第6話 宣言
そして、その春。
年の初めを祝う宴が、また今年も王宮内で
今年のそれは、王太子の妃選びのための「夜会」とも連動していて、朝からその夜半まで、盛大に催されることになっていた。
今回のその
ヴァイハルトは武官としてのきりりとした正装姿で、黒いマントを流して妹レオノーラに腕を貸し、大広間の隅に佇んでいた。今日のレオノーラは、柔らかな桃色のドレス姿だ。髪にはあのお気に入りらしい、橙色の髪飾りを挿している。
ヴァイハルト自身は勿論、今日のこの場で何がおこなわれるのかを知っていたが、家人にそれを漏らすことは厳に禁じられており、何も伝えてはいなかった。
何も知らないレオノーラは、その場に集まった美々しい人々を目を輝かせて見つめているばかりだ。彼女の目は、そのうち壇上に現れるであろう王太子の姿を一刻も早く見たくてたまらないようにきらきらしていた。
と、昨年と同様に、その場の一同が急に口を閉ざして静まり返り、雛壇上に、正装をした王家の人々が姿を現した。国王ナターナエルとその妃ヴィルヘルミーネ、そしてその一人息子たる王太子サーティークだ。お三方の後ろから、やや控えめな足取りで、とことことついて来たのは、小柄な体躯の「巨人」、宮宰マグナウト翁その人だった。
昨年の夏至の頃から以降、国王陛下はご体調芳しからぬ日々を過ごされてはいたものの、この日は比較的お顔の色もよく、また心穏やかであられるご様子だった。
陛下は例年どおり、集まった人々に向かって新年を寿ぐお言葉を述べられると、妃と共に静かに玉座に座られた。
しかし今年は、いつもなら共に着座される王太子が、そのままそこに佇んだままだった。宮宰マグナウトが、少し彼に近づいて、斜め後ろで足を止める。
「皆に話がある。少し聞いてくれ」
低いが凛としてよく通る王太子の声が大広間に流れて、人々はしんと静まり返った。
「いったい何事か」とばかりに人々の視線が自分に集まったのを見定めたように、近頃ではとみにその風貌に青年としての色気を漂わせ始めた王太子は、ゆっくりと口を開いた。
「本日は、丁度よい機会である。父上、母上にはすでにお話し申し上げたことではあるが、この場で皆にも紹介しておく――」
王太子の声は、年に似合わぬ落ち着いたものだったが、朗々と広間の隅々にまで届いた。その態度も堂々としたもので、なにを
王太子はすいと目線を動かして、ちらりとも
「レオノーラ嬢、こちらへ」
すっと片手をこちらへ差し伸べている。
「え、え……??」
びっくりして案の定、その場に固まってしまった妹の手を、ヴァイハルトは腕でやや強めに引くようにして、一歩、前に進んだ。
「さあ、行こう。殿下がお呼びだよ、レオノーラ」
静かに振り向き、にっこりと微笑みかける。
「え? あ、あのっ、兄様――」
おろおろしているレオノーラの手をもう片方の手で押さえるようにして、そのまま彼女の体を引っ張り、人々の間を縫って進んでいく。
これらすべては、事前にかの王太子と、マグナウト翁の二人に相談済みのことだった。
驚いた目でこちらを凝視し、
壇上にのぼるための小さな階段のところで、一旦彼女の手を放そうかとしたのだったが、妹の方をさりげなく見て、諦めた。レオノーラはもうがくがく震えっぱなしで、すでに顔色をなくしている。薄い体は強張って、とても一人でまともに王太子の傍まで歩いて行けそうになかった。
(……仕方ないな。)
ヴァイハルトは自分の肘に掛かっている妹の手をもう片方の手で支え、彼女を促して、ごくゆっくりと段をのぼった。
大広間中の人々の視線が、様々の思惑をはらんで体じゅうに突き刺さってくるようだった。その中には明らかに、この細い体の妹を眼光でもって焼き殺さんというような、物騒な
顔を前に向けていても、妹が隣でもうぶるぶる震えているのが分かった。彼女を連れて、ヴァイハルトは壇上で待つ凛々しい王太子の方へとゆっくりと歩を進めた。
サーティークは口許に静かな笑みを湛えてこちらを見つめている。彼の背後にいるマグナウト、そして玉座におわします国王ナターナエルとその妃ヴィルヘルミーネの瞳も、ごく温かで優しかった。
サーティークから三歩ばかり手前のところまで進んで一旦止まると、ヴァイハルトは王太子の顔を真正面から見据えた。サーティークは動きを止めた二人を見て、少し小首を傾げるような仕草をしたが、特に何も言わず、じっとヴァイハルトを見つめるようだった。
ここで手を放し、レオノーラを目の前の男に渡す。
自分の役目は、そこまでのことだった。
しかし。
妹の手を捕まえている自分の左手が、どうにも離れがたいと言っていた。
(本当に、幸せにしてくれるのか。)
ほんとうに、この大事な大事な妹を。
「……レオノーラ」
静かに、ヴァイハルトは妹に尋ねた。
「…………」
がちがちと奥歯が鳴っているのが分かるような表情で、レオノーラがおずおずと隣で顔を上げた。その顔はもう、蒼白だった。
ヴァイハルトは、この妹が赤子の頃から彼女に向かって見せ続けてきた、いつもの柔らかで優しい笑顔を作って微笑みかけた。
「レオノーラ。無理はしなくていいのだからね」
「…………」
恐怖にひきつったような顔の妹の、鳶色の瞳がじっと自分を見上げてきた。
「いやならいやと、お答えしたので構わない。お前のいいようにしていいんだよ」
「…………」
レオノーラは、分かったのか分かっていないのか、機械仕掛けの玩具のようにかくんと首を縦に振った。自分の腕を掴む手に、ぎゅうっと凄まじい力がこもったのが分かる。
二人の会話が途切れたらしいのを見て取って、王太子がまた口を開いた。
「レオノーラ」
年に似合わぬ、深くて静かな声だった。
その時、目を上げて、ヴァイハルトもちょっと息を呑んだ。
この王子が、こんな顔をするとは知らなかった。
その目は真っ直ぐに妹の方を見ていたが、いつもの豪胆でやや
その瞳はただただ優しく、微笑みは温かかった。
(こんな
それも恐らく、この妹の前でだけ。
少し呆然としながらも、ヴァイハルトは妹の手をそっと離して、やや後ろへ下がるようにした。
サーティークは片手を妹に差し伸べて、ゆっくりとその言葉を紡いだ。
「俺の、正妃にならないか」
その瞬間、巨大な大広間の中はしんとした。
まさに、水を打ったようだった。
その隅々にまで、人々がぎっしりとひしめいているにも関わらず、しわぶきのひとつも聞こえなかった。
この場で答えを求められている、たった一人のその人は、もう石のように固まって、じっと相手の顔を凝視しているばかりだった。
陛下も、王妃も、宮宰閣下も、ただにこにこと、ことの成り行きを見守ってくださっている。しかしレオノーラは、もう微動だにもできないで、ただただ王太子の顔を見つめ返しているばかりだった。
ヴァイハルトはやむなく、また一歩前へ出て、レオノーラの腕に指先だけを触れさせた。そして静かに、彼女の耳に囁いた。
「……殿下がお訊ねだよ、レオノーラ」
その途端、ぴくり、とレオノーラの体が飛び上がった。
小さな顎がかくかく震えて、やっとそれが、人形でなくて生きた人であることが分かるようになる。
「…………」
それでも、一言も発することはできないで、レオノーラはしばらく、目の前の凛々しい青年をじっと見つめているばかりだった。
やがて。
かくかくかく、とその頭が、やっぱりからくり人形さながらに縦に動いた。
次の瞬間。
ぱっとサーティークが破顔したかと思うと、一気にレオノーラに近づいて、その細い体を折れんばかりに抱きしめた。
レオノーラは棒立ちのまま、ただ抱きしめられるままになっている。
大広間はやっぱりしんとしていて、誰一人、声も音も立てなかった。
しかし。
ぱんぱんぱん、と手を打ち叩く音がして、ヴァイハルトが目をやれば、他ならぬ国王ナターナエルが、優しく穏やかな瞳で二人をうち眺めつつ、静かにその手を鳴らされていた。それに倣うようにして、王妃ヴィルヘルミーネと宮宰マグナウトが手を叩き始める。二人とも、ひどく嬉しげな目の色だった。
そうして、ぱらぱら、ちらほらと、次第にその広間全体にその拍手の音が広がっていった。やがてその音は大きく轟きわたり始め、周囲を呆然と見回している、ヴァイハルトの家族たちをも
もちろん中には何人か、「我こそは」とばかりにめかしこんだ貴族娘たちが、その場で卒倒して騒ぎになるなどという事態も起こっていたらしかったが、その時のヴァイハルトには見える筈もないことだった。
大いなる祝福の渦のなかで、ヴァイハルトは一人、胸の痛みに耐えていた。
いつも、「にいさま」「兄様」と、自分のあとを追いかけていた妹が。
この世のほかの誰よりも、幸せでいて欲しいその人が、とうとう自分の手から離れて行った。
急に、胸の中心に大きな風穴でもあいてしまったような思いに捉われて、ヴァイハルトはぎゅっと一瞬、目をつぶった。
きりきりと、そこが本当に痛みを覚えて、礼装の上から拳で力任せに握り締める。
(……いや。そうじゃない。)
そうではない。
妹が、レオノーラが、幸せでありさえすれば、それでいい。
彼女の傍にはいられなくなろうとも、もうこれからは、代わりにこの王太子が、この国随一の権力者が、その傍にいてくれるのだ。
男の自分から見ても、年に似合わぬ見事な胆力と行動力、さらに知力を兼ね備えたこの男が、全身全霊をかけてこの妹を守ってくれようというのだから。
(なんの不服があるものか。)
ヴァイハルトは再び目を上げ、まだかちんこちんのレオノーラを抱きしめている、王太子の顔に目をやった。王太子の目がこちらを向いて、じっとその瞳と見つめ合う。
『不幸にしたら、許さんぞ』。
ヴァイハルトのその心の声を、王太子は正しく受け取ったようだった。
『信じろ。任せておけ、ヴァイハルト』。
口端をにやりと上げて、王太子はいつもの不敵な笑顔を見せた。
ヴァイハルトは、いつもながらのその顔を見て、ちょっと苦笑すると、王太子とそのご一家に深々と一礼をし、静かに壇上から下りたのだった。
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