第3話 中庭

 さて、それから数ヵ月後。

 サーティークは、もうその頃にはなお一層、その「夜会」が鬱陶しくてたまらなくなっていた。


 「次期国王陛下の正妃の座」を射止めんと、それはもうやる気満々でこれでもかと派手なドレスに身を包み、凝った編みこみの髪に優美な髪飾りを挿しては、「さあどうですか、この美しさは」、「わたくし、これほど教養がありますのよ」、「いえいえなんと言っても人柄でございましょう」とばかりに押し寄せてくる、少女に次ぐ少女の波に、この王太子殿下もはや、胸いっぱい、腹いっぱいの心持ちだった。

 そもそもが、そうした艶ごとにさしたる興味のあるほうでもないところへ持ってきて、毎月のこの凄まじいまでの「我こそは王太子妃殿下に」という貴族娘たちの真剣そのものの攻勢である。サーティークはもうこのごろでは、すっかりこの「夜会」にうんざりしていたのだった。


(息苦しい……。)


 最近では、遂に我慢の限界がきて、一人で夜風に当たるべく人々の群れの中から抜け出しては、普段からあまり人気ひとけのない王宮の小さな中庭のひとつに逃げ出してくることもしばしばだった。

 今宵もまたご同様に、そこへと逃げ出してきて、やっとほうっと息をつく。

 夜空はそろそろ夏の様相に近づいて、さらに明るさを増している。かの「兄星」も、どかりと空の一角に腰を据え、気温の上がりつつあるこのノエリオールの大地をじっと見下ろすようだった。


「……ふう」

 サーティークは、それを見上げて思わずひとつ、息をついた。首の詰まった形をした正装の襟元を、ちょっとくつろげるようにする。こうまで息苦しいのは、勿論そのためばかりではなかった。


(……いい加減にしろ。)


 むっとするような、あの化粧と香料の匂い。

 むせ返るような、「さあ私を見て、知って」と迫ってくる「欲望」という名の罪のない圧力の渦。

 近頃ではなにやら、吐き気までする。


(一体、いつまでこんなことを続けるんだ。)


 肩まで伸びた、長い黒髪を額から掻きあげる。

 正直いって、もうこんな「夜会」は懲り懲りだった。

 できることならもう、どんな娘でも構わないから、臣下が誰でも適当な少女を見繕って決めてしまってくれればいいものを。

 だが、うっかりそんな事を口にすれば、父王からやんわりとたしなめられるのは目に見えていた。

 きっと、父王ならこう言うだろう。

「サーティーク。伴侶というものは、そなたの人生にとって、まことに大切なものなのだよ。どうか短慮を起こさないで、じっくりと相手を見極めなさい」と。


 温厚篤実、英明そのもののかの父は、母である正妃ヴィルヘルミーネを心から愛していた。彼の人生にとって、かの女性に出会ったことは、もはやその転機を生じさせたといって過言ではないらしい。そのあたりの顛末については詳しく聞いたことはなかったけれども、結婚して既に十数年が経つ二人の仲がいまだに非常に睦まじいことが、それを十分に物語っていた。

 確かに、母は息子の自分から見ても素晴らしい女性である。

 単に見目が派手で美しいだけでなく、その心は高潔であり、多少男勝りなほどの性格の強さはあるが、決して酷薄な人柄ではない。貴族出身の女性にはよくあるような、ぐずぐず、べたべたした風情は微塵もなく、聡明で、どこまでもさばさばと明るい女であった。

 母の実家である公爵家の祖父らに言わせると、昔から「男に生まれたかった」と臆面もなく言い放ち、堂々と馬も乗りこなすほどの、それは活発な娘時代だったのだという。

 それが何をどうやって、いまの正妃の座を射止めたものやら分からないが、ともかくも、父王はこの母を、心より愛して止まないのだった。


 いや実際、母であるヴィルヘルミーネがそんな女であるために、そうしたちょっと風変わりな娘も、相当な人数でこの夜会には参加している。「それがもしや万が一にも王太子殿下のお眼鏡に適えば万々歳」とばかりに、各地の貴族連中がこぞってそんな「じゃじゃ馬」な傾向のある娘を連れてきているようなのだった。

 しかし生憎と、サーティークはそこまでそうした女性に興味があるわけでもなかった。勿論、母のことは心から敬愛しているのだが、それと自分の妻になる女性にょしょうとはまた、どうやら別物であるようだった。


 そしてふと、なにかの拍子にあの少女を思い出す。

 ふわふわと軽そうな癖のある夕日色の髪をした、いかにも粗忽そうで自信のなさげだった、あの痩せた体の少女をだ。

 この夜会に群れ集っている少女たちはみな、その美しさであれ、聡明さであれ、人格的な高潔さであれ、ともかくもなにかひとつは自分に対して「売りに出来ること」を持ってやってきている。そしてそれを最大限に生かしておのが存在を誇示せんと、もはや必死なまでの努力でもって自分の前に立っている。その努力たるや、もはや悲愴と呼んでもいいほどのものだろう。


 しかし、あの少女だけはそうではなかった。

 親戚連中から半ば無理にひっぱってこられたからということもあるのだろうが、それでもあそこまで恥ずかしそうに、終始、兄の背後に隠れっぱなしだったのは、後にも先にも彼女だけだった。殆ど、顔もちゃんと見られなかったぐらいである。

 いや、一応、見はしたのだけれども、その顔があまりに赤く染まっていて、本来どんな顔立ちをしていたのかも定かでなかった。


 あの日、傷めてしまった彼女の髪飾りのことで、街なかへ呼び出して顔を合わせた時もそうだった。

 彼女はこちらの正体を知ったとたんに、またすっかり茹で上がり、再び逃げるようにして、すぐに駆け去って行ってしまった。一応、謝罪をして代わりの品を渡すという目的が果たせたのだからいいようなものだったが、それにしてももう少し、言葉を交わしてみたかったという思いは否めなかった。

 化粧っけも、飾りっけも殆どない平凡な容姿と小柄な体躯。そして、ただ純朴でそそっかしそうで、素直なばかりのあの鳶色の瞳。

 派手なところも、作ったところもひとつもなくて、びっくりするとすぐに涙ぐんでしまうような、ただただ可憐な少女だった。


 むせ返るような夜会の席にいると、何故かあの風情が懐かしくなる。

 ああいう人が隣にいてくれたなら、少しはこの荒れた気持ちも静まるのではないのかと、気付けばそんなことを考えている。


 それがなんと呼ばれる感情なのか、今の自分には分からない。

 それに、あの高い尖塔のうえで、父王にそっくりのかの男が笑って言った言葉を、そのまま受け入れる気にもならなかった。


(ただ、何か……。)


 あの、彼女の落として行った髪飾りを手にしたときのことをふと思い出し、自分の手のひらを見つめて、それをぐっと拳に握る。


(もう一度、……会ってみたい。)


 そんな思いがふと駆け抜けて、そんな自分に驚いた。


(……俺は……?)


 自分の中に閃いた、その一瞬の思いを捕まえようとしてみたが、それはあっさりと吹き散らされて、この手に掴むことはできなかった。

 サーティークはしばし呆然と、そのまま自分の手袋をした手のひらを見つめていた。


 ……と。


 がさり、と近くから庭木の梢が揺れる音がして、サーティークは目を上げた。


(え……?)


 だからその時、サーティークは心底驚いたのだ。

 たった今、そんな風に思っていた当の相手が、中庭の茂みの中から、心細い表情満載で、おずおずと顔を覗かせた、その時は。



                ◇



 父や兄に連れられて、再びこのノエリオール宮を訪れることができたレオノーラは、ひどく心の浮き立つのを覚えて、朝からずっと緊張していた。


 それでも、いよいよ夕刻になり、二人に伴われて大広間の隅に入り込んで、高い天井を支える大きな柱の陰に佇んだ時には、緊張よりもやはり喜びのほうがまさってしまった。

 それは、本当に本当に、遠くからだった。けれども、沢山の貴族の少女たちに囲まれている王太子をそうっと隙見させてもらえて、彼女としてはもう大いに満足していたのである。

「もう少し、殿下のお近くへ行かなくてもいいのかい?」

 と、背後から心配そうに訊ねる優しい兄の言葉にも、

「えっ? どうしてですか? わたくしはここで十分ですわ、ヴァイハルト兄様!」

 と、ただうきうきと答えては、もうずっとにやにやしていた。


 別に、かの王太子とどうこうなろうなどと、そんな大それた望みは持っていない。自分みたいな、特になんの取り得があるのでもない地味な貴族娘など、そもそもあの端正で精悍な風貌の王太子とつりあうはずがないのだから。

 だけれども、遠くから、そのお姿をほんの少しでいい、眺めていたいと思ったのだ。

 別にもう、自分はそれで十分だった。

 かの凛々しい王太子様には、きっと誰か素敵な方が見つかるはずだ。そのどこかの貴族のお嬢様と、お幸せになっていただいたらそれでいいのだ。


 彼が「貴女の髪飾りを傷めてしまったので」と、わざわざ手ずから贈ってくれた橙色の可憐な髪飾りを、レオノーラはこのところ、自分の部屋でそっと髪に挿して鏡に映してみては、ずっと一人でにまにまし続けていた。もうなんだか、それだけでも胸がとくとくうるさいぐらいに音を立てて、息が苦しくなってしまう。

 そしてそのまま、その辺を駆け回りたくなってしまうのだ。

 こんな落ち着かない状態だというのに、もしも本物の王太子様を目の前にしたりしたら、自分の心臓はもう、その場で動きを止めてしまうかも知れなかった。


 だから、そっと物陰から見つめるだけでいい。

 それだけでもう、天にも昇るほどに幸せだった。


 そんな調子で、ちょっと浮かれすぎてしまったためなのか、レオノーラは少し身づくろいなどを整えるために王宮内部の婦人用の化粧室を使ったあとで、父や兄のいる場所にうまく戻れなくなってしまったのである。

 大広間から流れてくる管弦の音楽を頼りにあちらこちらと広い廊下を歩いているうちに、なにかどんどん様子の寂しい方へ彷徨い出てしまって、とうとう自分がすっかり道に迷ってしまったことに気がついた。

 これはいけないと、一旦建物の外に出て自分の居場所を確かめようとしたのが、さらに良くない結果を招いた。王宮の庭は、どこもなんとなく似たような風情の場所が多いために、更に自分の居場所を見失う羽目になったのだ。

 困ってちょっと半泣きになりつつも、さらにうろうろしていたら、癖の強い髪の毛の端が、何かの拍子に庭木の枝に絡まって、取れなくなってしまっていた。

 レオノーラはしばらくの間、そこで絡まった髪と格闘していた。しかし、焦って外そうと頑張れば頑張るほど、髪の毛はどんどんその枝にもちゃもちゃになって絡みつくようだった。

 ほとんど涙目になりながら、人気ひとけのない小さな庭の中を見回していたら、こちらに向かって足早に、見覚えのある長身の少年がやってくるのが見えたのだった。


 肩まで伸ばした、癖のない黒髪。

 少年ながらも精悍で、きりりと整った聡明げな風貌。

 王族の着る正装に、黒いマントを流した端麗な立ち姿。


 レオノーラはその時、ちょっと息をするのも忘れていたかもしれない。

 だからしばらく、その少年がこちらに気付いてぎょっとしたように立ち竦むまで、ただ黙って、彼の姿を凝視しているばかりだったのだ。

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