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 ☆ ☆ ☆


 ――ヒマ。

 朝食のあとすぐ、健一君もおばさんも出掛けた。部屋のなかで、ふたりが家を出て行くときの音と「いってきます」の声を聞いた。わたしは部屋に戻ってから、クッションを胸に当てながら寝そべって本を読んでいたのだけれど、ひとりきりの家のなかはとても静かで、段々眠くなってきた。栞を挟んで本を床に置き、瞼を閉じた。フローリングの床に寝転がると、背中がひんやりとした。

 このまま寝ちゃいそう、と思ったけれど、しばらく目を閉じていたら、気まぐれなわたしの眠気は急に引き返していった。ぱちり、と瞼を開ける。

 ……散歩でもしてこよう。

 そう思って立ちあがり、タンスからTシャツとロングスカートを取り出す。部屋着から着替え、肩掛けポーチを持って、玄関まで降りていく。少し悩んで、靴は、歩きやすい、ぺったんこのパンプスを選ぶ。それから借りている合い鍵で玄関を施錠し、外に出た。

 今日の空は一面が薄い雲に覆われていて、白に近い灰色に見えた。雲全体が太陽の光を吸収しているような、不思議に明るい曇り空だった。気温はまだそれほど上がっていなかったけれど、じっとりとした空気は、歩いているとやっぱり少しだけ暑く、うっすらと首筋や腕が汗ばんできた。

 この住宅街は車通りも少なく物静かで、掃除機の音やテレビの音が周囲の家から漏れてくる。東京のわたしが今まで住んでいたところには、こういうのんびりした通りはなかったので、ぼんやりと歩いているだけでも新鮮に感じて楽しい。

 そんな風にしばらく歩いていると、この住宅街に住んでいる、同じ学校の星野愛子ちゃんを見かけた。ベージュのショートパンツに灰色のニーハイソックス、水色の襟付きニットシャツを着ている。後ろで二つに分けて結んでいる髪は、学校にいるときと同じだった。

 友達の姿を見かけて嬉しくなってしまって、「おーい」とわたしはその背中に声をかけた。いきなり呼びかけられて驚いたのだろうか、びくり、という感じで彼女は振り返った。けれど、わたしの顔を見ると、安心したような、柔和な笑みを浮かべてくれた。


「あ、里奈ちゃん」


 彼女とはクラスも同じで、仲が良かった。引っ越ししてから一週間、学校への行き帰りは、大体いつも一緒だった。

「どこか行くの?」とわたしが聞くと、彼女はうんと頷いた。


「本屋さんに行こうと思って。里奈ちゃんは?」

「わたしは、なんとなく。暇だったから、外、歩こうと思って」

「じゃあ、一緒に行く? すぐそこなんだ」


 本当に目的も何もない散歩だったので断る理由は何もない。わたしはうんと頷いた。

 彼女とおしゃべりをしながら五分ほど歩くと、小さな書店があった。まだ朝の九時台だったけれど、もう営業しているようだった。

 自動ドアから、なかに入る。店内には冷房が入っていて、ひんやりとした空気が漂っていた。ピアノ曲のBGMが流れていて、入口の近くには最近の話題作やベストセラーの棚が置かれていた。そこにある色とりどりのポップや帯のコメントをなんとなく読んでいると、「わたしちょっと向こうに行ってくるね」と言い残して、愛子ちゃんは漫画のコーナーへ早足に歩いていった。

 わたしは雑誌の棚へ向かった。映画や小説の情報雑誌のなかから、目当ての一冊を探して、少しだけページを捲ってみる。

 健一君には、六歳年上の大学院生の、隆一さんというお兄さんがいて、その人がこの雑誌に書評を書いているらしいのだ。載ってるかな、と思ったけれど、この号では、書評欄は別の人たちの担当だったようだ。残念、と思いながら、そっと棚に戻す。

 隆一さんは同じ市内に住んでいるらしい。しかしわたしはまだ会ったことがない。健一君の話からだと、とても明るい感じの人なんだということが伝わってくるけれど、おばさんの方からは、あまり良い話を聞かなかった。だから、活発で優しそうなイメージと、怖そうなイメージの両方がわたしのなかにあった。

 ある日、おばさんと二人で話しているときに、隆一さんの話題になったことがある。そのとき、「もしも隆一がうちにいたら、里奈ちゃんを預かるのも、絶対に断ってたわ」と、おばさんは言った。


「何でですか?」

「うーん、あいつはちょっと里奈ちゃんには言えないことを色々しでかしてて……。ほんとに、節操がないというか……」


 それは健一君が言っていた「チャラい」というやつだろうと思い、わたしは「なるほどー」と、『それは困りますねー』というようなニュアンスを込めて深く頷いた。「チャラい」というのがどういうことなのかくらい、さすがにわたしでも知っている。

 でも、大学院生で読書家だということと、「チャラい」というイメージがわたしのなかではあんまり上手く結びつかない。健一君のお兄さんなのだから、乱暴な人ではないと思うけれど、一体どんな人なのだろう。恐いもの見たさなのか、ちょっとだけ会うのを楽しみに思っている。

 わたしはその後、近くにあった女性向け雑誌のところへ歩いていった。たまに買っていたファッション雑誌の今月号があったので、それを手に取った。目次や写真をパラパラと眺めていると、星座占いのページに目が留まった。なんとなく自分の星座の欄を見てみと、こんなことが書かれてあった。

 

 ○ ○ ○


 いて座

 ☆ 身近な異性と、急に距離が縮むことになるかもしれません。


 ○ ○ ○

 

 どきりとした。

 身近な異性なんて、女子校育ちで、学外でのサークルや習い事もやっていないわたしにとっては先生くらいしかいなかったけれど、今は、人間関係としても物理的な距離としても、ほとんどこれ以上ないくらいに近いところに、健一君という男の子がいる。

 思い当る節があり過ぎて、背中がもぞもぞとしてきた。占いってすごいなぁー、とだけ思うことにする。どうしてかそれ以上深く考えるのはいけないことのような気がしたのだ。

 わたしは、ぱたん、と雑誌を静かに閉じた。まだ心音が大きく体のなかに響いている。一度深呼吸しようと思って、息を静かに吸い、吐こうとしたところで、「里奈ちゃん」と後ろから声をかけられた。わたしは思わず「きゃあ」と小さく悲鳴を上げてしまった。

「わわ。ごめん。驚かせちゃった?」

「う、ううん。大丈夫」

 と、わたしは首を横に振って、にこ、と慌てて笑みを浮かべて言った。あんまり上手く笑えていなかったかもしれない。

 彼女はもう買うものを選んだらしくて、三冊のマンガを手に持っていた。前髪が長くて細身の男の子がたくさん描かれている表紙が見えた。彼女は少女マンガよりも、こういう、男の子がたくさん出てくる作品の方が好みなんだと以前話してくれたことがある。

「それ、買ってくの?」

 愛子ちゃんはわたしの方を見ながら尋ねた。

「え?」

 自分の胸元に目をやる。ハタハタしている間に、わたしは手に持っていた雑誌を胸に抱いていた。

「あ、うん」

 と、わたしは頷いて、彼女と一緒にレジに向かった。どうしてか、この雑誌は置いて帰る気になれなかった。お会計を済まし、店員さんが紙袋に包んでくれた雑誌をそっとポーチに入れた。

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