里奈編 梅雨明け前、里奈と健一の一日

1

 目が覚めると、見慣れない天井に、一瞬、はっとした。けれどいつものように、すぐその違和感と驚きは消える。

 引っ越してから一週間、ずっと朝起きるときにはこの驚きがあった。わたしがこれまで住んでいたマンションの部屋よりも高いところにある、白い壁紙が貼られている天井、敷き布団の感触、空気の匂いが、目覚めたばかりのわたしに、自分がどこにいるのかわからなくなるような違和感を伝えてくる。

 意識としてはこちらでの生活にも慣れてきたつもりだったけれど、まだまだ、体の方は馴染んでいないということなんだろうか。――そんなことをぼんやりと考えながら、上半身を起こす。

 窓の方へ目を向けると、赤いカーテンが光を弱く湛えていた。あたりはまだ薄暗い。早朝なのかと思ったけれど、空気に湿り気を感じ、曇りの日の朝なのだと気づく。枕もとに置いてある目覚まし時計の針も、六時四十分あたりを示していた。もう陽が出ている時刻だ。

 タオルケットから出ると少しだけ肌寒かった。わたしはパジャマにしていた古いTシャツの上に、薄いカーディガンを羽織った。それから机の前に座り、手鏡を持って顔をチェックする。まだ少し眠そうな目。一度鏡を置き、両手でぐしぐしと、目尻のあたりをマッサージしてみる。それからもう一度チェック。頭のてっぺんのあたりが、寝癖で少し膨らんでしまっている。櫛で梳かしてみる。絡んでいる髪の引っかかりがなくなるまで、何度か櫛を通すと、まだ少しふんわりとした感じはあるものの、さっきの状態よりも、かなりましになった。

 うん。これなら大丈夫。

 洗面所に行くまでの間に、健一君やおばさんに寝起きそのままの姿を見られるのは恥ずかしいので、わたしはいつも部屋のなかで簡単に身支度をしていた。

 部屋を出て、一階に降りて行く。その途中で料理の音に気がついた。何かが焼ける匂いが漂い、油の弾ける音が小さく響いている。リビングのドアを開けると、キッチンの前に立つおばさんの後ろ姿が見えた。

「おはようございます」と、わたしはその背中に声をかけた。おばさんはくるっと振り返り、「おはよう、里奈ちゃん」と挨拶を返してくれた。どこかに出掛ける用事でもあるのか、日曜日だけれどもう着替えも済ませているみたいだった。


「何か、手伝います」


 わたしはそう言ってキッチンまで歩いていった。しかし三つあるうちの二つのお皿にはもうハムエッグが盛り付けられていて、おばさんは今、三つめのハムエッグをフライパンで焼いているところだった。

「もうほとんど出来てるから、大丈夫よ」と、やはりおばさんは言った。

 それを聞いて、もう少し早く降りてくればよかったと、ちょっと後悔した。土日は、いつも七時くらいに起きると聞いていたから、わたしも少しのんびりしてしまっていた。


「ごめんなさい、手伝えなくて」

「いいのよ。平日手伝ってくれているんだから、日曜日くらい、気にしないで。ささ、健一が降りてくる前に、顔洗っておいで。まだでしょ?」


 おばさんは、フライ返しでハムエッグをすくい上げながら言った。わたしは「はい」と頷いて、洗面所に向かった。

 こちらが気を遣いすぎていると逆に向こうにも気を遣わせてしまうかもしれない、とはいつも思うけれど、やっぱりまだ、居候をしている身だということで、いろいろと遠慮をしてしまうことが多い。もっとくだけていた方がいいのだろうけれど、図々しいと思われてしまうことが怖くて、そのあたりの感覚が上手くつかめない。

 洗面所に入り、鏡に映る自分を見ながら、ふう、と息を一つ吐いた。洗面化粧台には、歯ブラシや、わたしとおばさんの化粧水や乳液、化粧品、男性用の整髪剤などが置かれている。

 まず歯を磨いてから、ヘアバンドで前髪とめて、シャワーヘッドから流した水を両手に溜め、ばちゃばちゃっと顔を洗う。それから、寝癖直しとドライヤーを使って、髪を整える。そんなふうに、いつも通りに朝の身支度を済ませて、いくらかさっぱりした気分で洗面所のドアを開けると、入れ違いに健一君が入ってくるところに鉢合わせた。


「あ。おはよ……」


 ふいの遭遇にびっくりしながらわたしが挨拶すると、


「あ、うん……。おはよう」


 と、健一君は、耳の上あたりを押さえながら言った。どうしたんだろうと、そこに目をやると、指の間から髪の束がぴょこんと跳ねているのが見えた。きっと健一君も、わたしに寝癖を見られるのが恥ずかしいのだろう。『気持ちわかる』と思って、それが自分でちょっとだけおかしかった。

 リビングに戻ると、テーブルの上に、ハムエッグのお皿が三つ並び、おばさんは椅子に座って新聞を読んでいた。テレビは点いていない。レンジが低い音を出しながら、何かを加熱していた。

 少しくらいは役に立たないといけないと思って、わたしはコップやお箸を食器棚から出して、テーブルに並べることにした。と、そのとき、レンジが過熱終了の電子音を出した。新聞を読んでいたおばさんが立ちあがって、すぐに中身を取り出す。お弁当用のから揚げだった。柔らかな湯気がほわりと立っている。おばさんは手際よくそれを、ハムエッグに添えていたレタスやトマトの残りと一緒に、テーブルの上に出ていた健一君のお弁当箱に詰めていった。それは今までの一週間、わたしがやっていた作業だった。やります、という間もなく、その作業はすぐに終わり、おばさんはエプロンを外した。

 その後わたしたちは、向かい合うように座って朝食を食べ始めた。お醤油をかけたハムエッグをお箸で小さく切って、ご飯と一緒に口に入れる。半熟の卵が焼かれたハムにとろりと絡んでおいしかった。


「里奈ちゃん、今日は予定ある?」


 少しして、もぐもぐとご飯を咀嚼しているときに、おばさんにそう聞かれた。口のなかのものを飲み込んでから、答える。


「いえ、何も。一日暇です」

「わたし、午前中から近所の人とちょっと外出する用事があるのよね。お昼までには帰ってこられないと思うから、里奈ちゃんのお昼ごはん、どうしようかと思って」

「大丈夫です。何か買ってきて食べますから、わたしのことは、気にしないでください」

「そう。ごめんね。帰りが遅くなりそうだったら、一応、お昼に連絡するから」

「はい。わかりました」


 そんな話をしていると、健一君がリビングに入ってきた。今日も部活があるらしい彼は、もう制服を着ていた。ご飯を自分でよそい、おばさんの横に座って、「いただきます」と手を合わせた。

「健一、あんた今日はいつ帰ってくるの?」おばさんが問いかけると、

「一日練習試合だから、夕方になると思う」と、お茶碗を持ちながら健一君は答えた。


「ふーん。何試合するの?」

「二試合」


 おばさんは、そう、と言い、読んでいた新聞を畳んでから続けた。


「また小学生のときみたいに足攣るんじゃないわよ、みっともないから。半泣きで由梨子ちゃんに足伸ばしてもらってたの、まだ覚えてるわよ」

「……忘れて。試合中に足攣ったの、今のところあのときだけだから。つーか、母さんが見に来るとぜったい何か変なことが起きるんだよね。PK外したり、オウンゴールしたり」

「あー。あれもカッコ悪かったなぁ。まさか健一が自分のゴールにヘディングシュート決めるとは思わなかった。一緒に見てた森さんと爆笑したわ。――そういえばあのときはあんた由梨子ちゃんに蹴飛ばされてたわね」

「……バックパスしようとしたら、思いのほか勢いよく飛んじゃったんだよ……。てか母さん、由梨子のことよく見てんね……」

「あんたたちがいつもくっついてたからセットで覚えてるのよ」


 二人の話の間、おばさんはにまにまとした笑みを浮かべていて、健一君は困ったように、顔を顰めていた。

 なんだか健一君が恥ずかしい過去の話でからかわれているみたいだった。わたしは何の話かわからず、会話に参加出来なくて、ちょっとだけ寂しさを感じた。

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