第4話 髪飾り

 喧騒そのものの夜会が終わり、やや気だるい気持ちを振り払うようにして、王太子サーティークはいつもの稽古場である小さな王宮の庭へ出ていた。

 普段どおり、着慣れた稽古着を身に纏い、稽古用の木刀を手にしている。今では首の下あたりまで伸びている黒髪は、後ろでひとまとめにして括っていた。


 春先の「兄星」が、また巨大な体躯を夜空に晒して浮かんでいる。

 稽古を始める前に、あわせの稽古着の懐からとあるものを取り出して、庭の隅にある石造りの腰掛けに置いておく。優しい色目のそれをちょっと眺める王太子の瞳は、さも自分の行動の意味がわからぬという風に僅かに揺れた。

 普段どおりに、まずは場に一礼をして、素振りと、一連のかたから始める。その形は、彼の敬愛する、とある人の教えてくれたものである。


 夜の空気を、ぴう、と木刀が切り裂く音がする。

 木刀を振りぬきながら、そのひととき、ともかく無心になることに努めた。



 先ほどの、あの夜会。

 それはどうやら、かの少女の落としていったものらしかった。そんなあざとい性質たちの娘には到底見えなかったので、それはもうただ単に、本当にうっかりと落として行っただけのことだろうと思われた。

 勇猛果敢にして心胆の温かな、あの竜将ザルツニコフの甥と姪は、本当に簡単な自己紹介をして、二言、三言、自分と言葉を交わしたかと思ったら、もう次の瞬間にはその身を翻して、他の来賓たちの波に飲まれるように姿を消してしまった。文字通り、まさに「逃げるように」という形容がぴったりだった。


 それを待ち構えていたかのように、周囲のほかの来賓たちがまたこちらへどっと押し寄せてきたのだったが、その一瞬の隙、軽く靴に何かが触れたのを感じて、自分はふと目線をおろした。

 そこにあったのが、この甘い色目の髪飾りだった。白と薔薇色の薄絹で作られたそれは、決して派手な装飾ではなく、ごくさりげない、可愛らしい品だった。それはなにか、持ち主であるその少女の雰囲気を髣髴ほうふつとさせるようだった。

 レオノーラという名のその少女は、なにか夕日の色を思わせるような、燃えるような橙色の髪をしていた。だが、それより印象的だったのは、真っ赤になりすぎたその顔色だった。

 彼女はいかにもおどおど、びくびくして、兄の背中にずっと隠れるようにしていた。そうして、もうただひたすらに全身を震わせて、涙ぐんですらいるようだった。それは、端麗な姿で堂々とした、兄だという少年とはまことに対照的だった。


 彼女が、あのザルツニコフを初めとする親族らの勧めで、仕方なくこの王宮の夜会に参加したのは一目瞭然だった。彼女の目には、他の来賓の少女たちにあるような、謂わば「飢えた獣」のような、「狩る者」の光は寸毫すんごうも宿っていなかった。

 いや勿論、サーティーク自身、この国の貴族の娘たちがそうした「やる気」というのか「希望」というのか、そうしたものを持つことを否定するつもりは微塵もない。

 自分の妃になるということは、いずれこの国の王妃となり、更には国母にもなる未来を手に入れることを意味している。それが自分を生み育ててくれた両親や家族、親族にどれほどの恩恵を与えることかを知っているなら、そういう希望を持つことはむしろ普通のことでもあるし、当然の話でもある。いや、貴族の娘として生まれた以上は、もはや義務といってもいいかもしれない。


(……しかし。)


 びゅっ、と木刀を振りぬいてぴたりと顔の正面で止め、サーティークはひとつ、息をついた。

 それを「醜い」と、また「さもしい」と思ってしまう自分の精神こころも、また間違ってはいないという気がしてしまうのは、如何いかんともしがたいところだ。

 一通りの本日の稽古を終えて、控えていた召使いの男から手拭いを受け取って汗を拭うと、サーティークはまた、脇の腰掛けの上にあるものに目をやった。


(それにしても……)


 自分でも、この行動の意味がよく分からない。

 普段だったらそのような物、すぐにも近くにいる侍従や召使いに渡して、「届けてやれ」のひと言で済ましてしまうはずの自分が。

 手拭いを召使いに返しながら、サーティークはふと、王宮の中央にある高い尖塔のてっぺん辺りに目をやった。


(今夜は……お会いできるだろうか。)


 ひどく、話がしたかった。


 父と同じ顔をしたその男、

 自分にこの剣のかたを教えてくれた、

 今では心から敬愛する、かの男に。



                ◇



 その深夜。

 サーティークは、またいつものようにこっそりと、自分の寝所を抜け出していた。

 いつも会える訳ではないが、運がよければ夜中のこの時間、かの人はあの尖塔の頂上の部屋にいる。

 そこで何か寂しげな背中を見せて、明るい夜空を見上げていたその男を最初に見たのは、もう三年ほど前のことだろうか。


 初めは勿論驚いたけれども、そして随分と、「その事実」を受け入れるのに時間は掛かってしまったけれども、今では自分は、彼と会えるのをことのほか楽しみにしているのだった。

 何と言っても、彼にはこの王宮の人間関係におけるしがらみが一切ない。彼に何を相談しても、またどんな話を聞いて貰っても、そこから何かが洩れ出ることは決してないと信じられた。それに何より、彼の静謐なまでに落ち着いた態度と温かな受け答えは、波立った自分の心を落ち着かせてくれるものだったからだ。


 尖塔の頂上に向かう石造りの狭い螺旋階段を、足音を響かせないように注意しながら、なるべく急いでのぼってゆく。夜着の上にガウンを羽織っただけの姿でも、もうあまり寒くはない季節になっていた。

 螺旋階段を上りきったところで、そっと小部屋の入り口から顔を覗かせて中を窺うと、果たして、男はそこにいた。

 国王陛下と瓜二つの姿をしたその人は、しかし、この時間のいまこの瞬間は、別の人物になっている。こちらをすぐには振り向かないが、彼がもうとっくに自分の気配に気づいていることは分かっていた。彼の背中には、優れた目がついているのだ。


「こんばんは。久しぶりだね」

 ゆっくり振り向いて微笑んだその顔は、やはり国王陛下ナターナエルそのものだったが、しかし確かに、

「こんばんは、ムネユキ。近頃、体調に変わりはないのか?」

 相手が自分の父であったなら、こんな言葉遣いは決して許されないだろう。

 勿論、サーティークとしても、「彼」に対して敬語で話をするのはやぶさかではなかった。と言うよりも、本心から彼を敬愛している今では、できれば進んでそうしたい程だった。

 だが、本人のたっての願いもあって、結局今も、自分は彼に敬語を使うことはしていない。


 「ムネユキ」と呼ばれた男は、にっこり笑って頷いた。

「お陰様でね。お父上の方は、どうやら頭痛の頻度が上がっておられるらしくて、私も申し訳ないのだが――」

「そ、……そうなのか」

 言われて、ちょっと俯いてしまう。父王は、自分や母に心配を掛けまいと、普段は少しもそんな様子を見せられることはない。しかし、やはりご体調は日に日に悪くなっておられるようだ。

 臣下の皆が、自分に早く正妃を娶らせようとするのも、無理からぬ話である。あの父の身に――いや、「父の身に」と言うべきなのかもしれないが――ひとたび何かが起こってしまえば、かの《黒き鎧》の儀式を完遂できる者は、この国に、もうこの王太子たる自分しか居ないことになってしまうのだから。


 実はサーティークも、もうすでに父王の謎の頭痛の真の原因を知っている。

 まことの父王はもう、すでに数年前に他界しているのだ。

 あの、《黒き鎧》の《儀式》の最中さなかに。


 そうしてそこで、今もこの国の宮中伯を務めているバシリーという老人が、《鎧》のなにがしかの機能を使って、この「ムネユキ」なる男を異なる世界より召喚した。そしてさらには、その宗之の心の中に、もとの父王としての人格を植えつけたというのである。

 それは驚くべきことだったが、宗之の言によれば、かの《黒き鎧》には、そうした人知を越えた機能が備わっているというのだ。《鎧》は、自らの《儀式》を完遂させるべく、あらゆる方策をとることが可能であるらしいのだった。


 数年前、まだほんの子供だった自分は、目の前の宗之に初めて接し、その事実を知らされて驚愕したものだった。宗之が言うには、この事実は、あの母ヴィルヘルミーネですら知らないことなのだという。

 宗之は、夜、今日のようにして自分本来の意識を取り戻すことがしばしばあるらしいのだが、それでも、王妃ヴィルヘルミーネにも、またバシリーを除くほかの臣下にも、実は自分が国王ナターナエルその人ではないということを知らせようとはしないのだった。


 それが一体なぜなのか、いまひとつサーティークにもよくわからない。

 その状況が、いかに彼にとって過酷なものかを考えれば当然のことだった。もしも自分が彼の立場だったら、それこそもうすでに数年前の段階で、まだ幼かった自分を盾に「元の世界に戻せ」とばかり、家臣やヴィルヘルミーネに迫ってもおかしくはなかったはずだからである。

 だが、宗之はそんなことはしない。

 それどころか、いつもただ優しく穏やかに、まことの息子にするようにしてサーティークの言葉を聞き、その相談にすら乗ってくれる。彼は今や自分にとって、「もう一人の父」と呼んでよいほどの存在ですらあるのだった。


 ただ、「これが理由なのではないか」と、思うところがないわけでもない。

 彼の言によれば、彼には元の世界にも、自分と母のような妻子がいたということだった。そしてかれらは、どうやら自分たちと瓜二つの存在でもあったらしいのだ。

 自分とよく似たその少年は、名を「アキユキ」というのだと、宗之は静かに語ってくれた。その少年もまた、剣の道を志し、この宗之の手ほどきを受け、すでに相当な手足てだれに育っているのだという。

 その話を聞くと、少年サーティークの心は躍った。

 いつかはその少年に会えるような日も来るのだろうかと、多少甘い夢想もした。

 しかし、彼らのことを話す宗之の、なんとも言えない寂しげな瞳を見ていると、決してそんな事を口に出すことはできなかった。


 サーティークがちょっと逡巡した挙げ句、おもむろに懐から取り出した例の可愛らしい髪飾りを見ると、宗之は少し意外そうな目をして、王太子の顔を眺める様子だった。

「……随分と、珍しいものを持ってるね」

 自分の頬が途端に熱くなったような気がして、サーティークはぐいと体を横に向けると、石造りの枠だけの窓の外に浮かぶ、あの「兄星」を敢えて睨むようにした。

「落し物だ。今日、夜会で会った者が落として行った……」

 宗之は何も言わず、窓の下に置かれた長椅子に腰掛けたまま、サーティークの横顔を見つめていた。そしてやがて、優しい瞳でにこりと笑った。

「そうなのか。なんだか、複雑な気分だよ」

「どういう意味だ」

 不審げな目になって問い返した王太子に、宗之は困ったような視線を返した。

「ああ、いや。済まない。どうも、あまりに君が息子の煌之あきゆきと似ているものだから――」

 言って口許に手をやると、国王と瓜二つのその男は、少し溜め息をついた。

「なんだか、息子の初恋にでも立ち会ってしまったような、妙な気分になってしまって」

「…………」

 自分は相当長い間、変な顔をしてその男の顔を見つめていたのだろうと思う。それは勿論、男の台詞の中に出てきた、とある単語に引っかかったからだった。


(はつ……こい?)


 なんだそれは。


 それがどういう意味の単語だったか、サーティークはひとしきり考えなければならなかった。

 いや勿論、その単語の意味ぐらいは知っている。知っているが、まさかそれが、たった今自分に対して使われたとは到底信じられなかったのだ。

「な……にを、言ってる。そんなわけ――」

 思わず、力任せに髪飾りを握り締めて、サーティークはそれを、ついぐしゃぐしゃに潰してしまった。

「……あ」

 見ればもう、手のひらの中のそれは、元の形には到底戻らないほどにぺしゃんこになってしまっていた。

「……おやおや」

 少し呆れたような、困ったような顔でそれを見つめた宗之が、やっぱりどこか嬉しそうな、しかし複雑な顔をして、少年サーティークを見つめていた。


 空ではまたあの「兄星」が、じっとそんな二人の姿を、不躾な視線で見下ろしていた。

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