第2話 王太子
ヴァイハルトが王国軍に入隊した翌年のこと。
彼は、初めてその少年を見た。
その新しく始まった年を
この国の新年は、春の第一月から始まることとされている。緯度が高く、寒い冬の間じゅう、日中も薄暗い
数十年に一度の賢王との呼び声も高い国王ナターナエルと、その正妃ヴィルヘルミーネが王宮の高い場所に設えられたバルコニーに姿を現すと、眼下の中庭に群れ集った人々が大きな歓声を上げてお二方をお迎えする。
王城の敷地の中で最も広いこの庭に、人々はこの日だけは入ることを許可されているのだ。勿論、彼らの周囲は、槍を手にし、金属鎧に身を固めた王国軍の警備兵らが物々しく固めてはいるのだが、この日ばかりは人々も、それを恐れる必要はないのだった。
中庭には、この王都クロイツナフト内に住む民は勿論、全国津々浦々から集まった
「国王陛下、万歳!」
「妃殿下、万歳!」
「陛下! ナターナエル様! いつも有難うございます!」
「ヴィルヘルミーネ様、今年もどうぞお健やかに!」
そんな嬉しげな声が、次々にあちらこちらで上がり続ける。
体を寄せ合い、ひしめくようにして集まった臣下や民たちに向かって鷹揚に手を振るお二方の隣には、
因みに八歳というのは、「地球」で言えば十二歳程度の見た目ということになるらしいが、その当時のヴァイハルトには勿論そんなことは分からなかった。それは言うまでもなく、ここより数年後にこの地にやってくる、かの王太子に瓜二つの青年からもたらされる情報である。
その場では遠目すぎてよく分からなかったのだが、やや長めに伸ばした癖のない黒髪をしたその王太子は、背筋の伸びたきりりとした少年に見えた。
その後、一般の民たちは王城の外へと出され、貴族たちや比較的位の高い文官、武官らのみが集められて、城の大広間で祝賀の宴が催された。
貴族の子弟として、平民とは違い、最下級の従士からではなく、下士官として最下級クラスである十騎長として王国軍に仕官することになったヴァイハルトは、その行事に参列することを許されたのだった。もちろん、理由はそればかりではなかったが。
「おお、ヴァイハルトか! 遂にアデーレの奴が許してくれおったようで、何よりだったな! いや実際、私もほっとしたぞ」
がははは、と明るく大笑しながら近寄ってきたのは、母、アデーレの兄たる伯父、ザルツニコフだった。がっしりとした武官らしい体躯に、黒々とした髪と口髭。白い軍服の肩に、黒いマントを流している。
貴族の出ではあったけれども、なかなかその勇猛果敢な胆力と機転の利くところを認められ、その当時ですでに王国軍、竜将を拝命していた。
「伯父上。その節は、まことに有難うございました」
ヴァイハルトは、素直に頭を下げ、礼を言った。
「ご心配をお掛けしました。お陰様でこの通り、ようやく王国軍の末席に連なることができました」
実のところ、この伯父が大いに口添えしてくれなければ、あの心配性の母、アデーレを説得するのはなお一層難しかったのに違いなかった。
「うむ。今後は王国のため、陛下のために、大いに励めよ」
豪胆でありながらも温かな人柄であるザルツニコフ伯父のことを、ヴァイハルトは昔から敬愛している。自分が武官になりたいと思った大きな理由は、この伯父にあると言っても過言ではなかった。
「はい。どうぞ今後とも、ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます、伯父上」
武官らしくきりりとした礼を返した美麗な甥を、伯父は
その時。
ざわついていた大広間の人々が、急にしんと静かになって、ヴァイハルトとザルツニコフも口を閉ざした。大広間の最も上座にあたる雛壇に、いままさに、王家のお三方が現れたところだった。
広間の比較的脇の方、柱の近くからではあったけれども、これほど近い距離から王家の人々を見たのはヴァイハルトにとって初めてのことだった。
国王ナターナエル公は、黒いマントを揺らしながらゆったりと落ち着いた足取りで雛壇の真ん中へ進まれると、集まった臣下の皆をひとわたり見渡して静かに微笑まれた。やや癖のある黒髪に穏やかな茶色い瞳のその王は、これまでの歴代ノエリオールの王たちとは違い、好戦的な面を殆ど備えておられなかった。
しかし、だからといってそれは、決して争いを恐れる惰弱さの故ではないらしい。
どちらかといえばむしろこの王は、武術の心得においてその辺の武官よりもはるかに優れていらっしゃるとのもっぱらの噂だった。にも関わらず、その非常な落ち着きと理性と自制心とをもって、これまでのどの国王よりも優れた君主として、その臣民から尊崇される存在だったのである。
温厚篤実とは、まさにこの王のためにある言葉だった。
かの王のあとをついて歩いてきた王妃ヴィルヘルミーネは、豪奢な金色の髪を高く結い上げ、品のいい紺地の礼装を身に纏っていたが、そのあでやかな笑みと、やはり派手な色目の碧い瞳はごく明るく、理知的なものに見えた。
そして、かれらの息子たるサーティーク王子は、二人のあとをやや控えめな様子で歩いてきたが、その容貌はとてものこと、「控えめ」などとは呼べなかった。
かの王太子を比較的近くで拝するのは初めてだったヴァイハルトでさえ、その聡明げな瞳の色には驚かされた。彼は一見するだけでも到底、まだたかだか八歳の少年なのだとは思われなかった。
その立ち姿はきりりと引き締まってごく凛々しく、引き結ばれた唇には知性が滲み出るようだった。何よりその瞳にははっきりとした意思の光が宿っており、これまでけっして王家の継承者として甘やかされた育ち方をしていないことが窺われた。
ナターナエル王は皆を前に、ひととおり新年を寿ぎ、今年一年のみなの息災を祈るお言葉を述べられると、雛壇上に設えられた王の玉座に静かに座られた。ヴィルヘルミーネとサーティークも、それに倣って両脇の椅子に腰掛ける。
それを合図にしたように、またさわさわと人々の歓談が始まった。
「そういえば、そろそろ王太子殿下も花嫁候補をお選びになる頃合よなあ」
広間のあちこちを動き回っている給仕の男の手にした盆の上から、葡萄酒の入った陶製のカップを手に取りながら、伯父、ザルツニコフがそう言った。しかしその時、ヴァイハルトはただ何の気なしに、「ああそうなのか」と思っただけだった。
雛壇上の飾り椅子に座っている聡明そのものに見える少年は、生まれてまだたったの八年にして、早くもそんなことを考えねばならない年なのだった。
しかし、それもまあ、やむをえない話ではあった。国王ナターナエルは、臣下の皆がどうお勧めしても、正妃たるヴィルヘルミーネ以外の
要するに、かの王には側室がいないのだ。
そんな椿事は、このノエリオール王家始まって以来、ついぞなかったことだった。
国王たるもの、自分の意思がどうであれ、またどんなに王妃を衷心より愛しているのだとはいえ、王位継承者はなるべく沢山儲けておくのが謂わば務めのひとつだろう。
にも関わらずこの王は、サーティークが生まれて後しばらくたっても、さっぱり第二子の音沙汰のない正妃をずっと大切にし、彼女の心を傷つけるような真似はしたくないと、頑として他の女を閨に呼ぶことをしないのだという。
近頃では、どうも謎のご病気を発症されてひどい頭痛に悩まされることの多いこの国王のことを、周囲の臣下はひどく心配してもいるのだったが、こればかりは、臣下が何をどう申し上げても、ナターナエルはうんと言ってくれないのだという話だった。
給仕の男がさりげなく勧めてくれる酒を片手で断りながら、ヴァイハルトはその王太子の端整な相貌をそっと盗み見るようにした。
父王がそんな風である以上、ひとり息子で第一王位継承者たるかの少年は、なるべく早く
あの若さで、今後多くの重責をその肩に担うのであろう王太子殿下を、ヴァイハルトはちょっと気の毒な思いを持って眺めたのだった。
◇
しかし、その翌月。
「その問題」は、自分の意に反して、決してヴァイハルトにとって「対岸の火事」という話ではなくなったのだった。
その年の春の第二月、王宮にて開かれた夜会の席には、国中から多くの貴族の娘らが招かれた。そうしてそこは紛れもなく、全国各地の小都市から、我こそはと思う貴族の娘、サーティークと年の頃のつりあう少女たちが、わんさかと群がり集う場となった。
つまりそれは、表向きはただの夜会だったのかも知れないが、要はかの王太子の花嫁候補選びが本格的に始まったことの証左だったのだ。
その「夜会」という名の「合同お見合いの
「え? 私がですか……?」
下士官に与えられた兵舎内の自室に伯父がやってきた時、ヴァイハルトは余程呆けた顔をしていたのに相違ない。
「なんだ、その顔は! しっかりせんか、兄上殿!」
やっぱり豪快に大笑いしながら、伯父は甥の若い背中をばしばし叩いた。見事な押し出しの伯父の体がそこにあるというだけで、小さな椅子と机、それに寝台があるだけの下士官用の一人部屋が、随分と小さく思えた。
「あのレオノーラとて、十分条件には適うのだぞ? もう、ほぼ成長期も終わったのであるしな!」
「え、ええ……、それは」
それは本当だった。レオノーラも、かの王太子と同様、この
そうして、性格のほうもやっぱり、純真で粗忽者そのままだった。
「何しろ陛下は、『身分のことなどはあまり気にせず、遠慮なくどんどん参加して、王太子と交流を持って貰いたい』との仰せなのだ」
つまり、身分や血筋がどうこうということよりも、「なにより王太子の気に入る娘を」というのが、国王ナターナエルの御意であるとのことだった。「さすがは、英明、ご慧眼の陛下よな」と、伯父は感じ入りつつも、喜色満面そのものだった。
「はい、それは存じ上げておりますが――」
ヴァイハルトはまだ呆然としながら、当時はまだ自分よりも少し背の高かった伯父のがっしりした顎と真っ黒な口ひげを見上げていた。
「何より、お前たちの邸はここ王都だ。こんな時のための、せっかくの王都住まいではないか。その上、兄のお前はこの王宮勤めの武官と来ている。この近い場所であの夜会に出席しないなど、愚の骨頂もいいところよ! 違うか?」
「い、いえ……。それは、そうではありますが――」
ヴァイハルトは困りきって、もはや「やる気満々」といった伯父の無骨な相貌を、半ば放心して見返していた。
実のところヴァイハルトも、ここ最近、その「夜会」のためにこれ以上ないほど身を飾りたてては王宮にやってくる少女たちの姿なら、遠くから隙見したことがある。
彼女たちは、いずれ劣らぬ美少女ぞろい、そして教養や淑女としてのたしなみにもいかにも自信ありげな、堂々とした娘たちばかりに見えた。
あのような中に、可愛いけれども特に何かの取り得があるわけでもなく、むしろ緊張すると真っ赤になって口も利けなくなり、普段以上に粗忽に磨きが掛かるようなあの妹を連れて行けというのだろうか。
(いや……。いくらなんでも、無理があるだろう)
客観的に考えて、そう思った。
それこそ、狼の群れの中に、子羊を放つようなものではないのだろうか。
それに。
何故だかは分からなかったが、ヴァイハルトは、花嫁衣裳を着て誰かの隣に立つ我が妹の姿なぞ、ついぞ想像したことさえなかったのだ。それはまるで、心の中のなにものかが、そうすることを拒んでいるかのようだった。
それまでは、あまりそういう自分の内面についてきちんと向き合って考えてみたこともなかったのだが、ここへ来てヴァイハルトも、ただそうも言っているわけにはいかなくなったのである。
(あのレオノーラが、結婚……。)
あの、ただ可愛らしいばかりの妹が、
いつも自分のあとばかりを追いかけてきた妹が、
だれか他の男のものになる――。
(…………!)
その時はじめて、ふつふつと腹の底から湧きあがってきたその感情に、ヴァイハルトは愕然とした。
それは、その後、どんなに考えなおしてみても、ただの兄が、単なる妹に対して持つのとは違う感情であるように思われてならなかった。
「ともかく。来月催されることになっておる夜会には、必ずお前もレオノーラを伴って出席せよ。私がじかにお前たちを、殿下に紹介させて貰う。……いいな」
ヴァイハルトの微妙な表情には何も気づかないままに、伯父は楽しげに言いたいことだけ言いきると、意気揚々と甥の部屋から出て行った。
ヴァイハルトはただ、自分の胸の中にむらむらと生え伸びはじめた、棘のついた
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