第4話 微笑み
「こ……んばんは、レオノーラ嬢――」
やっと紡いだその挨拶は、多少、掠れぎみだったかもしれなかった。
まあ、それも止むを得ない。まさか、当の本人のことを考えていたその時に、こうして彼女自身を
が、対する痩せた少女のほうでは、もうなんだかおろおろと、真っ青になってその場に立ち竦んでいる様子に見えた。
「こ、……っこここ、……こんばん、は……」
語尾はもう、庭の芝生に溶けて消え入りそうに落ちていく。
多少不審に思いながら、サーティークは彼女の側へと足を向けた。
「いらしていたのですか? ……どうなさったのです、こんな所で」
そういう自分も、そう問われれば答えに窮するというのに、つい、そんな質問が口をついた。
と、彼女がその場から微動だにしないことに気がついて、サーティークは足を止めた。レオノーラはもう、赤くなったり青くなったり、大変忙しく顔色を変化させながら、足をがくがく震わせて、それでもそこに立ち尽くしていた。
見れば、彼女は先日いためてしまった髪飾りの代わりにと贈った、あの橙色の髪飾りをつけている。思った通り、それは彼女の髪色によく似合っていた。それを見て、ほんの少し、サーティークは口許を緩めた。
「お気に召して頂けたのですね。それは良かった」
「…………」
レオノーラはもう、俯いてひたすらに無言だった。
その耳は、あの「兄星」と明るい夜空の光に照らされて、真っ赤に染め上がっているのがよく分かった。
(……相変わらずだな。)
そんな風に思って、サーティークはちょっと苦笑したが、更にもう数歩近づいて、初めて彼女の髪が側の庭木の枝に絡まっていることに気がついた。
「ああ。少々、お待ち下さい」
言って、嵌めていた手袋を手から外すと、サーティークはレオノーラに近づいた。
途端、びくりと彼女が身を竦める。
どうしてこの少女は、こんなに自分を恐れるのだろう。
いや、勿論その理由はわかっている。
自分はこの国の王太子だ。つまりはこの国随一の権力者の息子なわけである。自分が父たる国王に
そう思うと、なんとなくだが、サーティークの胸は少し塞いだ。
それを、互いの心の「障壁」と言わずして何と言うのか。
「……ですから、そう怖がらないでください」
そして、また先日と同じ台詞を紡いだ。
「『噛み付きはしません』と、申し上げたではありませんか――」
本来なら、王太子たるサーティークの立場で、臣下である伯爵家の令嬢にここまで敬意を払う必要はない。相手が淑女である場合、貴族階級の男子が彼女らを相手にそれなりの礼を尽くすのはこの国の作法のひとつではあったけれども、こと王家の男子には、その作法は適用されないからである。
こういう話はあまりしたくはないのだが、極端なことを言ってしまえば、仮に今もしサーティークがこの少女に無体な真似を仕掛けたとしても、それを咎める者はだれもいない。勿論、父王その人が咎めねば、という条件つきではあるけれども。
当然、少女の家族から深い恨みを買うことになるのは必至だろうが、だからといって自分を罪に問える者は、この国に誰一人としていないのだった。
ともあれ。
そうは言っても、当の父王ナターナエルは、正妃ヴィルヘルミーネに対して、公の席ではこうした節度のある、敬意をもった話し方を貫かれている。もちろん私的な場面では、より親近感のある話し方には変えられるのだったが、それでも相手に対する敬意を失われることはなかった。
要はこの場合、サーティークはその父ナターナエルを手本として、まさに公の場で自分の妃を相手に話をするのと同様に振舞っているというわけだった。
しかし、自分が無意識にそんな話し方をしていることに、この時のサーティークは気付いていない。
ともかくも。
彼は手袋を外した手で、絡みついたレオノーラの夕日色の髪の毛を、そっと枝から取り外しながら言葉を続けた。
「今夜も、あの兄上とご一緒に?」
「は、……はい……」
蚊の鳴くような声でレオノーラが返事をする。
「今日は、お父さ……いえ、ち、父も一緒です……」
「ああ、そうなのですか」
サーティークは軽く笑った。
「しかし、広間ではどなたもお見かけしませんでしたね。皆様、どちらにいらっしゃったのです?」
「え? いえ、その……」
返答に困ってもう、へどもどしているレオノーラの顔は、また一段と赤味を増したようだった。
サーティークはちょっと面白くなってしまって、少し意地の悪い質問をした。
「もうすぐ
「えっ!? いえっ、そ、そのっ……!」
レオノーラが、びっくりして飛び上がった。
「ああ、でも、それも無理はありませんよね。私は、何と言っても貴女の大切なものを傷めてしまった、
自嘲気味にそう言うと、橙色の髪の少女は、まん丸に目を見開いた。
「いっ……、いいえ! いいえ、それはもう……!」
必死にかぶりを振って否定するのは、どうやら見たところ本心からであるようだった。サーティークは心密かにほっとしつつ、「本当ですか」と一応確認する。レオノーラはぶんぶんと、今度は首を縦に振った。
「では……どうして?」
指先を動かしながら、そう訊ねてみる。
「なぜそうまで、私をお避けに?」
「…………」
しかし、やっぱりレオノーラは真っ赤な顔で「無言の行」を貫いていた。サーティークはついつい、彼女に水を向けることをやめられずに言葉を続ける。
「皆さん、私とひと言でもいいから言葉を交わそうと、虎視眈々と私の体の空くのを待っているというのにね。あなたは別に、それはどうでもいいわけだ」
「いえ、あの……」
相手の反応にはまったく構わずに、サーティークは畳み掛ける。
「つまり、私のことなどどうでもいいと。そういう事なわけですね――」
「そっ……、そんな――!」
ぶんぶんとレオノーラが顔を横に振る。すると、まだ絡まった髪の毛のせいで、庭木の低木ががさがさ揺れた。
「ああ、じっとして」
「は、……はい……」
困りきった顔で、レオノーラはもうすっかり俯いてしまっている。両手はドレスのスカートの前のところを掴んだまま、ひどくしょんぼりした様子だった。
サーティークは溜め息混じりに吐息をついた。
「……すみません。意地の悪いことを言いましたね」
「…………」
返事がない。
「……レオノーラ嬢?」
不思議に思って、俯いた彼女の顔を覗きこんでみて、サーティークは息を呑んだ。
(え……)
レオノーラの鳶色の瞳にはもう、熱い雫が一杯にたまっていて、いまにも零れんばかりになっていた。ひくひくと、その細い肩が震えだしている。必死に声を出すまいとして、その唇はきつく噛み締められているようだった。
サーティークは、ちょっと慌てた。
「あ、……申し訳ない」
なんと言っても、これまでの人生で、ご婦人を相手にこういう展開になってしまった経験が一度もないのだ。さすがの自分でも、慌てるのは無理もないところだろう。
「済みません、そんなつもりは――」
サーティークは即座に謝罪の言葉を出したが、それはもう彼女の耳に届いてはいないようだった。ぱたぱたっと、見る間にその雫が地面に落ちてゆく。
その時ようやく、絡まっていた彼女の髪を枝からはずし終わって、改めてサーティークはレオノーラに向き直った。
「お許しください、レオノーラ嬢。貴女に、お会いしたかったもので……。つい、恨み言のようなことを」
そして、低く頭を下げた。
「男らしくない真似を致しました。どうか、お許し頂きたく。この通り――」
「……え?」
レオノーラは両手で口許を覆うようにして、まだ涙の溢れている目で、不思議そうにこちらをじっと見つめていた。そしてまたおずおずと唇を動かした。
「あのう、今……」
サーティークは頭を上げると、わが耳を疑っているという表情そのままのレオノーラを真っ直ぐに見て、にっこり笑った。
「聞こえませんでしたか? ……お会いしたかったのですよ。
「…………」
レオノーラは何を思ったか、唐突に、自分の周囲をきょろきょろと見回すように頭を動かした。
どうやらその「貴女」と呼ばれる誰かが、自分のほかにも居るかどうかを確かめたようだった。サーティークはそれに気付いて、思わず噴き出してしまう。
「……面白い方ですね」
くっくっく、と喉奥で笑いを堪えながら、やっとそう言う。
「え、……ええ? いえ、あのっ……!」
ぱああっと、その涙に濡れた頬がまた薔薇色に染め上がって、夜空の明るさと王宮の灯火の光につやつや光った。
(ああ、……美しいな。)
サーティークの胸の真ん中に、それはすとん、と落ちてきた。
ただもう、真っすぐに落ちてきた。
そして、知らず、ふわりと頬が緩んだようだった。
そんなに自然にそうなったのも、生まれて初めてのような気がした。
「…………」
レオノーラの目が一層大きく見開かれて、まるで雷にでも打たれたように、その場に彫像のようになって固まった。その目はじっと、こちらを凝視して、もうびっくりした顔そのままに、そこで動かなくなってしまった。
その、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をちょっと不思議な思いで眺めつつ、サーティークはしばらく首を傾げるようにしていたが、やがてとあることを思いつき、その少女にそっと小声で耳打ちをした。
『またお屋敷に、手紙をお届けにあがっても――?』
「………!」
次の瞬間、レオノーラはぴくっと反応して、目だけでサーティークを凝視した。
そうしてまたあっという間に、さらに数段真っ赤になって、
こくこくこくと、何度も首を縦に振ってくれたのだった。
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