださった、たった一人の人なのだから」

「…………」

 レオノーラはしばらく考え込むような顔をしていたが、やがてこくんと頷いた。それでもその頬からは、悲しみの色が消えてくれない様子である。

「でも……」

「ん?」

 胸のあたりから小さな声が聞こえて、ヴァイハルトは顔を上げた。

「でも、ちょっと……寂しいのです」

 言った途端、またぽろぽろっと、レオノーラの瞳から涙が零れた。

「だって、婚儀が終わってしまったら……、もう、お父様にも、お母様にも……兄さまにも、すぐにはお会いできなくなるのでしょう……?」

「…………」

 ヴァイハルトは、押し黙った。

 そればかりは、この自分でもどうにもしてやれないことだった。


 今現在ですら、相当のお目こぼしでこうして会わせてもらっているが、いざ正式に彼女が王太子妃になり、後宮に入ることになれば、たとえ肉親だとはいえ、おいそれと顔を合わすことは難しくなるだろう。

 勿論レオノーラも、そのことは周囲の者らから聞いて知っている。

 あの王太子の妻になることは心から嬉しいようだったが、反面、肉親と容易くは会えなくなるということに、随分と気が塞いでいるのも事実のようだった。

「……そうだね。そればかりはね――」

 少し、その場を沈黙が支配する。


「でもね、レオノーラ」

 ヴァイハルトは、落ち着いた温かな声で妹の名を呼んだ。

 こうして何のてらいもなく妹の名を呼べるのも、あと何回のことだろう。たとえ肉親だとはいえ、婚儀の後ではそうすることは許されなくなる。たとえ兄でも、少なくとも公式の場では、彼女を「王太子妃殿下」とお呼びしなくてはならないのだから。

「私も、お父様も、お母様も、兄上たちも……、ちゃんといつもお前のことを思っているよ」

「…………」

 小さな子犬のような目で、妹がじっと自分を見上げている。

「離れていても、いつもちゃんと思っている。お前が本当に困ったことに巻き込まれたら、どんなことをしてでも助けに来る。……約束するよ」

 レオノーラの瞳が、頭の上で木漏れ日になっている春の日差しをうけてきらきらときらめいた。

「ヴァイハルト兄さま――」

 そうして、固かった花の蕾がほころぶように、その顔にやっと微笑がもどった。

「約束よ? 本当に約束よ? ヴァイハルト兄様……!」

「ああ。お前の兄を信用してくれ」

 ヴァイハルトも、最近とみに貴族娘に受けのいい、「爽やか」と評される笑顔を向けて妹にそう言った。


「だから、お前は堂々と、式に臨めばいいのだよ。レオノーラ」

 そう囁いたその声が、そのまま自分の胸に突き刺さるのを、ヴァイハルトははっきりと認識していた。

「そして立派な、王太子妃殿下になっておくれ――」

 それでも笑顔を崩さないまま、妹の手を取って、侍女たちの立っている中庭の中央へと歩を進める。


「はい。ヴァイハルト兄さま――」

 その声はもう、すっきりとして明るかった。


 愛するその人の橙色のおくれ毛が、さやさやと薫風に揺れていた。

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