第二章 はじまり
第1話 訪問
サーティークはもともと、「お忍び」好きの王太子である。
それも、完全に単独で行動することを好むという、教育係や召使い泣かせの、なかなか厄介な王子であった。
普段から、サーティークは自分と体格のよく似た召使いや平民の少年の着る装束をあれこれと準備していて、必要に応じてそれらを着ては
おつきや護衛の者などはいっさい随伴しないため、当然、危ない目に遭った場合など、自分の身は自分で守らねばならなくなる。従って、これはもちろん、それなりに剣の腕に覚えがあるようになってからのことだった。
適当に顔に汚れをなすりつけ、愛刀を目立たぬように皮袋や
「よう、サムス! サムスじゃねえか!」
街の中心部にある
「久しぶりじゃねえか、元気だったか?」
粗末な屋台の
「ああ、また親父がこっちに商売にきてるんだ。しばらくクロイツナフトで稼ぐんだってさ」
男に向かって軽く手を上げ、サーティークは事もなげに言って笑って見せた。
「そうかい。遠いとこ、毎度ご苦労なこったなあ!」
街の人々も、時々ふらりと現れるこの謎めいた少年を、今では単に「地方都市出身の行商人の息子サムス」として認識し、仲良くもしてくれるようになっている。父親の設定は、主に貴族相手の織物やら宝石の行商人ということにしてあった。
一般の街の人々は、はっきりと王太子殿下の顔など間近で見た事はない者ばかりだし、言葉遣いにさえ気をつければ、まず身分がばれることなどなかった。
「ちょっと訊きたいんだけどよ、オドルの旦那――」
サーティークは慣れた様子で、肉屋の櫓に近づいてにこっと笑った。
「親父がさっき、近くのなんとかってお貴族さんの屋敷に商売に行ったんだけどさ。他の客から、急に商売の話が来て、呼びにいかなきゃなんなくなったもんでよ」
「ほお。商売繁盛、羨ましいこったねえ」
オドルと呼ばれた肉屋の
「けど、ちょっと場所がわかんなくってさ。旦那、こんな名前のお貴族さんの屋敷、知らないか?」
軽くそう言って、求める屋敷の場所を教えてもらう。
情報は、こういう所で得るのが一番早いのだ。
肉屋の親父は、「ああ、その屋敷なら」と、すぐにその場所を教えてくれた。
「ありがとな、旦那。また夕飯でも買いにくるからよ」
サーティークは笑って軽く礼を言い、すぐにその場を後にする。
勿論、目指すのは例の彼女の屋敷だった。
◇
「レオノーラお嬢様の落し物を届けに? それはわざわざ、ご苦労だったな」
ヴァイハルトの屋敷の門前で、大門脇の通用門の小窓から僅かに顔を覗かせた召使いの男は、不審げな色を隠そうともしないで、やってきた小汚い少年をじろじろと眺めやった。
そういう不躾な視線をぶつけられるのも、もうとっくに慣れっこである。というか、そうでなければこちらとしても困るのだった。
「一応、俺のご主人様からのお言付けも入ってっから。ちゃんとお嬢さんに渡してくれよな? おっさん」
当の「ご主人様」が結構なご身分であることを言外に匂わせつつ、フードの下からにやりと笑って見せる。
「……ふん」
屋敷の主人ご一家とは関わりなく、この門番を務める召使いの男は、どうやら高慢で横柄な人柄であるようだった。男は大いに馬鹿にしたような視線でやっぱり無遠慮にサーティークの全身をくまなく眺めるようにした挙げ句、やっと
やや小太りの、いかにも小心そうな小男だった。
「頼んだぜ、おっさん。ちゃんと渡してくれなかったら、俺もあんたも、きっと後悔することになるだろうからよ」
口角に貼り付けた笑みはそのままに、サーティークは多少声音を落として脅しつけるようにしてから、あっさりと踵を返した。
これで話が通らなければ、こういう搦め手からでなく、もう顔も身分も晒した上で、真正面から行くほかはないのだろう。だがまあ、ともかくもこれが自分の第一手だ。
背後で荒っぽく閉じられた通用門の閂の音を聞きながら、そちらを肩越しにちらっと眺め、サーティークは先ほどの市の立つ広場に戻った。
そこで先ほどの約束どおり、オドルの肉屋で羊肉の燻製を少しばかり買い、街のあちこちにある井戸のひとつに寄って、人目を避けるようにして少し顔につけた汚れを落とす。そのままフードを目深に被って、井戸の縁に腰掛け、羊肉をちょっとつまんでみたりしながらしばらく待った。
半刻ほど待った頃。
先ほどの屋敷のほうから、やや小さな人影と、もう少し大きな人影がやってきた。二人ともマントを羽織り、フードで顔を隠すようにしている。それは先ほどの包みに入れていた「言付け」の文面で、自分が指示をしておいたとおりだった。
勿論、家人には黙って出てくるようにとも書いてある。
「あ、……あの」
小さなほうの人影が、
「さ、先ほどのお手紙は、あなたが……?」
サーティークは立ち上がり、周囲に他の人影がないことを確認してから、そっと自分のフードを外した。
「はい。
軽く会釈して、改めて相手を見つめると、その少女はぎょっとして、その場に立ち竦んだようだった。
「え、……ええ、え……??」
ぱくぱくと、その口が動いたっきり、もう微動だにしなくなる。
無理もなかった。こんな市井の片隅に、この国の王太子殿下がたった一人で、庶民の服装に身をやつして佇んでいるのだから。
「あ、ああ、……あなた、さまは……」
相手が自分の素性を理解したと確認できたので、サーティークは人目を避けるように、素早くまたフードで自分の顔を隠した。
「申し訳ありません、レオノーラ嬢。貴女の大切な髪飾りを、うっかり傷めてしまいまして――」
フードを被ったままの頭を、なるべく低く静かに下げた。
「お返ししようと保管していた間に、不覚にもこんなことになってしまい……。不躾ながら、別の品物をお届けにあがった次第です。どうぞ、これにてご勘弁いただきたく――」
サーティークとしてはこれが、自分として言える、誠心誠意の謝罪の言葉だった。
「い、いえっ! そんな……!」
びっくりしてばたばたと両手を顔の前で振った拍子に、彼女の被っていたフードがすとんと肩に落ちて、夕日色をした癖のある軽そうな髪の毛がふわっと広がった。先日のような凝った編みこみはしていなかったが、それが
「お嬢様――」
彼女についてきた侍女らしい中年女も、どうやらようやく相手の身分を察したらしく、もうおろおろして、レオノーラとサーティークを見比べるようにしていた。レオノーラが小声で何かを囁くと、女はさっと青ざめてその場に膝をつき、慌てて頭を下げた。どうやらレオノーラが、目の前の相手の正体について話したらしい。
「やめよ。周囲の人目に立つ」
即座に片手を上げて、サーティークがたしなめる。
「は、……はい、でも――」
言いながら、ぎこちなく女は立ち上がったが、それでも頭を低く下げるのはやめようとしなかった。
「……少し、離れていてくれるか」
侍女の女にそう言って、サーティークはレオノーラを促して、少しそこから離れた。
井戸の広場の片隅に立った木の下までゆくと、サーティークは少女に向き直った。
レオノーラはこの時、すでに成長期を終えていたが、それでもサーティークよりは普通に頭ひとつぶんは背が低かった。レオノーラは本当に怯えきったような目で、おどおどとこの国の王太子の顔を見上げている。
「そんなに、恐ろしがらないでください。別に噛み付きはしませんよ」
サーティークはやや苦笑してそう言った。
「え、……でで、でも――」
先ほどの門番の男から受け取ったらしいあの布袋を握った手が、胸の前で小刻みに震えている。サーティークはちょっと黙ってそれを見ていたが、また言った。
「中味は、もうご覧に?」
「えっ? ……あ、は、はい……」
びくりと肩を震わせて、レオノーラが頷いた。サーティークは「そうですか」と言ってから、説明したものかどうかを少し思案した。
「実は、似たような物を探してみたのですが。生憎と今、王宮出入りの商人が、あの色目のものを切らしていたようで。そちらでお気に召していただければ良いのですが」
やや済まなそうな声で、そう言ってみる。
それは本当だった。たまたま、王宮に出入りしている服飾の行商人に尋ねてみたのだが、ああした色目のものはやはり女性好みであるらしく、またここ最近の「王太子妃選びの宴」の影響もあって、すぐに貴族の娘たちに飛ぶように売れてしまったのだという話だった。
しかし、売れ残っていた品の中に、ふとこの少女を思わせるものがあったので、やむなくそれを選んで、代わりにもって来たという訳だった。
もちろん、傷めてしまった彼女の持ち物の髪飾りも、一応一緒に入れている。
「あなたにとって、大切なものだったのではありませんか? 本当に、申し訳なかった」
再び頭を下げると、レオノーラはまた耳まで真っ赤になって固まった。
「いっ、いいいい、いえっ……!」
しかし、その声音は、どうもほかの時とは違うように思われた。
サーティークが顔を上げ、じっと彼女の顔色を窺うと、レオノーラは赤面したまま、なにか涙ぐむようにして、困って足元を見つめるような様子だった。
しばしの沈黙が流れた。
(……嘘のつけない人だな。)
直感的に、そう思った。
それはきっと、彼女にとって大切なものだったのだろう。
屋敷に戻って、それを落としてきてしまったことに気付いてから、この少女は落ち込んだり、泣いてしまったりしたのかもしれなかった。
「まことに、申し訳なかった。許してください」
サーティークはもう一度、そう言って頭を下げた。が、レオノーラはまた顔を真っ赤に染めて、ぶんぶん首を横に振った。
「もっ、もう……やめてください! いいんです、大丈夫――」
布袋を胸元に握り締めるようにして、必死に言い募る。
「どうぞもう、お気になさらないでください……。じゃっ、じゃあ……わたくし、これで――」
どもりながら、まるでからくり人形のような固い動きで頭を下げると、くるりとこちらに背を向ける。しかし、はっと言い忘れたことを思い出したようにして、レオノーラはまたこちらを振り向いた。
「あ、あのっ……、ありがとう、ございました……」
ぴょこんとお辞儀をすると、橙色の軽い髪がまたふわっと宙を舞った。
そのままもう、後も見ないで石畳の路地を駆け去ってゆく。侍女らしい女も慌てたように、こちらに一礼して、そのお嬢様の後をついて走って行った。
駆けてゆく二人の背中を、サーティークは軽く吐息をついて見送った。
やがて、自分が少し口を歪めて笑っていることに気付き、誰に見られているわけでもないのに、何故か意味のない空咳をして、顔を意識的に引き締めた。
(……『ヴァイハルト』、とか言ったな。)
ふと、あの美麗な容姿をした彼女の兄を思い出す。
かの少年兵は、あんな澄んだ瞳をした
なにやら、ちょっと羨ましい。
そして、そんなことを思った自分に驚いた。
兄弟の一人もいない自分だが、それを寂しいなどと思ったことは、これまでついぞなかったというのに。
こんなことを思ったのは、生まれて初めてだった。
サーティークは、彼女の駆け去って行った路地の方をちらりと見やると、フードの端を引き下ろし、改めて自分の顔を隠した。そうして、夕刻が近づき、建物の濃い影が伸び始めた王都の石畳の上を、あとはもう大股に、真っ直ぐに王城へ向けて歩いていった。
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