序章

プロローグ

 

 がらがらと、石畳のわだちを削る音がする。


 太い鉄棒に取り巻かれたおり馬車が、ごとごとと四頭だての馬に引かれて行き過ぎてゆく。車体の揺れるたび、その周りに引き回された太い鎖が剣呑な金属音を立てた。

 元はさぞや美々しい出で立ちであったのであろう虜囚たちは、その中で虚ろなまなこばかりをぎょろぎょろと白くしている。顔も衣も薄汚れ、とてもそれが貴人と呼ばれる人々だったとは信じられない。


 長旅によってあまりに汚れきっているために、果たしてそれが男なのか女なのか、はたまた老人なのか子どもなのか、それすらも判然とはしなかった。囚人らは背中を丸めて身を寄せ合い、ただ時折り、ぶつぶつとなにかを呟くばかりだ。

 御者を務める兵たちも、陰鬱な様子を隠そうともせず、マントの頭巾フードを深く被って俯いたままだ。


 もとは明るく活気のある街だったこの王都・クロイツナフトが、いまや、真夜中の水底みなそこのように静まり返っている。まだ真夏の頃合いだというのに、空気の中に真っ黒な重たい澱みがじっとりと沈み込んでいるようだった。

 沿道には、囚人たちの護送馬車を物珍しがって見ようという民も殆どいない。

 夏であるにも関わらず、人々は家の戸を閉じ、窓には鎧戸を下ろして、その中でじっとただ、その馬車の行きすぎるのを待っているのだろう。


 ごとごとと、長い石畳のその道に、響くのは車輪の軋む音ばかりである。

 人々は息を殺し、ただじっと、この「嵐」の吹きすぎるのを待っている。

 先月、その夏至の日以来、何故か「狂った王」となった青年王の、その天をも焦がすような怒りがどうにか一日も早くおさまってくれることだけを祈りながらだ。


 愛馬の手綱を握り締め、石造りの建物の陰からその様子を見つめていた亜麻色の髪の青年が、ひとつ、暗い吐息を零した。ノエリオールの軍服に身を包み、背には黒いマントを流している。

 いつもなら晴れやかなはずのその碧い瞳にも、今は沈鬱の色が濃い。普段なら、貴婦人方がついその目で追わずにはいられないほどの端麗な横顔も、疲れと哀愁の色が濃かった。目の下にも、隠しようのないくまが見える。


 別にそれは、虜囚たちを憐れむ気持ちからではなかった。あの青年王が忌み嫌い、憎みさげすむ「《鎧》信仰者」たちになど、彼自身、露ほどの憐憫も覚えない。

 なぜなら。


 彼らは、彼の最も大切なもの、

 己が命よりも貴重なものを奪い去ったからである。


 先日、王宮で、やっと目通りの叶った恐怖の青年王から、錆び付いた喉を絞るようにして伝えられたその真実を、両親はいまだ咀嚼することもできずにいる。そういう自分も、まだ到底、それを飲み下すところまでは行っていない。


(しかし……。)


 ぎゅうっと、手綱を握り締める手に力が籠もる。


 しかし、しかしだ。

 それでもあの男にだけは、ひと言でいい、言っておきたいことがあった。


『何故、死なせた』。


『何故、守りきれなかった』――。


 その身分ばかりでなく、

 その気概と、知力と、

 それほどまでの剣の腕がありながら。


 あの日、自分は王の謁見ので、あまりの驚愕のために一瞬目の前が暗くなった。そして、気付けば床に両腕をついて這いつくばり、肩で荒い息をついていた。

 やっと常人の意識を取り戻したかと思った時には、すでに若き王の姿は雛壇の上にはなかった。

 あの時、両親は自分以上に衝撃を受け、顔を覆ってもはや完全に床に倒れこみ、折り重なったまま抱き合うようにして、喉も裂けよと慟哭していた。その二人を、自分はただもう、担ぐようにして帰るよりほか、出来ることは何もなかった。


(こんな……ことなら。)


 ぎりぎりと、奥歯を噛み締める。


 こんな事なら、決してうけがうことなどしなかった。

 彼女が王家に輿入れすることなど、決して、決して許しはしなかったものを。

 たとえそれが、彼女本人の、心より溢れ出るような望みだったのだとしてもだ。



 青年は、暗い瞳のまま、軽く愛馬の腹にかかとを当てた。

 そのまま馬首を巡らし、屋敷への帰路に就く。

 父母ちちははは、あれ以来ずっと病床に臥せっている。

 二人ともあらゆる生きる気力をなくして、もはや虫の息と言っていい。


 今や屋敷は、死の呪いにとり憑かれたのに等しかった。

 いやそれは、正しくかの《黒き鎧》の呪いであろう。


 かつて、明るく可愛らしいかの人の声の響いていたはずの街角を、そちらこちらと目で追いながら、青年将校ヴァイハルトはただひたすらに、黙々と馬を歩ませた。


 それはまだ、ほんの五年ばかり前のことだ。

 あの、自分が決して兄として以上の意味で愛してはならない人が、この街角で、兄である自分を懸命に追いかけていた、あの日々は。

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