第一章 兄と妹
第1話 レオノーラ
「兄さま! ヴァイハルト兄さまぁ!」
遠くから、幼い妹が駆けてくる。
まだ成長期を迎えていない妹は、今年でやっと七歳だ。
自分とは二つ違いの妹は、奇しくもこの国・ノエリオールの王太子、サーティーク殿下と同い年なのである。
いや別に、だからどうという事でもない。この国の貴族階級の中では丁度真ん中あたりに属する、さして裕福とも言えない伯爵家の令嬢など、この国には履いて捨てるほどに居る。その中の「王太子殿下と同い年の娘」だって、相当な数でいるはずだった。
それに、この客観的に見てさしたる美形とも言えず、臆病で泣き虫でひどい粗忽ものの妹には、その王太子殿下に関わるようなどんな話が舞い込む予定も、爪の先ほどもあるはずがなかったのだから。
そしてどうかすると、すぐに顔が真っ赤になってしまうのも、この妹の特徴だった。どんなことでも、考えていることがすぐに顔に出てしまうのだ。嘘など、つきたくてもつけるはずもない。
今もまた、召使いの男を一人連れ、所用のために屋敷から表へ出た兄のことが気になって、長めの薄桃色のドレスの裾を持ち上げながら、一生懸命走って追いかけてきたのが丸分かりだった。
普通の兄ならばここで、「また煩いのがついてきた」とばかり、眉間に皺など寄せるのかもしれない。しかし、自分はあいにくとそうではなかった。
この、決して不美人ではないものの、ただただ雰囲気が可愛らしいという以外、どうという取り得もない妹に追いかけられるのが、自分はことのほか好きだったからだ。
「ねえ、まって! 兄さま、どこにいらっしゃるの?」
すでに成長期を終えて、随分と背の高くなった自分からすると、小柄な彼女の身長はまだ、胸にまでも届いていない。
「何だい、レオノーラ。そんなに慌てて走ったらまた――」
と、言いかける間にも、その目の覚めるような夕日の色をした髪の少女は、あっという間に目の前で、見事なほどにぱたりと転んでしまった。貴族の娘の履く硬い短靴の端を、どうやら石畳の縁にひっかけてしまったらしい。
「あっ、お嬢様!」
驚いて駆け寄ろうとする召使いの男を片手で押し留めて、自分は慌てて道を戻った。石畳に膝をついて彼女を助け起こしてやると、顔面をもろにぶつけてしまったものか、額や鼻の頭をあちこち擦りむいてしまっている。
「ほら、言わぬことでは――」
と、見る間にその大きな
「だっ……て、に、いさま……」
うわああああ、とその可愛らしい唇が歪められて大声があふれ出すのを、その兄である少年ヴァイハルトは困ったように見つめていた。
「ああ、泣かないで。大丈夫だよ、そんなにひどい傷ではないからね」
さっと胸元から白い
「ほ、……ほんとう? 兄さま……」
そうやってしゃくりあげながら見つめ返されると、口許につい、優しい笑みを浮かべてしまう。自分はこの妹には、どうしても勝てないのだ。
赤ん坊のころから見つめてきた、その癖のある明るい橙色の軽い髪が、彼女がしゃくりあげるたびにふわふわと揺れていた。
「本当だとも。さあ、お兄様が一緒に戻ってあげるから、一旦屋敷に帰るとしよう。すぐに手当てをしなくては。お母様がご心配されてるよ――」
「は……、はい……」
まだ少し涙にむせぶようにしている妹の小さな手を、ヴァイハルトはそっと握って立ち上がらせた。
召使いの男に、先に戻って邸の者に知らせるように言いつけて、そのまま彼女と手をつなぎ、ゆっくりと石畳の道を戻り始める。
上に年の離れた兄たちがいるため、別に二人きりの兄妹ということではないが、それでも年の近いきょうだいは彼女一人だけだった。ヴァイハルトの家族はみな、この末に生まれた妹のことをひどく可愛がっていた。
その時はまだヴァイハルトも、自分が彼女に対して感じているのは、兄が妹に対して持つはずの、ごく普通の親愛の情なのだと信じて疑いもしていなかった。
「兄さま、ごようじは、よかったの……?」
申し訳なさそうな小さな声がして、目線をおろすと、非常に困った顔になった妹が、しおしおと項垂れていた。
「大丈夫。そんなに、急ぐ用ではなかったんだよ」
にっこり笑って、優しく言う。
「ほんとうに?」
じっと見上げてくる瞳を見返して、ヴァイハルトは立ち止まった。少し真面目な顔になって、彼女の手を握る手に力をこめ、すこし
「レオノーラ。私がお前に、嘘など言ったことがあるかい?」
優しいけれども、毅然とした声でそう訊ねた。
途端、妹の顔にぱあっと笑みが戻る。
「ううん!」
それと共にぶんぶんと首を横に振った。そうして、にこにこ笑いながら、ぱっと腰のあたりにしがみつかれた。
「ヴァイハルト兄さま、大すき!」
ヴァイハルトも、そんな妹の頭に手を置いて、ははは、と明るく声をたてた。
「まだ、傷の手当をしてないんだから。そんなに擦り付けてはいけないよ――」
言いながら、まだ本当に細くて華奢な少女の肩を抱いて、ゆっくりと石畳の道を歩いて戻りかける。
こんな日々が、ずっと続くのだと思っていた。
少なくとも、この愛する妹がこうして幸せな笑顔を浮かべる姿を、この先もまだまだずっと、自分は見守っていられるものだと。
しかし、事態はその後、ヴァイハルトが王国軍に仕官して一年後に、大きな転換を見せることになる。勿論、この時のヴァイハルトも、レオノーラも、またほかの誰一人として、そんなことは予想だにしていなかった。
◇
年上の兄たちは、すでにずっと前に成人して、その頃にはそれぞれ別に暮らしていた。長兄は、いずれ家督を継ぐ予定ではあったが、今は父もまだ若く健在ということで、地方の小さな領地を預かって、そこですでに家族を持って暮らしていた。
次兄は学問に才があり、本人の希望もあって王国に仕える文官になっていたが、その才覚を見込まれて、今は王立学問所で教鞭をとっている。いずれも明るく、才気に溢れた青年であって、ヴァイハルトはこれら兄たちのことを心から敬愛していた。
王立学問所は王都クロイツナフトの中にはあったけれども、次兄もまた既に妻を娶り、家庭を持って、父母とは離れて暮らしている。要はそのとき、ヴァイハルトは父エグモントと母アデーレ、そして妹レオノーラとともに、四人家族で父の邸に暮らしていたのだ。
ヴァイハルトは末弟でもあり、家督を継ぐ立場からは最も遠かったため、できれば王国軍の武官として仕官し、国の役に立つことを幼いころから望んできた。そのため、父に頼み込んで剣の師にもつき、子供の頃からその鍛錬には余念がなかった。また、その時点で入手可能な限りの兵法書などにも当たって、それらの知識を増やすことも怠らなかった。
だが、母は息子の命をひどく心配して、なかなかうんとは言ってくれなかった。
「なぜですか、ヴァイハルト。貴方ぐらいは、ずっとお母様の傍にいてくれると思っていたのに――」
ふた言目には、母はいつもそう言った。
母、アデーレは、優しくて慎ましく、見目は麗しかったけれども、決して表立って目立つことを好むような女ではなかった。そしてただただ、手元に残ったこの息子と、愛らしい末の娘を愛してくれていた。
女の子であるレオノーラは、いずれは誰かのもとに嫁いでゆくことになる。そうなれば、これから年老いてゆくだけの母の目を慰めてくれるのは、自分に最も面影の似ていると言われているこの息子、ヴァイハルトだけになるだろう。そうやって、母は今から心細く、寂しい思いを抱えているようだった。
「母上、そうは申されましても――」
ヴァイハルトはこの話になると、いつも優しく、しかし言葉を尽くして母に言い募ったものだった。
「あまり、時間はないのです。決断は早いほどいいと、師も申されておりましたし――」
母の気持ちは、勿論痛いほどに分かっていた。とは言え、成長期を終えた男子は希望するなら速やかに王国軍へその旨を申し出なければ、ある一定の期間が過ぎると入隊の許可そのものをもらえなくなってしまう。
ノエリオールの王国軍は、その昔から質実剛健を旨とする、それは規律の厳しい軍隊である。歴代の国王からして、その多くが刮目すべき武勇と機知に富む素晴らしい将であり続けてきたという歴史も、それを十分に物語っていた。
要するに、すでに成長期を迎えていながら、何年もふらふらと自分の意思を決められぬような柔弱な男子は、そもそもの初めからこの場においては無用の長物と見なされるのだった。
そのため、ヴァイハルトはこの一年を掛けて、母を必死に説得してきた。
それでとうとう、母が根負けし、大粒の涙を零しながらも入隊を許してくれたのが、つい昨日のことなのだった。
「良いですか、ヴァイハルト。よくよく、お母様との約束を守るのですよ――」
決して命を粗末にしてはならぬと、親より先に死んではならぬと、母は懇々と、愛する息子に掻き口説いた。
「有難うございます、お母様。お言葉、胸に刻みます――」
自分から見れば、すでに少し背の低くなってしまった母の肩に手を置いて、ヴァイハルトはにっこり笑ってそう言ったのだ。
「兄さま、『おうこくぐん』に入るのですか? おめでとうございます!」
事情をよくわかっていない幼い妹は、それが昔からの兄の望みであったことだけは良く知っていたので、ただにこにこと嬉しそうにそう言った。
もうそろそろ、邸の入り口に到着する。
「ありがとう、レオノーラ。これからは、あまり遊んで上げられなくなってしまうけれど、どうかお父様とお母様のこと、よろしく頼むよ?」
まだほんの小さな少女で、またここまで粗忽者の妹に頼むには、多少重責すぎたかもしれない。それでもヴァイハルトはそう言って、妹の橙色の髪をそっとなでた。
しかし、その言葉を聞いて、急に妹の顔はかき曇った。
「えっ? 兄さま、どこかにいってしまうのですか……?」
「ああ、いや……」
遂にこの時が来てしまったかと、ヴァイハルトは苦笑する。
正確なところをいえば、同じ王都内には居るわけなので、さして「遠くへ行く」というほどのことでもない。しかし、入隊して武官になった以上は、王国軍の管轄する兵舎のどこかで寝起きするのが一応の決まりだった。
勿論、本来、身分の高い貴族の子弟ならある程度の自由は利く。ヴァイハルトの家格でも、無理を言えばどうにか、自分の邸から通うことも不可能ではないはずだった。だが、ヴァイハルトは入隊当初からそういうことをして、わざわざ同僚の武官らから妙な色眼鏡で見られるような選択はしたくなかったのである。
小さな妹にも分かるような平易な言葉を使って、以上のようなことを簡単に説明したヴァイハルトだったが、妹の顔色を見る限り、その説明にはほとんど意味はなかったようだった。
「いっ、いやです……! 兄さまに、兄さまに会えなくなるなんてっ……!」
あっという間に妹の綺麗な鳶色の瞳に盛り上がったものを見て、ヴァイハルトはせっかくの決意が不覚にも僅かに揺らぐのを覚えてしまった。
レオノーラはもう、顔を真っ赤にして兄の上着の裾を握り締め、その場に立ち尽くして必死に嗚咽をこらえていた。ヴァイハルトは小さく吐息をつくと、小さな妹の傍に片膝をつき、その両肩に手を置いて、彼女の目をまっすぐに見た。
「ごめんよ、レオノーラ。こればかりは、どうしようもないんだよ……」
妹は、ぼろぼろ涙をこぼしてしゃくりあげている。
「でも、時々はお休みももらえるからね。そのときには必ず、邸に戻るよ。どうかレオノーラは、お父様とお母様のおっしゃることをよく聞いて、素敵なご婦人になれるように頑張っていておくれ――」
言ったことの半分も聞こえていたかどうかは定かでなかったが、レオノーラはじっとヴァイハルトの目を見返してこう聞いた。
「ほんとう……? ほんとうに、ちゃんとかえっていらっしゃるの、兄さま……?」
「勿論だよ。レオノーラが、どんなに素敵なご婦人に成長しているか、ちゃんと見に戻るからね?」
ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべて、そう妹に
レオノーラはそれでも、しばらくそこでべそをかいていたけれども、やがてようやく涙を止めて、最後にはにっこり笑ってくれた。
そうして、こっそりと小さな声で、兄の
「きっとよ。兄さま、やくそくよ……?」
そうして、妹を邸に送り届けたあと、ヴァイハルトはまた出直して、王国軍の管轄する役所へ入隊希望を出しに行ったのであった。
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