第2話 異変
「どうしましょう、ヴァイハルト……」
久しぶりの休暇を貰って、王都クロイツナフトの中にある自宅の屋敷に戻ったところで、ヴァイハルトは、困りきった顔で憔悴した母にあっというまに捕まった。
「は? 一体、どうなさったのですか、母上」
困惑した息子の精悍な顔を見上げつつ、母は深い溜め息をつく。
「このごろ、どうもあの子の様子がおかしいのです。どうしたのかと訊ねても、溜め息をついているばかりで何も答えてくれないですし……」
それはもちろん、あの可愛い妹のことだった。
母の言によれば、こうである。
先日の王宮での夜会から戻ってこっち、レオノーラはなにか大切なものをなくしてきてしまったとかで、随分と塞ぎこんでいた。よくよく聞いてみれば、それはその夜会のためにと新調したあの薔薇色のドレスに合わせて、母が手ずから布を選んで作ってやった髪飾りだったのだが、とりたてて大した品物というのではなかったらしい。
それでもレオノーラは、「せっかくお母様が作ってくださったのに」と、随分と打ちひしがれて、涙ぐみさえしていたらしい。
ところが、である。
それから数日して、何故かレオノーラの持ち物の中に、見慣れない髪飾りがひとつ増えたのだ。それは元のものとは色目こそ違っていたが、やはり可愛らしくて慎ましやかな品だった。前のものは薔薇色と白を基調にしていたが、こちらはまるで彼女の髪色を彷彿とさせるような、美しい橙色の薄絹を何種類もはぎ合わせて作られていた。全体に品のある造形だったが、その一方で、見たところ随分と値の張りそうな品物だった。
とは言え母アデーレは、娘の部屋に入り込んでまで、その持ち物をいちいち検分するような女ではない。だからそれは、普段レオノーラの部屋の掃除をする召使いの女がたまたまみつけて、母のところに持ち込んだことで、はじめて分かったことだった。
それは、いつもの宝飾品を片付ける引き出しの中ではなくて、レオノーラの寝所の枕元に大切そうに置かれていたという話だった。召使いの女は不思議に思って、一応お耳に入れておこうということで、奥様に申し出たという流れのようだった。
勿論アデーレはそれをもとどおり、娘に気づかれないようにそっともとの場所に戻しておいてやったのだという。だからこの一連のことについては、レオノーラの知るところではない。
「髪飾り、ですか……」
なんとなく、もやもやと嫌な予感がしながらも、ヴァイハルトはその原因には行き当たれないままに、アデーレの顔を見返していた。
「それに、そればかりではないのですよ、ヴァイハルト」
母はひどく心配そうに、更にこんなことを訴えた。
もともと決して器用なほうでもなかったあの妹が、このところ、その粗忽具合をさらに悪化させているというのである。話しかけてもぼうっとしていて、すぐに返事が出来ないようなことも多いし、そうかと思えば何かの拍子に急に慌てふためいて、普段ならさすがの彼女でもやりそうもない失態を犯してしまうこともしばしばなのだとか。
「ど、どうしましょう、ヴァイハルト……」
母のみならず、温厚な父もこの娘のことはひどく心配しているらしい。とはいえ父は、家の外での付き合いや仕事のことでいつも屋敷に居るわけではなく、心配はしているものの、結果的には手を
「なにかどこか、体の調子でも悪いのかしら? やっぱりお医者様をお呼びしたほうがいいのかと、わたくしもう、心配で、心配で……」
もうほとんど涙ぐまんばかりの母の肩をそっと抱いて、ヴァイハルトはともかくも、母を安心させることに務めることにした。
「ご心配は要りませんよ、母上。休暇中、私もよくよく様子を見ておくように致しますので。何かありましたら、すぐにもお知らせいたしますし」
「お、お願いよ、ヴァイハルト……」
それでもほとほと困った顔の母を宥めるようにして、彼女を部屋へ送り届け、ヴァイハルトは妹の部屋へ足を向けた。
「あっ、ヴァイハルト兄様! おかえりなさいませ!」
部屋の扉を開けて現れた兄の姿を認めると、途端にぱっと笑顔になって、レオノーラはこちらへ小走りにやってきた。
そのただ嬉しげな表情に、こちらもつい笑顔になる。この明るい顔の中のどこに、「病」につながる何かがあるというのだろう。
「ああ、ただいま、レオノーラ。私の不在中、変わったことなどはなかったかな?」
と、ごくさりげなく訊ねた途端。
レオノーラの目が、一気にいつもの三倍ぐらいに見開かれて、次の瞬間、その顔全体がぼっと赤く染まってしまった。
(……おいおい。)
その顔を目の前で見てしまった、ヴァイハルトのほうが絶句する。
これはもう、いまさら「いえ、なんにも」等々と言われたところで、信じる意味はなさそうだった。
「ええっと……、レオノーラ? 何かあったのだったら、お兄様に――」
しかし、その言葉は最後まで言わせてはもらえなかった。
「いっ、いいえ!? いえいえっ、何も……!」
レオノーラは真っ赤になった顔の前で、もう両腕をぶんぶん振り回すようにして必死に否定の言葉を繰り返した。
「本当に、なんにも、なんっっにも、ございませんわ、お兄様……!」
言うが早いか、物凄い勢いでその場から駆け出して、部屋を飛び出ると、廊下を駆け去って行く。と見る間に、廊下を歩いてきた召し使いの男に真正面からぶつかりそうになった。幸い、男のほうで慌てて飛びのいてくれたので事なきを得たが。
「え、ええっと……」
ヴァイハルトはただもう呆然と、風を巻いて逃げ去って行った我が妹の背中を見送ったのであった。
◇
それからの顛末は、例の異界から来たという、かの妹になんだか非常に雰囲気の似た青年にも話した通りだった。
妹は、それまでの粗忽に更に磨きがかかり、日常的な失敗が輪をかけて増えてしまった。花瓶や食器を落として割るなどは日常茶飯事、果てはぼうっと
心配の絶頂に達した両親は、とうとう医者を呼んで娘を診察してもらったのだったが、健康上の問題は何一つないと太鼓判を押されてしまった。
(いや……、まさかな。)
初めのうちは、ヴァイハルトもそう考えていた。
まさか、このおぼこいばかりの妹の胸に、そんな感情が芽生えていようなどと、いきなりそう考えるのは無理がありすぎた。また、ヴァイハルト自身、それを容易く認めたくない気持ちもあった。
しかし、やがてヴァイハルトは、兄として一番到達したくない結論に到達することになる。いやそれを、単に「兄として」と言っていいのかどうかは甚だ疑問ではあったけれども。
「そういえば、サーティーク殿下の夜会、相変わらず続いているようだね?」
その日の朝、久しぶりに四人家族でそろって朝餉の食卓を囲んでいた時。
食後の果物の皿を手に取りながら、ふと、父がなんの気なしにそう言った。
「ええ、そのようです。それはもう、各地の美々しい姫君たちが、先を争うようにしてご参加なさっているようですね――」
ヴァイハルトは答えながら、本当に無意識に妹の方へ目をやった。
そして、停止した。
(…………!)
妹は、今しも口に運ぼうとしていた匙から、朝餉のスープをぽとぽとと滴らせて、完全にその場で凍り付いていたのだ。
その目はまん丸に見開かれ、その顔と言ったらもう、庭の花壇に咲いている薔薇の花よりも赤いのではないかと思われるほどだった。その唇は少し開いたまま、もの言いたげな様子だったが、それでも一声も出すことも叶わずに、やがてきゅうっと引き結ばれた。
(……まさか。)
まさか、その相手はあの少年なのか。
いや、その少年に、本気でそんな想いを抱いてしまったというのか?
一体、なぜ……?
少なくとも、レオノーラがかの高貴な少年に会ったのは、あの夜会の折、一度だけのはずだった。しかもあの時、レオノーラはもう緊張のしっぱなしで、相手の顔もまともに見られていたかどうかすら定かでなかった。言葉を交わしたといっても、せいぜい自己紹介をしたぐらいのことで、早々にその場を辞してきたはずではなかったか。
あの顛末の、どこに「そうなる」要因があったというのだろう。
いや勿論、かの王太子は、男の自分から見ても十分に魅力的な人物だったとは思う。
だがしかし、それにしても。
(わ、……わからん……。)
ヴァイハルトは、頭を抱えた。
それからしばらくは、兵舎にある自分の部屋で寝床に就いても、しばし悶々とそのことを考える夜が続いてしまったものだった。
こればかりは、後々、本当に何年も後になって、その少年王が成人した暁に、あの
ともかくも。
ヴァイハルトは、それでも数週間は我慢した。
何より、自分自身がそのことを認めたくはなかったし、その事実が分かったからといって、自分たち家族が妹のためにしてやれることは、恐らく殆どなかったからだ。
全国津々浦々から、あれほどに美しさと聡明さを兼ね備えた娘たちが集まってきているこの状況で、さほど裕福でもなければ美貌に恵まれているというほどでもない、ただの地味な伯爵家の令嬢が、かの王太子のお眼鏡に適うことなど、万にひとつもあるはずがなかった。
たとえ今後も催されるのであろうあの「夜会」にまた彼女を連れて行ってやったとしても、それが一体なんになろうか。彼女が失意の涙を流すのは、もはや目に見えているではないか。そのような哀れな結末が見えているのに、その後押しをしてやろうという気持ちには、やはりどうしてもなれなかった。
しかし、レオノーラの粗忽具合がもう本当に目を覆うばかりになり、父と母が心配のあまりに体調を崩しかけるに至って、ヴァイハルトはとうとう二人に告白したのだ。
「母上。あれはいわゆる、『恋の病』というものですよ」、と。
その後のことも、もはやここで詳しく語る必要はないだろう。
例によって、レオノーラそっくりの、あのユウヤという青年に話した通りだ。
その事実を家族から確認されてしまったレオノーラは、またもや顔を真っ赤に染めて屋敷から飛び出していってしまい、恐ろしい勢いで走り続け、一時行方不明になった。そうしてそのまま王都を飛び出し、近隣の農家の家に保護されているのを家族がやっと見つけたときには、もう一人ぼっちの心細さで大泣きしていたものだった。
そして。
娘の無事に胸をなでおろした父、エグモントは、その夜、ヴァイハルトをそっと自分の書斎に呼んでこう言ったのだ。
「もう、いいではないか、ヴァイハルト。あの
優しい父は、疲れた声ではあったものの、それでも静かに微笑みながらヴァイハルトの肩に手を置いた。
ヴァイハルトはただ暗澹たる気持ちを拭えないまま、それでもただ、父のその言葉に頷く以外のことはできなかった。
そして、それからというもの、父エグモントとヴァイハルトは、例の「王太子妃えらびの宴」であるあの「夜会」に、妹レオノーラを伴ってなるべく足しげく参加することになったのだった。
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