第2話 追跡

「そろそろ、戸外でお会いするのも難しい時候になって参りましたね」

 街の少年の装束に身をやつした王太子殿下が、年に似合わぬ低い声でそう言った。

 彼が口を開いた途端、その息は白く煙って空気に溶けた。


 王都クロイツナフトのあちこちには、丁度今のここのような、井戸のあるちょっとした広場が点在している。そのうちのいくつかが、二人が会うためによく使っていた場所だった。当然、風を遮るものなど何もなく、吹きさらしであって、それから身を守るすべはない。

 初めのうちこそ周囲の人目を気にしていた二人だったが、随分と気温の下がってきた昨今では、仕事以外のことで町を出歩く人も少なくなっている。勿論、それでも子供たちだけは別で、彼らは雪が降ろうが霜がおりようが、いつも元気に集団で、そこいらじゅうを駆け回っては遊んでいるのだったけれども。


 レオノーラが、冷たい空気のためにその頬と鼻の頭を真っ赤にして、きょとんとした顔で見上げてきた。

「あ……。そ、……そうですね」

 レオノーラはもう、今ではすっかり冬の出で立ちだった。分厚い毛皮のマントを羽織り、やはり厚手の毛皮の短靴ブーツを履いて、石畳の上に立っている。彼女のお付きのいつもの侍女は、同様の出で立ちで、さも寒そうに両手を擦り合わせたりしながら、いつものように広場の片隅で二人の話が済むのを待っている。


 見上げる空は、すでに冬らしいどんよりとした鉛色で、風がなくとも、足元から緊緊ひしひしと寒さが這い上がってくるようだった。もう少しすれば、またちらちらと、空から白いものが落ちてきそうにも見えた。

 レオノーラは、少し寂しそうな顔になって俯いた。

「殿下が、お風邪でも召されては大変ですね……」

「いえ。お呼び立てしているのはこちらですから」

 サーティークは、軽く笑って片手を上げた。


 この数ヶ月というもの、大抵はこんな風で、特段、大した会話をするのでもなかったのだが、二人はたまに外で会っては、こうしてほんの少しの時間、二言、三言の話をしているのだった。

 王太子サーティークは、近頃あまり体調のよろしくない父王ナターナエルの代わりに多くの政務をこなさざるを得なくなってきており、以前よりもずっと多忙な体にもなっている。

 父の体調が悪化するにつれ、母、ヴィルヘルミーネも次第に気持ちが塞ぎがちになって、最近の王宮の中の空気はやや、翳りを帯びてきているのだった。

 そんな中、多忙ではあったけれども、サーティークはどうかすると、どうしてもこの少女の顔が見たくなっては、その多忙の合間を縫って、こうして「市井の少年サムス」になり、彼女の屋敷に「手紙」を届けるようになっていた。


「……帰りますか」

「は、はい……」

 言葉少なにそういいあって、レオノーラの屋敷に向かって歩き始める。できるだけゆっくりと歩いても、いつも屋敷にはあっという間についてしまった。


「それでは、また」

 屋敷の門の前で軽く一礼する王太子に、レオノーラもスカートを持ち上げて腰を下げ、貴婦人の礼で応える。今では彼女も随分と、この王太子の前で緊張しすぎるほどではなくなってきたようだった。

 一見、長身で強面に見えるこの王太子が、さほど怖い人ではないことを、レオノーラも少しずつ理解してきているらしい。

「どうか、お気をつけて」

 小さく笑って、レオノーラが目を伏せる。

 サーティークはちょっと黙って、何かを言いかけようとしたようだったが、少し視線を揺らしただけで、やはり何も言わなかった。

「ええ。貴女も」

 それだけ言って踵を返し、もう後も見ないで大股にそこを離れた。

 彼女の視線が自分の背中にまだ当たっているのは感じたが、それでも振り向くことはしなかった。


 やがて。


 屋敷から随分離れ、王宮への道を辿っている途中で、サーティークはちりり、と首筋に奇妙な感覚を覚えた。


(つけられている……か)


 しかし、立ち止まることはせず、特に歩度も変えないまま、さり気なく建物の陰に入り、背嚢を下ろして、中から一応、己が愛刀を取り出した。

 愛刀、「ほむら」は、数年前、父王より賜った業物わざものだ。

 刀身のつくりは勿論見事な出来栄えだが、そのつかこしらえも、その名の通りに黒いほむらの意匠を巧みにあしらい、派手でこそないが全体に美しく整った、至極品のある刀剣だった。


 こんなみすぼらしいなりはしていても、たとえそれが子供でも、その持ち物や金子を狙う不届きな輩というものは、どこの街にもいるものである。これまでもサーティークは、不本意ではありながら、何度もそうした男たちの相手を務める仕儀になっていた。そして当然のことながら、彼らに遅れをとったことなどない。

 確かに面倒なことではあったが、まあそれが、この街の安寧を守る一助にもなると思えばどうということもなかった。

 倒した盗人ぬすっとどもは当然、街を管轄する警備隊へ突き出したが、警備兵らに対して自分の身分については明かさないまま、早々にその場を離れるのが常だった。とはいえこうした一連のことは、いずれ彼らを掌握する立場になる者として、その普段の様子や働きぶりを知っておく、いい機会には違いなかった。


(しかし……一人か。)


 それだけは、どうも奇妙な感じがした。

 自分をつけてきているその人物は、足音その他の雰囲気からして、たった一人である上に、武術の心得もあるようではなかった。それにどうやら、これまでに出くわしてきた盗人連中から感じるような、殺気だった荒んだも微塵も発してはいない。


(……ふむ。)


 サーティークはちょっと考えてから、すぐに刀を抜くのはやめにして、しばらく様子を見ることにした。

 「焔」はマントの下に隠すようにして片手に携えたまま、何食わぬ顔をして、そのまま通路を歩いてゆく。後ろからついてくるその男は、なるべく足音を立てぬようにしながら、ひっそりと黙ってあとをつけてくるだけのようだった。

 サーティークは、本来の道筋である王宮への道には戻らずに、そのまま商家や民家の立ち並ぶ狭い界隈を、適当に道を選びながら進んでいった。不自然に見えないよう、時折り立ち止まっては道沿いの店を覗いてみたり、ちょっとしたものを購入したりしながら、つけてくる男の様子を窺ってみる。

 男の方でも、さも何かその辺りで用事があるような風情で立ち止まり、こちらからは目を離さぬようにしているようだった。


 と、サーティークは、つい、とごく自然な動きで近くにあった古ぼけた宿の建物に入り込んだ。

 宿屋の親父がすぐに部屋の奥から顔を出し、小汚い様子の少年を見て、少し眉を顰めるようにしたが、すぐに営業用の顔に戻った。

「泊まりかい、兄ちゃん」

 多少、ぶっきらぼうなものの言いようだ。

「ああ。一泊、頼めるか」

 背後で閉じた扉のほうへ神経を向けつつも、サーティークはそう応えた。宿の主人はじろじろと少年の風体を見定める様子だったが、あっさりと聞きたいことを聞いてきた。

「金はちゃんと持ってるんだろうな?」

「勿論だ」

 扉のすぐ向こうに、追っ手の男がいる。中の様子を窺っているらしいのが、その気配からはっきりわかった。

 サーティークは懐から金子の入った皮袋を取り出すと、親父にも聞こえるように、目の前でちょっと振って見せた。それを見ると、親父はひょいと肩を竦めてこう言った。

「前払いだぜ、兄ちゃん」


 そうこうするうち、扉の前の気配がすうっと遠ざかったのを感じて、サーティークは親父に向かって「静かに」という意味の手振りをして見せた。親父は変な顔をしてこちらを見たが、特に何も言わなかった。

「一泊いくらだ?」

 手短てみじかにそう訊ね、言われた金子を目の前の古びた木製のテーブルに置くと、「世話になった」とひと言いって、サーティークはすぐにそこを出た。

 今度はこちらが、その「追跡者」を追う番だった。



                ◇



 しかし、事態は思わぬ結果となった。

 先ほどサーティークをつけてきたのは、マントを羽織った中肉中背の男だったが、その人物はどうやら迷わず、王宮に向けて歩いていくようだった。


(……おいおい。)


 多少、面喰らいながら、サーティークもどうせそちらへ帰る身なので、「まあ手間が省けて一石二鳥か」ぐらいの気持ちで、静かに気配を殺しつつ、その男のあとについていった。

 少し離れた所から見ていると、男は城の大門のところで門番の衛兵にことづけらしいものを渡し、そのまま踵を返して、とっとともと来た道を戻っていくようだった。サーティークはその様子を確認し、その男が通り過ぎるのを近くの民家の塀に身を隠してやり過ごしてから、再び男のあとをつけた。

 その頃にはもう、サーティークにもおおかたの予想はついていた。

 そしてその予想にたがわず、案の定、男はレオノーラの屋敷に戻って、あっさりとその中へと入っていったのであった。


(……なるほどな。)


 サーティークは溜め息交じりに一応それを見届けると、改めてまた、王城までの道を引き返した。

 そうして門番の衛兵の前でマントのフードを外し、びっくりして直立不動になったその男に、先ほどの男が持ってきたことづけの相手を確認すると、まっすぐ当の相手の部屋へと向かった。


 勿論、それはヴァイハルトの私室だった。



               ◇



「でん……か?」

 兵舎の中の、自分の狭い私室の中に、ずいとこの国の王太子が入ってきたとき、ヴァイハルトは心底、驚いた。

 つい先ほど、家の者に命じてあとをつけさせた相手の居所を書いた手紙は、まだ小さな書き物机の上にあるままだった。実は今から、すぐにもその宿屋に出向いて、不埒者の使いだというその少年に問いただし、ことの顛末を明らかにしようかとしていたところだったのだ。

「一体、何ゆえこんな所に――」

 言いかけるヴァイハルトを、サーティークはぞんざいそのものの仕草で片手を上げて黙らせた。

「先に質問させろ。なぜ、俺をつけさせた」

「……は?」

 一瞬、なにを訊かれたのかも分からずに、ヴァイハルトは目を白黒させた。そして今頃になってようやく、相手がいつもの王族の服装でないことに気がついた。


 薄手の綿の上着と、下穿き。毛皮の袖なし外套と、皮製の短靴ブーツ。その上には、薄汚れたマントを羽織っている。それはいかにもみすぼらしく、平民の少年が着るような、ごく粗末な出で立ちだった。

 それからようやく、質問の内容を頭の中で反芻する。

「殿下を……、つけさせた? 私が、ですか……?」

 呆気に取られて、言われたことを繰り返しただけだったヴァイハルトを、さも呆れたような目で、王太子殿下は睨み据えた。

「だから、そう言っている。貴様が手下てかの者に追わせた相手は、他ならぬこの俺だ。何か文句があるというなら、この場で聞こう。言ってみろ」

「え、いえ……、お待ちください。私には一体、なんのことやら――」


 自分が家の者に追わせたのは飽くまでも、貴族を名乗って妹レオノーラを唆そうとする、かの不埒な輩のはずである。なのになぜこの王太子が、なにかその目に怒りに近いものを閃かせて、自分を詰問しに来ているのか。

 王太子は、途端、にやりと片頬を上げた。

「つまらんな、『兄上殿』。もう少し、の回転の速い御仁かと思ったぞ」

 言いながら、自分の頭を指さしている。それはもう、不敵な笑顔といって十分に差し支えのないものだった。それはこの王太子の年には似合わぬ、相当に大人びた表情かおだった。

「…………」

 その顔をまじまじと見返しながら、次第に考えがまとまりはじめ、ヴァイハルトは遂にその結論に達して、大きく目を見開いた。


(まさか……?)


 あの妹に、秘密裏に外で会っていたのは。


「そう、その通り」

 ヴァイハルトが声を発するより先に、相手は即座にそう答えた。

「そなたの妹御を呼び立てて、勝手にお会い申し上げていたのは、他でもないこの俺よ」

「…………」


 こともなげにそう言い放った王太子を前に、ヴァイハルトは完全に絶句して、しばしその場に呆然と立ち尽くしたのだった。

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