第3話 秘密
「いえ、殿下……。お待ちください」
混乱した頭を整理しようと務めながら、ヴァイハルトはようやく声を発した。
自分の小さな兵舎の私室に、目の前で傲然と腕組みをして立ちはだかるようにしている長身の少年は、誰あろうこの国の王太子だ。
「俺が妹御にお会いするのに、なにか不満があるなら聞こうと言っている。この際だ。言いたい事はさっさと言っておくが吉だぞ」
サーティークはばさばさと、言いたいことを少ない単語でまさにヴァイハルトの顔に叩きつけるように言い放っている。
「多少の無礼も、今なら許す。言ってみろ」
機嫌が悪いというほどのことでもないようだったが、その瞳はヴァイハルトを真っ直ぐに見据えていて、そんなことを言っていながらも、必要とあらば即座に叱咤せんという気がありありと窺われた。
(この……王子は。)
ヴァイハルトは、少なからぬ驚きを持って目の前の少年を見つめ返した。
これまでは
考えてみれば、ヴァイハルトはこの時点まで、この王太子の「素顔」とでも言うべきものを、まったく存じ上げなかったのだ。
あの温厚篤実を絵に描いたような王、ナターナエルとはまったく違う。どちらかといえばサーティークは、派手で明るく、活発で聡明な母、ヴィルヘルミーネの気質のほうを色濃く受け継いでいるように思われた。
ヴァイハルトよりは二つ年下であるはずなのだが、身長ももうさほどの違いもなくなっており、きらきらと光る黒曜石のような瞳は、輝き出んばかりの知的な光を放っている。彼の全身からは、豪胆さの中にも客観的で、繊細な観察眼を併せ持つ王者の気風が、すでに漂い始めているようにも思われた。
ヴァイハルトはその時、これらのすべてを意外に思う反面で、なにか心躍るような、なんとも言えない不思議な感覚に支配されていた。それがどういう思いであるのかを、その時点で名づけることは難しかったのだけれども。
そして、やや圧倒される思いで、ただ黙ってその王太子殿下の精悍な風貌を見返していた。
当の王太子は、さっきから黙りこくっている武官の少年をじろりと見やって、やがてひとつ溜め息をついた。
「なんだ。言いたい事はないのか? なら俺から話させてもらうぞ」
そうして一歩、ヴァイハルトに近づいた。
「いずれ、そなたの妹御を、俺の正妃に迎えようと考えている」
「…………」
それが余りに
しかし。
(な……に!?)
その意味を理解した途端、息をするのも忘れたと思う。
耳を疑うとは、このことだった。
ヴァイハルトはほんの数瞬、かっと目を見開いたまま、微動だにもしなかった。いや、できなかった。なんと言っても、それは即座に理解するには、その範疇をはるかに越えた内容だった。
(王太子妃……? あの、レオノーラを……?)
王太子は、その兄の驚愕をじっとその黒い瞳で観察するようにしながら、構わず言葉を続けている。
「しかし、今はまだ内密にな。……くれぐれも、言い置くぞ」
その目は真剣で、厳しい光を湛えていた。
「話したのはお前が初めてだ。ご本人にはもちろん、そなたのお父上、お母上にも当然、まだだ」
ヴァイハルトは、やはり黙ってそれを聞いていた。
「面倒な家臣どもの横槍なぞ、一筋も入れさせたくはないのでな」
「…………」
思わず見返したヴァイハルトの目を、強い光を放つその黒い瞳がまん前から射抜いてきた。その目は「当然、わかろうな?」と訊いていた。
「なにしろ妹御は、あのご気質だ。事前に周囲に知られてしまえば、思わぬ辛い目にもお遭わせしてしまいかねん――」
(そうか……。)
サーティークの言わんとすることは、ヴァイハルトにもすぐに分かった。
何しろ彼は、他ならぬこの国の王太子だ。今、この国じゅうの身分のある娘たちが、こぞって彼の
様々な予想が一気に去来して、思わずぞわりと背中が寒くなった。
(……確かに、駄目だな。)
ヴァイハルトは、即座に理解した。
もちろん自分も、さほど詳しい訳ではない。
それでも女の世界というものは、こちらが考える以上に過酷なものだというぐらいのことは知っている。かの「夜会」でレオノーラに向けられた、あの小馬鹿にしたような、いかにも不躾に嘲るような卑しい視線を、今もヴァイハルトは忘れていない。
ましてや彼女らの背後には、権勢と財力のある貴族の親族が山のように控えても居る。今後もし、あの平凡な容姿と身分の妹が王太子妃殿下の座を射止めたことが知られでもしてしまったら、そこからいったいどんな邪魔だてが始まるか、知れたものではなかった。
想像するだに、空恐ろしい。
いや、単に妹の気持ちを傷つけるような嫌がらせ程度ならまだしもだろう。
下手なことをすれば、レオノーラの心のみならず、その命さえ危うくする事態が起こらないとも限らない。実際のところ、この国の歴史上、低い身分から王妃の座に上ろうとした娘らが、その婚礼の直前に謎の「病死」を遂げた例など、いくらもあるのだ。
あの、ただ純真なだけの妹が、そのような過酷な状況に耐えられるはずがなかった。
(なるほどな……。)
目の前の王太子が心配しているのは、恐らくそういうことなのだ。そうしてそれは、あまり認めたくはないけれども、レオノーラという少女の人となりをよく理解しているからこその決断なのだろうと思われた。
もしも仮に、あの妹が王妃ヴィルヘルミーネのような、あらゆる障害をぶちやぶっても生き抜けるようなタイプの女であったら、この王太子とて、ここまで心配はしないはずだろう。
なおかつそれは、この王太子がかの妹を、心より大切に考えてくれていることの証左でもあった。悔しいながら、ヴァイハルトでさえ、それを認めぬわけにはいかなかったのだ。
ヴァイハルトの考えがそこまで辿りついたのを見て取ったかのように、サーティークはまた口を開いた。
「俺の父上、母上に話すには、十分に
言いかけて、精悍な風貌の王太子は、「いや」と呼称を言い直した。
「……ヴァイハルトには、どうか、我らの力になって貰いたい。くれぐれも、秘密は厳守で頼む。そして、今後起こると思われる様々の事柄について、妹御の力とも、また盾ともなって差し上げてくれ」
「頼む」、と目の前で頭を下げられて、はっと我に返り、ヴァイハルトはそれを押し留めるようにした。
「いえ! おやめください、殿下――」
サーティークはあっさり頭を上げると、じっと鋭い視線でこちらを見返してきた。
ヴァイハルトは居住まいを正すと、こちらもまっすぐに、王太子の瞳を見て言った。
「妹を守るのは、兄たる者として当然のことでございます。お話、よくわかりました。秘密は勿論、たとえ殺されようとも口にはしません。しかし――」
そこでぎゅっと、眉間に皺を寄せ、下腹に力を入れた。
「わたくし自身、この婚儀に賛同しているわけではございませんので。その事はどうか、お考え違いのなきように」
傲然と言い放って、頭を下げた。王太子の目がすうっと細められる。
「……なんだと?」
サーティークの声が、一段低くなったようだった。その目は「臣下の分際で王の子の意向に逆らうつもりか」という気分満載のものだったが、しかしそうは言わないで、じっとこちらの様子を窺っているようにも見えた。
ヴァイハルトは
「妹にしてみればそのような、醜いばかりの騒動に巻き込まれるより、平凡でも誠実な、もっと身近な殿方でも見つけて落ち着いたほうが、数段、幸せになれるものと思います。兄として、そのように望むのは当然のことと思っております」
ヴァイハルトはそう言って頭を上げ、「何か間違っておりますか」と言わんばかりの目で、王太子を見返した。
もちろんこんな不遜な台詞は、たかだか十騎長の身分の武官が、王太子に向かって言えることではない。場合によってはこの場ですぐにも、「無礼であろう」とお手打ちになったとしても、文句の言えない状況だった。
しかしそれでも、躊躇いなどは一切無かった。ことは、あの大切な妹の命にも関わるかもしれないことなのだ。ヴァイハルトには、ここで一歩も引くつもりはなかったのである。
「…………」
他ならぬこの国の王子を相手に、堂々と異を唱え、自論を展開してみせるヴァイハルトに、サーティークは意外にも、怒る風情は見せなかった。しかしもちろん、「機嫌がいい」というには程遠い、鋭い目はしていたが。
「…………」
少しの間、その場で立ち尽くして睨み合う。
冷たい空気がぴりぴりと引き締まって、更に冷え込んだようだった。
……が。
「ぷ……」
次の瞬間、サーティークが噴き出した。
それはなにか、いかにも「我慢に堪えかねた」という風情だった。
ヴァイハルトは思わずむっとする。
(何なんだ、こいつっ……!)
何が可笑しい。
許されるなら、この場で張り倒してやろうかとすら思った。
が、王太子はくすくすと、口許に拳をあてて、なかなか笑いやまなかった。
「な……んだ、貴様……」
サーティークはそう言って、ちらりとまたこちらを見やった。何を勘付いたものやら知らないが、先ほどまでとは打って変わって、非常に楽しげな目になっている。
「そういう、事か……」
ぶくくく、と、どうしても堪えることができないらしく、まだ肩を震わせて笑っている。ヴァイハルトは、自分の目が相当剣呑なものになったのを自覚した。
「いやはや、兄上殿までも……。なかなか、大した妹御であらせられるな?」
(意味がわからんわ。この、王太子――)
もう完全にむかむかしているヴァイハルトを
「ま、ともかくそういうことだ。よろしく頼むぞ、『兄上殿』」
ひらひらと顔の横で片手を振って扉を開け、もう出て行く様子である。
(だれが『兄上殿』だ! この野郎――)
もうレオノーラを嫁に貰ったつもりかと、
と、「ああ」と思い出したように、長身の王太子がしれっとした顔で振り向いた。
びしっとこちらの胸に向かって人差し指を向けられる。
「貴様、ついでに少し昇級させておく。多少は動きやすくなるだろう」
「な――」
が、続く声はもう届かなかった。
くはは、と軽く笑声を上げ、上機嫌になった王太子は、もう部屋の扉を抜けて、大股に廊下を行ってしまった後だった。
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