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 ☆  ☆ ☆


 バスに乗って三十分ほどで、健一君の学校の前のバス停に着いた。校門の前で、わたしは彼に電話をかけて、到着したことを伝えた。

 すぐに、わたしの方へ歩いてくる健一君の姿が見えた。青いショートパンツに、白のシャツを着ていて、サッカーの長いソックスを足首のあたりまで下げている。それから、その隣には健一君と同じ格好をした、髪を後ろで結った女の子がいることに気が付いた。彼女は彼と一緒に、わたしのところへ歩いてきた。

 ――誰だろう、友達かな。

 近くにいたその子のことが気になったけれど、わたしはまず、リュックからお弁当を出して、健一君に手渡した。彼はお礼を言い、わたしたちはその場で少しだけ言葉を交わした。そしてわたしたちの会話が途切れたとき、近くにいた女の子が、「こんにちは」と挨拶をしてきた。


「あ、こんにちは……」


 少しだけ戸惑いながらわたしが言葉を返すと、彼女はにこやかに自己紹介をはじめた。表情は明るくて、ポニーテールとスポーツウエアがよく似合っている。快活そうな人だと思った。


「はじめまして。健一の友達の、森由梨子です。和泉里奈さんでしょ? 健一から話、聞いてる。あたし、小中高って健一と同じ学校で、あなたたちの家の近所に住んでるの。よろしくね」

「――あ、そうなんですか。……はじめまして、和泉里奈です」


 森さんはとても気さくな雰囲気の話し方だったけれど、わたしの方は、知らない人と話をするのはあまり得意じゃなくて、ちょっとだけ困ってしまった。すると、「休みの日にごめん。助かった」と、健一君がわたしたちの間に入ってきた。わたしは顔を上げ、首を横に振り、


「ううん。今日、部活も休みだったし、やることなかったから。――じゃあ、わたし、行くね。部活頑張って」


 そう言って、そのまま帰ろうとした。けれど、森さんは、すぐにわたしを呼び止めた。


「あ、ねえ和泉さん。もしよかったら、試合、見てかない? もうすぐ始まるから。せっかくここまで来たんだし」

「え、でも……。いいんですか?」

「うん。普通に保護者の人とかも、見に来てるし。全然大丈夫だよ」


 どうしよう、と思って健一君の方を見た。別に嫌そうな顔はしていなかったから、わたしはその誘いを受けることにした。

「じゃあ、ちょっとだけ」


 そう言うと、森さんは保護者の人たちのための席に案内してくれた。運動会のときなんかに使うような、金属のポールと布で出来たテントで、内側にいくつかパイプ椅子が置かれていた。

 健一君たちの試合はすぐ始まるようだった。けれど、森さんはそのままわたしが座った椅子の横の地面に、膝を抱えて座った。


「戻らなくて、大丈夫なんですか?」


 マネージャーをやっているらしい森さんに聞くと、


「いーのいーの。試合中は、あたしがすることはあんまりないし」


 と、彼女は明るい口調で答えた。それからわたしたちは、グラウンドで始まった試合を見ながら話をした。

 話題は主に健一君のことだった。森さんは小学生の頃に一緒にサッカーをやっていて、それで仲良くなったのだと、関係を説明してくれた。また彼女は、わたしが健一君の家のお世話になっていることを彼自身から聞いたらしい。それを言われたときにはかなりどきりとして、「そうなんですか」としか、返事が出来なくて、少しだけ気まずい雰囲気になってしまった。

 やがて、森さんは、遠慮した様子で、言いにくそうに、家のなかでのことも、わたしに尋ねた。


「……あのね、変なこと聞いちゃうけど、その、夜、寝るところとかは、どうしてるの……?」


 さすがにそう言ったときの森さんの声は小さく、顔が赤いように思えた。何か、意を決して切り出した、というような感じがあった。


「もちろん別です。わたしは二階のお部屋を借りていて……。ちゃんと鍵もついてますし……。洗濯物を干す場所も、シャンプーも、別にしてますし……」


 答えていて、わたしも耳が熱くなった。動揺して、余計なことまで喋ってしまっていた。


「だよね。ごめん、なに聞いてんだろあたし」


 と、森さんも、少し気まずそうに言った。少しの間沈黙が出来、それから森さんはこちらをうかがうように見ながら、


「あの。あたしがこんなこと話したって、健一に言わないでね。――変な誤解されちゃう」


 と、心配そうに言った。


「はい。わかってます」


 しばらく会話をしていて、彼女は、ずいぶんと健一君と親しいようだと感じた。健一君が、わたしの知らない関係を持っていることは、当たり前のこと。なのに、そのことで少しだけ疎外感のようなものを感じてしまった。


「わたし、この試合が終わったら、帰りますね」


 わたしは、内心の寂しさをごまかすように笑顔を作り、そう言った。


「あ、うん。なんかごめんね、無理に引きとめちゃったかも」

「そんなことないです。わたしサッカーの試合って生で見たことなかったので、すごく面白かったです」


 試合が終わったあと、わたしは席を立った。グラウンドの方を見ると、少し前にベンチに戻っていった森さんと健一君がわたしの方を見ていた。にこっと笑い、手を振ると、二人もこちらに手を振り返してくれた。


 ☆ ☆ ☆


 夕方、読みかけだった文庫本を読みながらダイニングチェアに座っていると、健一君が家に帰ってきた。

「おかえりなさい」と、わたしは本から顔を上げて言った。


「ただいま。――母さんは?」

「近所のお友達とお茶しに行ってる」


 そう答えると、健一君はバッグをソファーの横に置いてわたしの向かい側にある椅子に座った。一日中、暑いなかでサッカーをし、さらに自転車で数キロの距離を走ってきたはずの健一君は、顔が上気して赤く、ワイシャツまでもが汗で湿っているように見えた。


「健一君、何か飲む?」

「あ、うん」


 わたしは本を置いて立ちあがり、食器棚からグラスを出し、氷とオレンジジュースを注ぎ、健一君に渡した。彼はお礼を言ってそれを受け取り、わたしはまた元の席に座った。氷を沢山入れたグラスの表面には、すぐに細かな水滴が浮き始めた。

 午後になって出て来た陽もだいぶ傾いてきたみたいで、リビングのなかが、少しずつ陰り始めていた。レースのカーテンを通して、赤味のある西日が斜めに射し込んでいる。

 ぽつりぽつりと、何気ない会話をしながら、わたしは喉を鳴らしておいしそうにオレンジジュースを飲んでいる健一君を眺めていた。すると、ふいに彼がわたしに遠慮がちな目を向けて、こんな質問を投げかけてきた。

「今日、試合のとき、由梨子と一緒にいたけど、何話してたの?」

 う。一瞬、言葉に詰まってしまう。動揺を悟られないように、わたしは笑みを浮かべた。困ったときには、この笑みが、いつも出てしまう。


「秘密です」


 追及されたらどうしよう、と思いながらそう言った。けれど、健一君は、それで諦めたようで、ため息を吐きながら、


「由梨子にもそう言われたよ」


 と、少し残念そうに言った。「女子には女子の秘密があるのです」とわたしはまた笑ってその場をごまかした。健一君はオレンジジュースを飲み終えると、席を立った。


「俺、汗流してくる」

「あ、うん。わたしも、少し外で涼んでくる。――そういえば、卵、もうないよね。買ってきた方がいいかな?」


 先ほどオレンジジュースを冷蔵庫から出すときに、卵のケースが空になっていたことを思い出して、わたしは言った。


「どうだろ。もしかしたら母さん、帰りに買い物してくるかもしれないし……」

「ちょっと確認してみる」


 わたしはすぐにスマートフォンでメールを書いて、おばさんに送った。返事は、買ってきて! ということだった。買い物用のバッグを取りに部屋に上がると、シャワーの音が階下から、微かに響いてきた。

 サンダルを履いて、夕暮れの街へ出た。スーパーまでは歩いて十分ほどだから、少し風に当たるのにはちょうどいい距離だ。空に漂う雲が、黒い影になっていたり、金色に染まっていたりしている。陽に射られた地面や植物の匂いが混ざっているような、生暖かい空気に、午後の陽射しの名残を感じた。夏の夜に鳴いているような虫の音も聞こえてきた。遠くを走る車の音を、空に吸い込まれていくような響きに感じた。

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