第三章 転機

第1話 疑惑

「レオノーラの様子がおかしい? どういう事だ」

 屋敷の門番を務める男がヴァイハルトにこっそりと注進に来たのは、このノエリオール王国にもそろそろ冬が訪れようかという頃合いだった。


 ヴァイハルトは今回もまた、月に一度の休暇を貰って、つい先ほどこの屋敷に戻ったところだった。

 ここはヴァイハルトの私室である。小ぶりの執務机に客用の応接セットが置かれただけの、ごく簡素な部屋だった。ヴァイハルトは、自分の執務机の前に座って、目の前に立っている男の話を聞いていた。

「はい、それが……」

 男は被っていた帽子を胸の前で揉むようにしながらにやにや笑い、すぐに話し始める風ではなかった。


(一体、今度はなんなんだ。)


 いや勿論、おかしいと言うならすでに先日来、かの妹レオノーラにはずっとおかしな様子が続いている。つまりは「恋の病」と名のつく、おかしな状態が。

 だが、その男の弁によれば、今回は更にそこに輪をかけて、近頃どうも妙な事態が起こっているというのだった。


「詳しく話せ」

 ヴァイハルトは顔の前で両手を組み合わせ、話の先を促した。

 ほかの事ならばいざ知らず、こと、あの大切な妹の話になると、最近のヴァイハルトは特に、あまり冷静な心持ちではいられない。とりわけこの頃は、例の王太子の件もあって、なにかと心穏やかでない日々が続いているということもある。

「は、それがでございます……」

 小太りで背の低いその召使いは、ちょっともったいぶるようにしながら今度は体の前で揉み手をしつつ、そっとヴァイハルトに近づいた。

「ここしばらく、あまり聞きなれないお名前をなさったさるお貴族さまから、頻繁にお嬢様宛の手紙なるものを預かっておりまして――」

「手紙……?」

 「まさかそれは、恋文か」と即座にヴァイハルトが確かめると、わざとらしいほど物々しい顔を作って、小男は「恐らくは」と頷いた。なにかこう、どこかがかんに障る風情の男である。

 ヴァイハルトは無意識に顔を顰めながら、また訊いた。

「頻繁というのは、どのぐらいの割合なのだ? 相手の名は? 階級は」

 その若さに急き立てられ、矢継ぎ早に質問攻めにしてくるヴァイハルトを、ちらりと見やった使用人の男の瞳は、明らかに「しめしめ」といった光を宿していた。ヴァイハルトは敏感にその意図を察して、ぴくりと不快な気分になった。

 この男が、このことで思わぬ臨時収入が得られることを、早くも期待しているのは丸分かりだった。

「いえ、しかし……。旦那様にも奥様にも、ご心配をおかけするのもいかがなものかと思いまして……。ヴァイハルト坊ちゃまになら、お話してもよいかと、わたくしなりに色々考えたわけでございまして――」

 そして案の定、回りくどいことをあれこれともったいぶって言い募り、なかなか本題に入ろうとしない。ヴァイハルトは次第にじりじりしてきながらも、ぐっと拳を握り締めて自分を抑えた。

「分かっている。そなたの非常な気遣いに対しては、後々、十分な報酬をだすよ。約束する」

「えっ! はあ、……いや、そんな――」

 それを聞いて、ぱっと男の表情は明るくなった。

 ヴァイハルトは心の中だけで苦笑する。多少、小狡い男だけれども、幸いにして妙な悪意だけはないのが、救いといえば救いである。

 何より、この情報を持って王宮に駆け込まれでもしたら、それこそこのたびの「王太子妃選び」の一連の候補から、妹は早々に除外されてしまうに決まっているのだ。もともとそんな高望みはしていないとはいえ、かの王太子に仄かな想いを寄せている妹にしてみれば、そんなことを彼に知られるのは、相当の心理的な打撃にもなりかねない。

 また、まかり間違ってそんな噂が外部にまで漏れた日には、彼女の今後の結婚相手を選ぶ際にも、どんな障害になるかは計り知れなかった。いずれにしても、よからぬ噂はここで留めておくにくはなかった。


 ヴァイハルトは少し考えて、次のような提案をした。

「今月分に、私の方から、そなたの三月みつきぶんの給金を上乗せしよう。それでどうかな?」

 そのぐらいの金額ならば、自分が武官として貯めた金でもどうにか賄えよう。にっこり微笑んだ顔の裏で、ヴァイハルトは素早くそう踏んだのだ。少々高額ではあるが、もちろんここには「口止め料」の意味が多分に含まれている。ヴァイハルトはその事も、当然、合わせて釘を刺した。

 男の顔は、それを聞いて途端に光り輝いた。

「あ! ありがとうございます……! 勿論、口外などは一切……!」

 ぺこぺこ頭を下げてくるのを片手で制して、ヴァイハルトは話の先を促した。

「では、詳しいことを聞かせてくれるね?」

「はっ! 実はそれが、でございますね――」

 男はそれで唇をなめなめ、やっとその話を始めたのだった。



 男の話を要約すれば、こうだった。

 それは、過日、レオノーラがかの王太子の「夜会」に初めて参加してから以降のことだ。時折り、いつも薄汚いなりをしてフードを目深に被った少年が使いに立って、この門番の男にレオノーラ宛ての届け物を託しては去ってゆくようになったのだという。

 頻度としては、せいぜい月に一、二度ぐらいのことであって、さほど多いわけではない。しかしそのすぐ後、どうやらレオノーラがその度に、いつも同じお付きの侍女を連れては、こっそりと屋敷を抜け出しているようなのだ。

 勿論、いつもこっそりとというわけではなく、きちんと両親に「買い物に出てきます」とか「そのあたりを散策してきます」とか、もっともらしい理由を言ってから出て行くような場合もある。

 しかしそれは、大抵その使いの少年が、彼女宛の手紙か何かを持ってきてすぐあとのことが多いのだった。


(それは……つまり。)


 ヴァイハルトは、眉間に思わず皺を寄せた。

 つまりレオノーラは、その何某なにがしという貴族のところへ、その度に出かけているということなのではあるまいか。

 相手が男だと決まったことではないかもしれぬが、それにしても、曲がりなりにも貴族の娘が、そう頻繁に呼び出されては外部の人間と密会に及んでいるというのはいかがなものか。外聞の悪いこと、この上もないではないか。

 別に、そうこそこそする必要のない相手なら、最初から両親にそう打ち明けて、堂々と交流すればいいだけの話であろう。一体そこに、秘密裏に行動せねばならない、どんな理由があるというのだろう。

 ともあれ、門番の話によれば、そんな時、レオノーラは出かけるときも帰ってきてからも、なにか非常にうきうきと、嬉しげな様子を隠しきれないような風情でいっぱいなのだという。

 ヴァイハルトにはそこも、どうにも気に入らなかった。


(いや、……しかし。)


 一体、どういうことなのか。

 レオノーラがその心に想うのは、かの王太子ではなかったのか?

 それが今は、その何某なにがしとかいう謎の貴族に、とっくに心移りをしていると?

 しかし、そんな事がありうるだろうか。

 あの、おぼこいばかりで何かと言えばすぐに緊張して真っ赤になる、何の腹芸もできない妹が……?


(わ、……わからん……。)


 ヴァイハルトはまた一人、頭を抱えることになる。

 難しい顔になり、腕組みをして顎に手をあて、沈黙した。


(これは……。えらいことになったな。)


 暗澹たる気持ちになりながら、ヴァイハルトはごく誠実、かつ丁寧に礼を言って門番の男を下がらせると、腕を組んだまま自室の窓辺に立ち、そこから屋敷の庭を見下ろした。

 庭の木々は、赤や黄色に染まった葉をほとんど落として、近頃ではもう随分と冷たくなってきた風に、その寂しい枝を揺らしている。


 知らず、きちり、と親指の爪を噛む。

 かの妹の心に、誰かどこかの殿方が住まうことになろうなどと、今までは考えてみたこともなかった。

 しかし、かの門番の弁が本当ならば、その事態は自分が気づかぬ間に、すでに随分と進行してしまっているという事なのかもしれない。


 きちり、きちりと、口許で爪が音を立てる。


(王太子殿下ご本人だというのなら、まだしも――。)


 この国の男子として、他に隠れなきかの精悍な王太子であればこそ、自分もどうにか我慢しよう、あるいはせざるを得ないと思ってきたというのに。

 それが、どこの馬の骨ともわからない、しかもこんな風にこそこそと、その心を盗み出そうとするような輩に、あの妹は目の前で奪い去られようとしているのか。

 そもそも、あんな少女に親の目を盗ませてまで、秘密裏に逢瀬を重ねてその心を惑わそうなど、盗人猛々しいにもほどがある。

 もしも相手が本当に男であって、レオノーラをたぶらかす目的でこのような仕儀に及んでいるのだとしたら――。


 ヴァイハルトは、ぎゅうっと拳を握り締めた。


(……決して、許さん。)


 そんな事は、到底、許すわけには行かなかった。

 この事態はどうあっても、事実をきちんとこと明らかにし、レオノーラの意思を確かめて、納得のいく決着を見なければならないだろう。


 そうして一通りの考えを纏めると、ヴァイハルトは素早く一計を案じ、改めて私室に別の使用人を呼んで、速やかに計画の遂行に着手したのだった。

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