第3話.本音

 どうして貴方は私を――と、彼女は問うた。

 作業効率を上げる為だ――と、私は答えた。


 どうして私にこんな機能をつけたのですか――と、彼女は問うた。

 人には必要なものだからだ――と、私は答えた。


 どうして私は思考できるのでしょう――と、彼女は問うた。

 私の望みを叶える為だ――と、私は答えた。


 では貴方の望みはなんですか――と、彼女はこちらを真っ直ぐ見つめる。

 だから私は目を背けて答える。私の、望みは――





 目が覚めると同時に広がる景色は、最近やっと慣れた自室の天井ではなく、周囲が区切られた薄暗い天井だった。眠っていた空間を仕切る白いカーテンが外部の何処かから吹き込む風で僅かに揺れて月明りを空間内へと招き入れる。


 場所を確かめる為に上体を起こすと、僅かな眩暈と頭痛に視界が歪む。眠る前の記憶があやふやで、なぜ今こうして知らない場所で眠っているのか、眠る前には何をしていたのかが思い出せない。

 ふらつく頭を押さえるように額に手を当てようとすると、右腕が何かに固定されているのか、僅かな重みと暖かい感触が動作を阻む。仕方なく動く左手で目を覆う様にして拘束箇所に目をやると、そこには先程から射し込む月明りに照らされ、まるで硝子細工の様に煌く綺麗な髪を、腕の周りに散らすようにして寝息をたてる少女の側頭部が呼吸による肩の動きと連動し、微かな上下運動をしていた。


「お目覚めかい?」


 散らした髪で顔が見えない少女の顔を確認しようと左手を動かすと、不意に女性の声が優しく響き、同時に空間を区切るカーテンが開かれる。手を止め目線をそちらへ上げると、先程まで僅かに射し込んでいた月明りを後ろに従え、背の高い白衣の女性が姿を現した。

 逆光で顔はハッキリと視認出来なかったが、その姿と声は、それがこの島唯一の医師であり、学園の養護教諭も務める漆先生である事を、未だ不調を告げる脳が壊れていない記憶の解答欄に、認識が間違っていないという丸を付ける。


「先生。俺は――」


「そのままで。順を追って話してやろう」


 ベッドから出ようとした挙動を手で軽く制した後、先生はカーテンを開ききって、丁度ベッド右手の見覚えのある診察用デスクの椅子に腰掛ける。そしてデスクに置かれたマグカップに口をつけると、淹れたてなのか飲んだ口と容器から湯気が吐き出される。

 暑い時に熱い物をとよく言うが、この島の穏やかな気候では夏という季節でも、思うほど暑くはなく、日の落ちた今は予想よりも気温が下がる。デスク前の開け放たれた窓から流れ込んでくる風は、覚醒して半身を出した今では、寧ろ肌寒く感じられた。


「さて、説明前に状況は理解出来てるかい?」


「……いえ全く。何で俺はこんな所で寝てるんですか?」


「そうか――君はね星崎君。昨日花壇手入れの休憩中に倒れたんだよ」


 あぁ、と記憶が蘇る。どうやら俺は昨日、あのお菓子を見てから気を失い、そのまま担ぎ込まれて眠り続けていたらしい。

 記憶の中だけの事だと言うのに、あの赤いお菓子を思い出し、再び気分が悪くなる。


「赤い菓子――いや正確にはそれの元になった果実の方か。私達が来たときには既に無かったし、この島の資料にも載っていない。そんな物を連想しただけで気を失うと言うのも奇妙な話だよ」


 おそらく状況説明を受けたのだろう。先生はあのお菓子を見て倒れた俺の状況に疑問を唱える。この島に今はない物を、孤児としてこの島に来た俺が、知っている・見ていると言うのはどう考えてもおかしい。

 かと言って単純に赤い物に対して拒絶や嫌悪を示している訳ではなく。あのとき俺は、明確にアレに対する記憶との相違と拒絶感を感じた。

 そして今もなお、思い出すだけで心拍数が上昇し脳を茹で上げ、手には冷や汗なのかどうかも分からない汗が滲む。


「本当にこの島の何処にも――この島以外の何処にも存在しない物なんでしょうか?」


「この島にはさっきも言った通りだが、この島以外となれば分からないとしか言えないね」


 そう話を締め括って再びマグカップの液体に口をつける。結局実物が無ければ原因を探ることも出来そうに無いが。アレが仮に存在したとして、もう一度手に取り確認すると考えるだけで気が滅入った。


「さて考察はその辺にして、今日はそこで安静にしていたまえ。どのみち着替えはここには無いし、その格好で出歩くほど特殊な性癖では無いだろう? 彼女もずっと君を心配していたし、そのまま寝かせておいてやってくれ」


 そう言われて初めて自分の格好に気付く。普段着ている制服や体操着等ではなく、白い薄手の検査着姿で、中には下着すら着けてはいなかった。

 先生曰く。俺が倒れた後、彼女が必死に検査を頼んでくれたらしい。大急ぎで取り寄せた機器を別室にて準備をし、先程やっと検査が終わってそのままここに寝かされたという訳だ。


「それにしても、この部屋に入りきらない程の物なんてよくこんな短時間で手配できましたね。精密機械が殆どなのに」


「過保護なんだよ、あの人はどうも……ともかく私もそろそろ休む。何かあれば隣の部屋に居るから叩き起こしてくれて構わんよ。それと――」


 容器の中身が無くなったのか、湯気の消えたマグカップをデスクに置いて、頭をかきながら先生が立ち上がる。背伸び運動のついでに脱いだ白衣を広げ、未だ俺の腕を枕にしている彼女の肩にそっと掛ける。


「ここまで担いで来てくれた学園長にもだが、連絡を聞きつつけてから今の今までずっと。君を看てくれた彼女にも、後で礼を言ってやってくれ」


 そう言い残し、今度こそ保健室の奥にある自室へ引っ込む。俺は再び自分の左手の動きを再開させると、彼女の月光で煌く髪を手ですきながら散った髪を纏め、後頭部側へと流してやる。

 その動作に反応したのか、身じろぎで抗議する幼馴染の花音は、まるで月光を浴びたアンティーク人形の様に白くて綺麗に映えていた。





「本当に、もう大丈夫?」


 そう問われたのはこれで何度目だろうか。保健室で起きた花音に礼を言って泣き出した時は焦ったが、それから昼前の授業が終わる今の今まで。事ある毎に俺を気遣い、その言葉を投げかける。初めの内は好意的に接し、二限目辺りでその回数を数えだし、その回数が二十を超えた辺りから最早数えるのは止め、生返事を返すだけだ。


 あの後、身体に異常は見られなかった俺は、そのまま授業に参加している。当然心配していた花音は反対していたが、フラッシュバック等による突発的な昏倒に、すぐさま対応できる校内に居てくれた方が助かるうえ。身体が健康なのに寝たきり等にすれば、それこそ無駄に体が衰弱し、別の病気にかかる可能性があると漆先生に指摘され、渋々俺をベッドに縛り付ける腕を解いた。


「おぅ病弱君。飯にしようぜ」


「だからその呼び方はやめろ。これでも体は丈夫なはずだ」


 椅子に座る俺の肩に腕を掛けてからかう滝崎を、ため息交じりに反論する。それでも悪い気がしないのは、こいつも朝までは随分不安げな顔で心配してくれた事に面食らったからだろうか。


「もう滝崎先輩あんまりです。これでも倒れた時は本当に大変だったんですからね!」


 クリスが小さな体全体で抗議する。花音も相当だったが、当然倒れたその場に居たクリスも口には出さないだけで、かなり心配してくれていたのがその様を見ればわかる。

 二人が特別心配性な事もあるが、他の皆も程度はどうあれ俺の身を気遣ってくれているのだ。


「そうだよ滝崎。本当の病人に対して病弱なんて言うのは失礼だよ。ねぇ星崎?」


「お前の一言も十分酷いよ」


 相変わらず悪態ともつかない一言でお茶を濁す狭間にため息を吐いて、花音が作ってくれた弁当を開いて手を合わせる。献立に幅が無いのか弁当の中身はここ数日でさほど変化は無いが、こうして毎日作って貰えるというのは本当にありがたい。


「つってもなー。こんなほっそい体して、階段から落ちて記憶喪失になったり、突然倒れたりとか。そのうち石にでも躓いて死――」


 竜崎の悪態を言い終わる直後、耳元を切る様な風切り音と肉を叩く生々しい音が、肩に掛けられた腕の重みを消し去った。何が起こったか理解するより先に、先ほど滝崎が居た場所に丈の短いスカートから伸びる張りの良い太ももが視界を覆うように存在を主張していた。


「んもーう! あんまりそんなこと言ってると、心配性の花音ちゃんが心労で倒れちゃうでしょ? そんな事になったら私、悲しくなって暴れちゃうわ!」


「お、まッ!本気で――」


「乙女のパンチで倒れちゃうか弱いコレはー、私が保健室に連れて行くから。明人は心配性のお姫様の面倒よろしくねー?」


 自分より一回り大きいであろう男の体を担ぎ上げ、教室を出ていく日真理。あれほど怪力だったとは驚いた。

 だがそんな事を気にする暇は無い様で。話を聞いて顔色を悪くした花音を、クリスと一緒になって看病する。

 申し訳ないが滝崎のついでにやられ蹲る狭間を、今は気遣う余裕が無い。


「あのぉ、お取込み中のところ悪いんだけど。鏡咲さんにちょっとお願いが……」


 そんな惨状の中。申し訳なさそうに顔だけ覗かせた橘先生が現れる。未だに花音の顔色が優れない以上。渡りに船と言わんばかりに、先生からの依頼を有無を言わさず引き受けて、花音と共に逃げる様に飛び出した。





 俺達が生活している区画を抜けて真っ直ぐ正面。丁度島の玄関口として広がる浜辺。その浜辺の隅の隅という、辺鄙な所にある小屋を俺と花音は目指していた。


「お弁当届けるだけだから、私だけでも大丈夫だよ?」


 橘先生からお願いされた内容は簡単だった。浜辺の端に住む、定期便の管理人へ弁当を届けるだけ。

 内容だけ聞けば誰にでも出来るし、無理して花音にお願いするなら、それこそ先生本人が出向いても済む程度のお使いだ。

 ただ奇妙なのは、このお使いに花音の参加が必須という事。そして俺の参加は、あの場に居た全員が良い顔をされないどころか、花音との同行を止められた事だ。

 道中花音に理由を聞くと。どうやら俺はその管理人に相当嫌われているらしく、記憶を失う前から会う事すら稀だったらしい。


「本当にあーちゃんのこと凄く嫌ってるから、どうしても無理そうなら私と交代してね?」


「……わかった」


 相槌を返すも、俺の気分は宜しくない。俺か相手が嫌われる様な事をしたならともかく、何の理由も蟠りも無く誰かに嫌われているのだ。

 当初は花音の気分転換で受けたお使いだったが。今は俺自身の気分に雲がかかり、花音に至っては問題がすり替わっただけで、この先起こるであろう出来事に対して、不安の顔をこちらに向けている。


「ここか」


 辿り着いた浜辺の端、話に聞いていた通り小屋があった。小屋と聞いていたので、てっきり木造で建てられたものかと思っていたが、予想は大きく外れ。見た目こそ子供の秘密基地の様だが、鉄板を幾重にも重ねた構造で重量感と存在感を醸し出す。

 正面にある取っ手に手を掛け引っ張ると鍵はかかっておらず、挨拶をしながらそっと手前に引っ張り中を覗く。中はやはり外見から察せる程度の狭さで、人の気配は無い。

 俺は花音を外で待たせ、今は居ない小屋の主人に対して断りをもう一度呟いて、体を小屋の中へと滑り込ませた。


 中に入って改めて見渡すと、部屋の中には最低限の生活用品しか存在しておらず。浜辺の家だと言うのに部屋の外にも中にも海で扱う道具などは一切無かった。

 狭い部屋の中央に鎮座するボロの布切れは、二枚重ねでそれが寝具だという事が辛うじてわかる程度で、その他に目につくものと言えば、取って付けた様な配管が丸出しの炊事場と、幾つかの本が積まれた小さなテーブルだけ。


『惑星の性質と環境改善』


 何気なく積まれた本の一冊を手に取りタイトルを確かめる。そこに書かれた文字は、決して娯楽などの一環として読むようなものでは無いと一目でわかる。

 意外と環境に煩い人柄なのだろうかとか、何を読んでいてもとやかく言うつもりも無いのだが、何故かそのタイトルには見覚えがあり、読み古されたその本はとても手に馴染む。

 表紙を開いてページをめくると、そこに書かれた内容はSF小説や空想科学などではなく、確りとしたデータや研究結果を元にした論文であることが読んで解る。

 嫌われている相手が自分の知る本と同じ物を持って呼んでいる事にも驚いたが、何よりも明らかに学生が理解出来る範疇を超えたそれを読める自分に驚いた。


 ――途端。まるで赤い菓子を見た時と同じ感覚に襲われて、倒れる体をすんでのところでテーブルに手をつき支える。テーブルは突然かかった重量に、その面を大きく揺らし、上に積まれていたその他の本や荷物を纏めて振るい落とす。

 乱れた意識と呼吸を急いで整え、俺は落ちたそれらを拾い集めてテーブルへ戻すが、一つだけ変わった形のケースが落ちているのが目に留まる。

 気になって手に取り確認すると、ケースの角には幾つかのボタンが見受けられ、ケースの蓋を開けると、自分の顔を映し出す真っ黒な液晶画面が存在した。

 好奇心に負け、電源を入ようと角にある幾つかのボタンを押し続けると。光が戻った液晶画面には、浜辺の何処かで撮られたであろう画像が映し出された。


 そこに映し出されたのはこの島の住人全員の集合写真の様で、九人中八人は見知った顔だ。

 唯一見覚えの無い筈の初老の男性は笑みを浮かべ。その姿は滝崎の様に如何にも海の男と思える褐色肌で、初老とは思えない逞しい体つきだったが。何故か滝崎とは違うもっと身近で毎日見ている様な人物に似ている気がした。


「――そこで何をしている」


 ドスの利いた渋い声で背中を刺される。小さな小屋の隅々にまで響くその声は、先程までの思考を中断させ、異分子である俺を攻め立てた。

 悪戯の見つかった子供の様に恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは先程写真で見た初老の男性だった。

 物色する様な目つきで此方を見る彼の顔は、写真の笑顔と違いとても険しく勇ましさすら感じられる。写真通りの体格で小屋の入り口を覆う彼の目は無言でこちらを縛り付け、俺が未だ持っている集合写真の写ったケースで留まった。


「――ッ‼」


 脳が状況を理解する前に、一瞬の浮遊感のあと後頭部に衝撃が走り視界が明滅する。僅かに遅れてくる切れた様な首の痛みは、恐ろしい程の圧力によって上書きされた。

 息が苦しくなり視界が戻りきらない中で、無意識に手が首筋に伸び、呼吸の妨げになっている何かを必死で外そうとする。だが人の熱を持った拘束具はびくともせず、俺の手は拘束具の表面を掻き毟るばかり。

 ようやく視界が戻ると、目の前には先程の男が瞳孔だけを開いた顔でこちらを見据えており、彼の頭上から小屋の入り口が見える。そこまで来てやっと、自分が小屋の壁に叩き付けられ、右腕一本で持ち上げられている事を理解した。

 訳も分からず未だ男の手を掻き毟る手を置いて、唯一自由な足をばたつかせ、がむしゃらに相手の体へ蹴りを入れるが、その逞しい体躯に相応しい硬質な肉と骨は、ただひたすらに蹴りの衝撃を痛みとして自身へと反射させた。


「やめなさいッ‼」


 鳴り響く少女の声に、俺の首を絞めつけていた手が一瞬緩み、男の顔に表情が戻る。だがそれはほんの一瞬で、再びぎちぎちと首を締め付けを再開する手の先にある顔には、今度こそ明らかな怒気が見て取れた。

 花音が必死に男を止めようと、腕を抑え必死に泣き叫んで訴えるが、男はまるで見たくないものを見ない様に、必死で俺の顔を睨め付ける。


 いよいよもって頭に酸素が回らず、視界の端から白く狭まる。体が酸欠状態に陥り、走ってもいないのに酷い倦怠感に襲われ力が抜ける。唯一続けていた手への抵抗も、力が抜けてずるずると男の手から滑り落ち、口からは空気が擦れ漏れる様な音と、泡交じりの涎が垂れ落ちる。

 意識の糸は次々と切れ落ちて、あと数本で暗い暗い闇の底へと落ちる寸前。硬い物がぶつかり合う音がして、再び体に浮遊感が訪れ、感覚の鈍った肌が硬い物へと衝突する。


「おじさーん。ちょっとやり過ぎ」


 人が持つ天然の拘束具から解放され、未だ戻らない視界に目をつぶり咳をしながら感覚の鈍い体を動かし蹲る。辛うじて外界からのまともな情報源は、耳から入る音だけで、その耳は花音とは違う少女の声を意味も理解できな脳を無視して拾っていた。





「いやはや、お姫様をお頼みした相手もまさかお姫様だったとは! 日真理ちゃん一生の不覚です!」


 茶化す様に左手で小さな敬礼をしつつ、右手でコップに注いだ水を差し出す日真理。俺はそれを受け取ると、日真理が小屋から徴収してきたシートの上に座ってそれを口にする。液体が喉を通る毎に先程痛めた首の筋肉が伸縮し、痛みに咽そうになるのを顔をしかめて我慢して、一息で飲み干した。

 日真理は竜崎を保健室に運び終わった後。俺達の行方を聞いて心配になって見に来たようで、今は花音が頼まれた用事を終えて戻ってくるのを、俺と共に待っていてくれる。


「なぁ、俺って本当に何も悪い事してないのか?」


 落ち着いた今だからこそ他人事の様に質問を投げ掛ける。喉元過ぎればではあるのだが、あの時もし日真理が来ていなければ、俺は確実にあの場で首を絞められ、窒息死させられていただろう。

 今もなお反射的に沸き起こるあの男への怒りは消えないが、それとは逆に記憶を失う前、それほどまでに憎まれる何かをしたのかと思慮してしまう。日真理はそんな俺を見据えた後、軽く息を吐いて俺の隣へ座った。


「別になーんにも。何もしてない事が悪い事なのかもしれないけど――」


 頓智か何かだろうか? それでは何かしていてもしていなくても、結局嫌われたと言う事になる。それともあの男に媚び諂い、こちらから仲良くして下さいとお願いしなければならないのだろうか? 

 日真理はシートの横に置いた水筒から自分用のコップに水を注ぐと、それを一口飲んだ後に話を続ける。


「あのね明人。あの人見かけによらず、すっごーく子供なの。お母さんが近くに居ないと寂しくて泣いちゃうくらいに」


「……?」


「それでね? 今は訳あって離れて暮らしてるんだけど、なんとあの人のお母さんは花音そっくりなの! だからあの人は花音にだけは甘くて、花音に会えないとヒステリー起こしちゃうの」


 オーバーリアクション気味に飛び交う予想外の事実は、俺の頭を困惑させる。更に言えば、どうしてその事が俺があそこまで憎まれる原因になるのかが分からず、頭の中の疑問符を生産を更に加速させた。


「本当は毎日会いたいくらいなのに、花音には花音の事情があるからそれは難しい――でも明人は花音と同じ学生で、花音と幼馴染で毎日会える」


「――やきもち?」


「単純に言えばそゆこと。まぁ感情の制御が普通の人より出来ないってのもあるんだけど、最近だと明人が記憶無くしちゃって大変だったから、余計に花音を取られた感じがして悔しかったんじゃないかなぁ」


 つまり俺は、たかだかやきもちの為に、死ぬ直前まで首を絞められたらしい。あまりの馬鹿馬鹿しさに、別の意味で気が遠くなると同時に、先程まで場の雰囲気で流され続けていた怒りに火が灯り、ここには居ないあの男に対する激昂を、目の前の日真理にぶつけそうになり、口から声が漏れる。

 行き場の無い怒りと首の痛みを抑える為に、手を握り締めて息を吐くと、小屋の中から漏れだす声がした後、大きな音をたてて花音とそれを追う男が飛び出してきた。


「ま、待って。待ってマ――」


 先行する花音に、追いすがるかの様に男が花音へ手を伸ばす。そして振り返る花音に晴れる男の顔は、されど一瞬にしてその表情と体を硬直させる。

 がらんどうになった男の伸ばす手は、虚空さえ掴むことなく静止し。その姿に首を絞められていた時の威圧感や恐怖など微塵も感じられず、爆発しそうだった感情は、再びその場の流れに吞まれ鳴りを潜める。


「ごめんね二人とも。もう終わったから学校戻ろう?」


「あ、あぁうん」


 花音は笑顔でこちらへ振り向くと、時間の止まった男を気にする事なく学校へと歩みを進める。だが振り向きざまに見えた花音の顔は、皆が笑う中央で何故か一人だけ無表情で写る、あの小屋で見た写真を思い出させた。

 今更ながらに思い返せば、あの写真に俺の姿は写っていなかった。おそらくあの写真を撮ったのが俺なのだろうが、その時の男との関係と、花音の心境は未だ記憶の戻らぬ不良品の頭では、残念ながら思い出す事はできない。


「ありがとう日真理。心配して来てくれたんだよね?」


「有り難き御言葉。いーよいーよ気にしないで! 私は花音が無事ならそれで良いの。花音が嬉しそうに笑っていてくれるならそれが一番なのぉぉぉよぉぉぉ‼」


 日真理が両手を目一杯使って花音の硬い笑顔を解しにかかる。黄色い声を上げながら、浜辺でじゃれあう二人の姿に癒されながら、ふと後ろを振り返る。

 先程までがらんどうだった男の顔は既にそこに無く、何かに取り憑かれた木偶人形が彷徨う様に小屋へと一人歩き出していた。

 未だ痛む首を抑え、未だ許せぬ男を見つめ。されど本当の子供に見えるその小さな小さな男の背中に、自分の立場が優位であることが分かった優越感からか、男の顔が身近な誰かに似ていたからか。哀れと思う気持ちと背後に迫ってくるような何かを感じ、俺は逃げる様にその場を後にした。





 後頭部に感じる柔らかな感触と首に巻かれた湿布の臭い。そして飛び交う大人の愚痴と、充満する酒の臭い。

 あの騒動の後。俺は夜の学校の一室で、何故か二人の大人の玩具にされていた。


「まったく、最近のあの子は心配が過ぎる」


 漆先生が俺を抱え込みながらグラスに入れた琥珀色の液体を飲み干し、先程まで居た花音に対して愚痴を零す。

 浜辺の件で二人とも当初の目論見も、極度の心配性も意識から飛んでいたが、落ち着いた花音はすぐさま俺を保健室へ連れ込むと、先日の件で未だ疲れの取れていない漆先生に俺の治療を強要した。

 怪我自体は大した事は無かったが、手の形に跡ができた首の打ち身以外にも、小屋の家具で打ち付けた足や腕の痣が出来ていて、それが見つかる度に顔を青くする花音。

 その光景に疲れ果てたのか、それとも彼女の心労を考えてなのか、漆先生は俺の治療と安静を約束する代わりに、花音の帰宅と連行。そして監視を一緒について来た日真理に命じて今に至る。


「日に日に星崎君に対して過保護になるわよね。何かあったの?」


 ついさっきまで滝崎の事で愚痴を零していた橘先生が、円形のテーブルを挟んで漆先生に抱かれた俺を見上げ尋ねる。

 滝崎以外には普段柔和で確りした皆のお母さん的なイメージの先生だが、今目の前に居る先生は打って変わり。短パン半袖の体操着をだらしなく着崩して、カーペットの床に一升瓶を片手で抱えながらごろ寝している。

 滝崎が話していた情欲を掻き立てる赤い下着も、薄く白い半袖では赤い色は薄ら透けて。短パンは既に膝上辺りまでずれ落ち、テーブルが無ければ下着の全容が伺えるだろう。あいつがここに居れば涙して歓喜するに違いない。


「特にこれといっては……強いて言えば今朝花音にお礼を言ったら泣かれたくらいですかね」


「お礼で泣かせたって、一体何て言ったの?」


「普通に“今までずっと看ていてくれて有り難う”って言っただけですよ」


「成程。それは君のせいだね」


「良いなー。私も星崎君にそんな嬉しい台詞言って欲しいなー」


 誰がどう聞いても普通のお礼の筈だが、それを聞いた二人は納得した顔で頷く。一升瓶をテーブルに戻した橘先生が両手を伸ばすのを見て、漆先生が背中を押した。

 三度目になるやり取りに無抵抗になった玩具は易々と受け止められ、彼女の体に収まった俺は、子供をあやす様に頭を撫でられた。


「私はねー星崎君。本音言うとこんな小さな島の教師じゃなくて、旅がしたいの」


「旅、ですか?」


「そうそう。誰も知らない、誰も見た事ないものを探して見て触って聞いて。色んな経験がしたいの」


 胸に密着した頬から伝わる先生の体温は、お酒で体温の上がっているのか随分熱く、空調の効いた部屋でも僅かに汗の匂いが嗅覚を刺激する。二人の体温が合わさって抱く本人も熱い筈なのだが、それでも抱きしめるのを止めず、頭を撫でる度に足を絡め更に体を密着させてきた。


「でもね、皆に先生。先生って頼られるのも嫌いじゃない――ううん、とっても嬉しいの。だから私はどっちかなんて選べない」


「えぇと……そ、それじゃあ。いつか皆で一緒に旅に出ましょうよ」


 何気なく答えた一言に、頭上からの気配が止まる。本当に? と顔を上げられ、同意の意思を返すと瞬間。先程以上に力と熱を込めて、頭を撫でられ体をもみくちゃにされる。


「本当に――ほんとーに!星崎君は女泣かせだなぁ!」


「ちょ、ちょっと先生苦しッ!」


 それほど嬉しい事だったのだろうか。顔を見なくても伝わる先生の喜びように、打撲の痕に鈍く響く痛みを堪えて苦笑する。テーブル向こうで笑う漆先生を見て気恥ずかしくはなるが、ここまで喜ばれて悪い気はしない。


 暫くして落ち着いたのか、全身を包む愛撫の嵐が止む。拘束が緩まり抜け出そうとすると、胸が規則的に上下して、耳が先生の寝息を拾い取る。

 俺は優しく包むその腕を振り解くのを止め。既に異性に感じる熱と無くした体を目の前に居る女性に預けて目を瞑る。

 伝わる体温と共に湧き出す懐かしくて安らぐ感情。それにそれに反して、昼に出会ったあの男の気持ちが分かった様な気がして、腹立たしくも感じた。

 その正負入り混じる感情は、あの時感じた焦りを生み出して、意識の落ちる瞬間に昔答えた問いを思い出させる。


 どうして貴方は私を――と、彼女は問うた。

 ――独りでは寂しいから。寂しさに押し潰されてしまうから。


 どうして私にこんな機能をつけたのですか――と、彼女は問うた。

 ――共に笑い・喜び・泣いて欲しいから。


 どうして私は思考できるのでしょう――と、彼女は問うた。

 ――私の隣で共に歩んで欲しいから。


 では貴方の望みはなんですか――と、彼女はこちらを真っ直ぐ見つめる。

 だから私はすまない、すまないと声を上げる。

 私一人では耐えられなかった。私一人では苦しかった。

 だから私は君を生み出した。寂しさで押し潰されそうなこの世界に。

 苦しくて、寂しくて、途方もない時間を一緒に過ごす為に。

 すまない。だから私の望みは叶っている。

 だからすまない。一緒に居てほしい。


 だからどうか、だからどうか

 ――私の希望を、どうか一緒に見つけて欲しい。




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