第4話 老マグナウト

 翌日。

 なんとも形容のしにくい、妙な表情をした上官の男に呼び出され、ヴァイハルトは兵舎内にあるその上官の執務室で、とある辞令を受け取った。

「千騎長……で、ございますか」

 絶句して、その上官の顔を凝視する。

「そこにそう書いてあるなら、そうなのであろう。俺の顔には何も書いておらんぞ」

 何か憮然とした声で、上官の男がそう言った。


 このノエリオール王国軍に仕官してから、一年と半年あまり。

 ヴァイハルトはこの若さで、入隊当初の十騎長から、いきなり二階級上がって千騎長に任命されたのだった。

 ちなみにこの国の千騎長というのは、「地球」とやらいう異世界の軍制で言えば少佐や中佐クラスということになるらしい。いずれにしても、この時まだまだ育ち盛りの、やっと少年から青年になりかけたばかりの若造にすぎなかったヴァイハルトには、それは破格の待遇だと言えた。


 ヴァイハルトにその辞令を手渡した上官は、肩から黒マントを流した万騎長だった。彼は当然ながら、すでに苦みばしった中年男である。堂々とした体躯のその男は、頬をゆがめるようにして苦笑しながら、ヴァイハルトにこう訊ねたものだった。

「貴様、街なかでお忍びのところの王太子殿下を、盗賊どもからお救いしたそうではないか? うまくやったもんだな、まったく――」

 昇進の理由としてはどうやら、平然とそういう話をでっちあげてくれているらしい。

 勿論、あの外連味たっぷりの少年殿下の仕業であろう。


(まったく……。)


 ヴァイハルトは心密かに溜め息をついた。

 王太子殿下の腹の内など、分かりきっている。

 今後、レオノーラとあの王太子の婚儀に関して起こりうる様々な事案について、いんように、なるべくその障害を取り除くべく働けと、つまりはそういうことなのだ。


「ああ、それとな」

 さも面倒臭そうに、顎を掻きながら万騎長の男が言った。

「その足で、貴様はすぐさま宮宰マグナウト閣下のもとへ伺候せいとのお達しだ」

「宮宰閣下が……? それは――」

「いいな。俺はちゃんと伝えたぞ」

 こちらの質問を遮るようにして、ぶっきらぼうにそれだけ言うと、男はさも煩げに、犬を追い払うような仕草でヴァイハルトを執務室から追い出した。 

 万騎長の執務室を辞して、ヴァイハルトは言われた通り、王宮の廊下を歩いて戻った。そのまま、宮宰マグナウトの執務室を目指す。渡されたばかりの辞令書の羊皮紙を横目で眺めつつ、思わず眉を顰めて肩を竦めた。


(なんで俺が、レオノーラの結婚の後押しなど――。)


 正直なところを言えば、そんなもの、まったく積極的に手伝おうなどという気持ちにはなれなかった。

 ただ、自分が協力してやらなければ、あの純朴なばかりのレオノーラが、海千山千の貴族の娘らやその親族に、骨の髄まで粉々に砕かれるようなことにもなりかねない。そんなことだけは、決してあってはならなかった。

 あのサーティークも、勿論己が結婚相手を守るためにはできる限りのことはするだろう。しかし、彼が王族である限り、その目から零れ落ちてしまう事象というのはどうしたってあるものだ。王本人がどうであれ、その下にいる臣下たちは、こと自分の権益に反すること、また自分が責任を問われかねないことについて、ことさらに言いたてようとはしないものなのだから。

 そうして恐ろしい「犯罪」が、ごく秘めやかに、闇から闇へと葬られてゆく。王宮というものは、昔からそうした殺伐たる出来事の温床になりやすい場所なのだ。その温床にたむろする蛇どもの毒牙から、あの妹だけは、なんとしても守り抜いてやらねばならない。


 だからこれはヴァイハルトにとって、もはや「背に腹は替えられない」というだけの話だった。

 ともかくも、千騎長としての仕事に一日も早く慣れた上で、王太子妃選びに関する周囲の噂や動きにも、できるだけ目配りをする必要がある。つまりはいきなり、ヴァイハルトはこの若さで、通常の二人分、いや年齢的なことを考えればそれ以上の使命を課されたに等しかったのだ。


(やれやれ……。)


 それにしても。

 宮宰閣下が、自分ごときに何の用があるというのか――。


 老宮宰マグナウトは、言わずと知れたこの国の文官最高位の人物である。

 文官でありながらも胆力に優れ、博識、英明、人望に篤く、また仁徳において右に出るものなしとまで噂される、臣下としてはまごう方なきこの国最高位の老人だ。

 すでに相当な高齢であるにも関わらず、いまだにあの国王ナターナエルですら、この老人には一目も二目も置き、心よりの信頼を寄せておられるやに聞いている。

 そんな大人物が、こんな若造をわざわざ自室に呼びたてる、そんな理由があるとするなら――。


「千騎長ヴァイハルト、入ります」

 様々に思い巡らすうちにも、あっという間にその老人の執務室にたどり着き、よく通る声で一声かけて、ヴァイハルトは部屋に入った。

「おお、来たかの」

 大きいがさしたる装飾もない執務机の向こうから、温順そのものの優しい声音が聞こえた。ヴァイハルトは扉のこちら側で、すぐさま姿勢を正し、武官としての礼をした。

「お呼びに預りました、ヴァイハルトです。お初にお目に掛かります」

「ああ、うんうん。まあ、楽にするがよいぞ」

 にこにこ笑いながら、小柄な老人が目の前にとことことやって来る。


 老人の背丈は、その頭の上の飾り帽の分を入れても、今のヴァイハルトのせいぜい胸の辺りまでしかなかった。首飾りや腕輪などの装飾品は殆どつけず、文官服も決して豪奢なものではない。一見すると、どこにでもいる好々爺であって、服装がこうでなければ、まことにただの市井の老人としか見えなかった。

 何よりも彼からは、高貴な身分の人々によくあるような、自分を実際よりも大きく見せようとか、変に肩肘を張った高慢そうな雰囲気などが微塵も感じられなかった。

 ヴァイハルトは何となく、本能的にこの老人に好意を覚えた。


 マグナウトが微笑んだまま、さりげなく手を上げると、室内にいた補佐の文官や召し使いたちが、黙って素早く部屋を辞していった。

 部屋にはヴァイハルトと老人だけになる。


(一体……。)


 ある程度の察しはついていたが、初対面の老人といきなり一対一にされ、ヴァイハルトは多少、居心地の悪い気分になる。直立不動の姿勢のまま、無意識のうちにほんの少し視線を揺らした。

「ああ。まあそう、緊張せずにな」

 老人はやはり優しげな笑顔を崩さないまま片手を上げると、ヴァイハルトを客用の応接セットへいざなった。

「いえ、自分はここで」

 と、ヴァイハルトは当然固辞したが、「それでは、年寄りは失礼させてもらおうかのう」と軽く言い、マグナウトは「よっこらしょ」とソファのひとつに腰掛けた。

 小柄な老人が大きめのソファにちょこなんと腰掛けると、なんとも言えない滑稽味があって、どうにも可愛らしい様子に見えた。

 老人はそこに座るやいなや、軽い挨拶でもするような声音でさらりと言った。

「話というは、ほかでもない。そなたの妹御の件よ――」


(……やはりか。)


 そういう思いと共に、ヴァイハルトは思わずぴりっと身構えた。


 この老人とて、臣下の一人だ。

 このたびの王太子殿下の妃選びの顛末で、王宮付きの臣下たちの目の色の変わりようと言ったら、凄まじいにもほどがあった。彼らはできることならどうにかして、自分の一族の娘を妃に迎え入れて貰わんと、人脈やら財力やら、ともかく使えるありとあらゆる手を使って、王宮に食い込もうと頑張っているのである。

 となれば、目の前の老人だとて、自分の、いや、あの妹の敵であるかはたまた味方か、知れたものではないではないか。

 わからぬ以上は、唯々諾々と、こちらから下手な情報をくれてやるわけにはいかない。用心深く立ち回るに越した事はなかった。平たく言えば、こうして「妹御のことよ」と言われても、「はあそうですか」とすぐに答える訳にもいかないのだ。


「…………」

 しかし、ヴァイハルトはそのようなことを一瞬のうちに脳裏に描き、それと同時に答えに窮して、ただ無意味な沈黙を続けてしまった。この国の最高文官に向かってすぐさま卒のない答えを返すには、ヴァイハルトはどうにもこうにも、まだまだ場数が足りなかった。この若さばかりは、どうしようもないものである。

 マグナウトが少し、困ったような笑顔になった。

「ああ、うん。まあ、無理もないわのう……」

 その様子は、そんな青年士官の目の色をすぐさま読み取ったかのようだった。

「気持ちは重々分かるのじゃがの。そう警戒せずともよい。話は若から、よくよくお聞きしておるからの……」

 それは至極おだやかで、子供を宥めるような声音だった。

「は……?」

 思わず聞き返したヴァイハルトを、老人はやっぱり、優しい瞳で見つめている。

「まあ、見てのとおりの老骨、非才の身ではあるのじゃがの。そなたの妹御の此度こたびの一件、この老いぼれも一枚、噛ませていただくことになったのでのう――」


(え……。)


 ちょっと信じられない思いで、目を見張ったヴァイハルトを見上げて、老人はさらににっこりと微笑んだ。老人がそうすると、皺だらけのその顔が、さらにしわくちゃになって見えたが、それは大層なごやかで、温かいものを湛えた笑顔だった。

「要はまあ、これはその挨拶じゃよ、『兄上殿』」

「…………」

「心配ならば、後ほどいくらでも若に訊ねてみればよい。困ったことがあれば何なりと、この老骨を頼るがよいぞ」

 ヴァイハルトはそれでもまだ、ただ黙ってその小柄な老人を見つめていた。その不躾な視線に対して特に不快そうな顔も見せずに、マグナウトは言葉を続けている。

「体の方はこのとおり、老いさらばえて如何ともしがたいが。少しばかりの年の功、困った時には多少の知恵なども授けてやれようほどに――」

 それは、この老人の立場と名声からすれば、寧ろへりくだり過ぎではないかと思えるほどの謙虚な物言いだった。ヴァイハルトは、思わず少し肩の力を抜いて、じっと老人を見返した。

「ともあれ、若とそなたの妹御をお守りせんがため、今後ともよろしゅう頼むぞ?」

 言ってまた、にっこりと微笑まれた。


 そういえばこの老人、先ほどからずっと、かの王太子のことを「若」と呼んでいるようである。その物言いや表情から察するに、どうやらこの老人、ことほかかの王太子の人となりを気に入っているらしい。

「話というは、それだけじゃ。それではの、『兄上殿』」

 まだ半信半疑といった顔のままのヴァイハルトに、ちょっと苦笑しながらも、マグナウトは茶目っ気たっぷりにそう言って、彼を部屋から下がらせたのだった。



                ◇



 なにやら狐につままれたような気分のまま、ヴァイハルトは新たに自分にあてがわれることとなった兵舎内の執務室に戻った。

 部屋に入り、恐らくは自分よりも年上であろう補佐の武官に挨拶をする。

「この度、千騎長を拝命することになったヴァイハルトだ。見てのとおりの若輩者だが、以後よろしく頼む」

 ひとつ頭を下げると、あちらも几帳面な礼をした。

「はっ。こちらこそ、どうぞ宜しくお願い申し上げます」

 ヴァイハルトはすっと頭を上げた。

「ともかくも、分からぬことだらけだと思うのでな。色々教えて貰いたい」

 にっこり笑って、ざっくばらんにそう言うと、年上の補佐官は、あちらのほうでもにこりと笑って頷いた。

 どうやら見たところ、この人選にもしっかりとマグナウトやサーティークの意向が含まれているらしい。補佐官の男は、一見して気持ちのいい、真面目そうな風貌だった。何より、口が堅そうである。今回のヴァイハルトの昇進の、最大の目的を鑑みれば、それこそが何よりの肝だった。


 その士官を初め、関係する部下らにひと通りの挨拶を済ませてから、ヴァイハルトはそこに用意されていた千騎長の軍服に袖を通した。もとの士官用の軍服はこれまで草色を基調としたものだったが、将校としての軍服は灰色を基調としたものとなる。

 さらに将校の身につけるものとして、やや凝った意匠のついた軍刀と、襟章や肩口の飾り紐などもテーブルの上に準備されていた。新しくつややかな黒い長靴ちょうかも、机の傍に置かれている。

 手早くそれらを身につけると、新たに千騎長となったこの青年士官は、執務机の上に積みあがった引継ぎの書類を前にして、さっそく自分の仕事にとりかかったのであった。


 余談ながら、後日、王太子本人に当たってみたところ、かの老マグナウトは間違いなく、サーティークからの要請をうけ、このいわば「王太子ご婚儀作戦」とでも言うべき一連の策謀において、その重要な一翼を担うことになったという話だった。


 かくして、この「作戦」は始動した。

 王太子サーティークと、宮宰マグナウト、そして新たに千騎長になったレオノーラの兄ヴァイハルトの三人が、その「作戦」の主たる首謀者となったのである。

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