第2話.望み

 昨日と変わらず穏やかな気候に晴れやかな空。季節は夏という事を、自身の知識と他者との会話で感じ取る。

 熱気を伴う代表的な季節である筈だが、汗ばんだ肌を通り抜ける風が、暑さを適度な心地良さへと変えてくれる新鮮な感覚。この季節はもっと暑さに辟易するものだと記憶していたが、曖昧な記憶ではそれが正しい認識なのか、この島特有のものなのかは判断がつかない。


 だが少なくとも、今このささやかで心地良い思考とは似つかわしくない陰鬱とした雰囲気を、自身の背後から漏らし続ける“ソレ”は、間違いなく俺の認識するものと合致していた。


「なんでだ。なんで分かってくれないんだぁ……」


 褐色の肌に逞しい体つき。この季節の為に産まれたんじゃ無いかと言われても過言ではない“ソレ”は、教室に到着してから今までずっと、この季節に一番似つかわしくない雰囲気を周囲へ散布している。昨日一番に感じた印象は、一体何処で差し替えて来たのだろうか。


 事は昨日の放課後。滝崎がHRで不適切な発言をした件で、橘先生に呼び出しを食らった時まで戻るのだが。どうやらその時、あろうことか滝崎が先生に食い下がったらしい。

 やれ先生は自分の魅力に無頓着だとか、やれもっと肌を露出するべきだとか……聞いてるこちらの頭が痛くなりそうな口論を続け。挙句の果てには説教をしていた先生が折れてもコイツの熱弁は止まらず、説教が終るのを待っていた狭間達三名がかりで連れ帰ると言う始末。

 そしてどうやらコイツは、当の本人である先生に持論を認めてもらえなかったのが相当に効いているらしく。翌日の今になっても、怨嗟の様に鬱屈した言葉を吐き続ける。


「なぁ。お前だってそう思うだろ? 先生ならぶっちゃけ、制服着ても絶対いけるってさぁ!」


 背後から死霊の様に俺の肩を掴み、暗雲たる雰囲気の渦へと引きずり込む光景を、両脇の安全地帯から静観する四つの視線。

 そのうち三つは、実際にその面倒過ぎる惨状を体験した者の目で、最後の一つは朝一緒に話を聞いて、同じように辟易とした気分になった花音のものだ。

 誰しもが今の滝崎に関わりたく無いが為に、こちらに向ける感情は四者四様であれ、救いの手は差し伸べられる事はないだろう。


「止めろ。俺をそっちに引きずり込むんじゃない」


「なんでだよぉ。絶対!体操着や水着の先生は最高だって!」


「さっきと服装が変わってるぞ」


 確かに先生のスタイルなら何を着ても似合うだろうし、ボディラインの見える服装は、それこそ扇情的であるのは間違いない。

 だがここでそれに同意した瞬間。間違いなく俺はこの渦に絡みとられ、抵抗できぬままHRが始るまで溺れ続けるしか無いだろう。

 そして何より、それを見つめる視線のうち三つはその意味を変える。間違いない。


 俺は必死に教科書を開いて黙々と抵抗を続けていると、あろうことか肩の手は更に伸び、俺の体を抱きすくめて死霊の本体が背後に近づく。暑苦しい事この上ないが、なによりも男に抱きすくめられても嬉しくもないし、気持ち悪い。

 流石に引き剥がそうと、教科書を机に置いて滝崎の手を引き剥がそうとする。だが最後の抵抗と言わんばかりに奴は俺の耳元で囁いた。


「前によ、漆先生と飲んでる所に遭遇したときチラッと見えたんだよ。先生の下着!普段あんななりしてるけど、あんな下着つけてるんだから一度その気にしちまえばどんな服でも――」


「大変興味深い考察ですね、滝崎君。せ・ん・せ・い! にも詳しく聞かせてくれないかしら?」


 死霊の呪縛が弱まり俺は死者の手招きから解放される。だがそれと同じくして、部屋に現れた異常な気を発する鬼は、死霊の安否を気遣うが振り向く事を本能的に拒絶させた。


「ひぇ、ひぇんひぇい。おはようごじゃいまひゅ」


「おはよう滝崎君。昨日あれだけ言ったのにまだ懲りてないのね」


「ぢゃ、ぢゃっへひぇんひぇい、ほんひょうのこほ――」


 あいつは口でも押しつぶしでもされているのか、まともに聞き取れない発音で言葉を放つ。それに受け答える先生の口調だけは優しげで晴れやかなそれだが、その言葉に隠せずのる怒気は、背後を見ずとも今二人がどうなっているのかを容易に想像させた。

 反論を試みる滝崎の言は、そのつど鴨が首を絞められる様な声を上げて、言い切る前に遮られる。恵まれた体格のあいつの首を難なく締め上げるとは、見かけによらず橘先生は怪力なのだろう。


「君の“妄言”はどうあれ、女性に対して不適切な発言は看過出来ませんねぇ」


「ひぇ、ひぇんひぇい。まいくるひ――いや、やめないれ。むへが、むへがぁ!」


 そこから滝崎が机に倒れこむまでさほど時間はかからなかったが、倒れるまでの間に聞えてきた奇妙な単語と笑い声から察するに、首を絞められた状態に見合った対価を得る事が出来たのだろう。俺はそんな愚かな友人に、心の中で合掌した。





 校舎の裏手側。丁度昇降口のある正面とは正反対の位置に、学園が管理している花壇がある。花壇と言ってもその規模はかなりのもので、校舎裏を囲う様に広がる雑木林と校舎の隙間を埋める様に広がる花畑に近い。

 昼前の最後の授業時間にも関わらず、俺と後輩の籠目はそんな花畑の手入れ要員としてそこに足を踏み入れていた。


「籠目ちゃん。水をやるのってここにあるホースで良いの?」


「あ、はい。あっちの方は手入れがもう終ってるので、それで水やりお願いします」


 昨日教えられたのだが、この学園では授業時間の幾つかを島の雑務に割り当てている。日中の島の見回りや、定期便の物資受け取り。そして今やっている花壇の手入れもその内の一つで、HRで担当を割り当てられられた生徒が、授業の一環として作業を行う。

 先生曰く道徳の授業としてだそうだが、小さくとも最大人口十人と言う限られた人数では、この島を管理・生活する上で俺達生徒は貴重な労力源だろう。


「おや? もう来ていましたか」


 ホースで水を撒いていると、突然背後からしゃがれた声がした。振り返るとそこに立っていたのはスーツを着こなした痩躯の老人で、まるで何処かの館に仕えている執事を連想させた。

 老人は口髭を吊り上げて笑顔を向ける。笑い皺が見て分かるほどに多いその顔で挨拶され、こちらも思わず会釈を返す。初対面の相手を惹きつけるその風貌は、どこか懐かしく、安心と安堵を与えてくれる。


「おじいちゃん!」


 作業を止めてこちらを見ていた籠目は、手にはめた軍手に付いた土くれと草切れを払い落とすと、トテトテとこちらに小走りにやってくる。おじいちゃんと呼ばれたその老人は、籠目を見ると笑顔で細めた目を更に細め、嬉しそうに籠目を見つめる。二人は暫く世間話した後、再びこちらに体を向けて話しかけてきた。


「記憶喪失の事は漆先生から聞いているよ星崎君。私の事は覚えているかね?」


 申し訳なく頭を振る。俺の事を知っているであろう老人はそれを見て、構いませんよと笑顔で返す。


「では改めて――始めまして星崎君。私の名前は籠目かごめ アレン。この籠目島の管理と、君達の通うこの学園の学園長を任されている者です。今日は花壇の手入れを手伝ってくれてありがとう」


 恐らくこの島で一番偉く立場の高いこの人は、まるで敬う様に俺に頭を下げる。こちらはただ授業の一環として花壇の手入れをしに来ただけで、なのにこれほど感謝されてしまってはあまりに申し訳ない。

 必死で頭を上げて貰うように懇願すると、ようやく頭を上げてくれるが、その一挙手一投足が緩やかで、恐らく人を不快にさせる事から最も遠い人物なのだろうという事がよく分かった。


「作業も進んでいるようですし折角です。休憩を兼ねてお茶を振舞いましょう。星崎君とクリスは、そこの作業道具を片付けて手を洗って待っていて下さい」


「おじいちゃんお茶淹れてくれるの!? じゃあクリス何時ものお菓子も!」


 余程嬉しいだろうか、今にも尻尾を振りそうな素振りで学園長を見送る籠目を見ていると、こちらまで楽しみになってくる。俺達は指示された通りお茶の準備を始ると、戻って来た学園長が洒落たテーブルと椅子を設置し、まるで本当の執事の様にお茶の準備をする。


「――あぁクリス。すみませんがお菓子を忘れてきてしまいました。何時もの場所に作り置きがあるので取ってきて貰えませんか?」


「調理室の冷蔵庫だよね? 行ってくる!」


 準備が終わり、後は例のお菓子だけとなった所で、学園長が籠目にお菓子を取りに行かせる。籠目がまるでフリスビーを追い駆ける犬のように校舎に入っていく様を二人で見送りながら、彼は我が子にかける口調で籠目の事を楽しそうに語る。


「その――失礼ですが籠目と学園長は親子なんですか?」


 記憶を失って事情が把握できない俺は、不躾ではあるが先程から疑問に思っていた事を、籠目の居ない今の内に尋ねた。


 ここは孤児専用の島。親が居るのであればここに居る意味が分からないし、特別な理由でここに居るのなら、漆先生が説明してくれた時に一緒に聞いている筈だ。

 だが先程から見る学園長と籠目のやりとりは親子のそれで、この一緒に島と同じ名前の苗字なのも気になった。

 学園長は何も言わず用意した椅子の一つを軽く引くと、俺に座るように促す。俺はそれに従い着席すると、ポットから冷えた紅茶を目の前の用意されたティーカップに注ぎながら、それでは少しお話をしましょうと、話を切り出してくれた。


「まずは――私とクリスの関係ですね。星崎君が抱いている疑問は分かります。結論から言うと私とクリスに血の繋がりはありません。確かにあの子とは親子の様な関係ではありますが、それは此処に連れて来る前から私と彼女が同じ境遇で生きてきたからこそです」


「学園長も……孤児、だったんですか?」


 アレンで構いませんよ――そう言ってアレンさんは自分で注いだ紅茶を含み語る。

 彼の話を聞くと小難しい理由などではなく、孤児の時に同じく捨てられた籠目を拾い育て上げ、それこそ家族のように暮らしたのだとか。

 籠目と言う苗字は、やはりここに連れて来られた時に、島の名前を苗字として頂いたらしい。


「私はね星崎君。本当にこの島に連れて来られた事に感謝しているんです。だからこそ此処の管理人として立候補しましたし、この仕事を誇りに思っています」


「アレンさんは此処の所有者――雇い主とは面識が?」


「残念ながらお会いした事はありません。ですが私がここに居るのは、間違いなく彼のおかげでもあります。決して悪い人では無いと思いますよ」


 変わらぬ優しい口調で漆先生と同じ返答をするアレンさん。会った事も無いのにどうしてそこまで信頼出来るのだろうかと疑問が浮かぶが、アレンさんは俺が思慮する暇もないうちに、今度はこちらが質問宜しいでしょうかと切り出してきた。


「星崎君はこの島をどう思いますか? 私が言うのもなんですが、ここは何も無い島です。今時の子にとっては些か退屈でしょう? 不都合な点があれば教えて貰えると嬉しいのですが」


「そうですね……記憶を失っているのでここ二日程度の感想しか出せませんが、ここは良い所だと素直に思います。何も無いと仰いますが、自然は綺麗ですし住み心地は悪くありません」


 そう答えた俺をみて、アレンさんは本当に満足そうな顔でそうですか、そうですかと何度も頷いた。彼にとってその答えは相当に嬉しいものなのだろうという事が見るだけで伝わってくる。


「私の望みはね。この島を誰にでも好かれる素敵な島にする事なんです。星崎君がそう答えてくれる事が、私にとって最も喜ばしい事なのですよ――」


「おじいちゃん持って来たよーって、二人だけ先にお茶しててずるいよぉ」


「はっはっは。少しクリスのお話をしていただけですよ。クリスも星崎君には苗字でなく名前で呼んで欲しいでしょう?」


「えっ? あ、うん。先輩がもし良ければですけど……」


 先程まで抗議の声を上げていたクリスが急にしおらしくなり、テーブルの真ん中にお菓子をそっと置いて余った席に座る。確かに先程の話からすると苗字は島から譲り受けたものだし、何より学園長や島の名前と被ってややこしいだろう。

 そう思って名前で呼ぼうとした矢先――そのお菓子の赤い色が目に入った。


「――これ、は?」


「え? おじいちゃんが作ってくれたお菓子ですけど……ちょっと変わった形してますが、甘くて冷たくて美味しいんです!」


 力説するクリスを置いて俺は学園長を見る。彼が言うには、以前この島で採れていた果物を模した菓子で、強いて言うならこの島唯一の特産品だったらしい。

 今では実が生っていた木が枯れて残っていないとの事らしいが、俺は確かにこの表面がブツブツして赤い果物を何処かで見た気がした。


「これを、俺は以前食べた事が?」


「そうですねぇ、私個人からクリス以外の人物に振舞った事は今日が初めてですし。食べたとするならクリスから譲り受けるしか無いのですが……なにぶんこの子の好物で、誰かに分けるとは考え辛いですね」


「酷いおじいちゃん! 私そんなに欲張りじゃないよ! た、確かに誰かに上げた事は無いけど……」


 俺の目の前で二人が楽しそうに談笑する。だがその内容は、最早耳には入ってこなかった。


 未だにこれがなんなのか思い出せないが、二人の返答は俺の予想していた答えとは違っていた。これは決して美味しいものでも無いはずで、決して特産品になるような物でもない。寧ろ食用して良いはずの物ではなかったのではないか?


 脅えを訴え汗がうっすら噴出している手で、その丸くて赤い菓子を取る。菓子はとても良く冷えていて、本来ならこの暑さと紅茶に最適な菓子なんだろうが、予想していた生暖かさは無く、感触も“ソレ”とはあまりにかけ離れていた。


「せ――い? 先輩! どうか、しましたか?」


 女の子の声で強引に現実に引き戻される。気がつくと俺の肩はクリスの小さなてによって揺さぶられ、とても心配そうな顔でこちらの顔色を窺っていた。

 俺はそんな彼女に対して必死に取り繕い。これ以上心配をかけさせまいと菓子を皿に置いて保健室へ向かう為に席を立つ――が、そこまでが俺の煮えたぎった脳の限界だった。

 視界はホワイトアウトし、手足の感覚は宙を舞う。意識が途切れる瞬間に聞えたあの声は、果たして俺を心配した声なのか、それとも私の――


「――。貴方の望みはなんですか?」




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