第1話.離島
「――。起きて――」
覚醒前の余韻に浸る体に、優しい声が染み渡る。女性の声で懐かしくも初めて聞くその声は、未だ睡魔の沼に染み込んでは消えていく。
「――。もう起きて下さーい」
今度は声と同時に体が揺れ動く。間延びした声は未だに染み込んでは消えていくが、僅かな揺れはそれでも鈍化している体を徐々に鋭敏にさせる。
何処からか漏れてゆく光の筋に、目を焼かれながら重い瞼をゆっくり開けると。栗色の髪が光を含み、青い瞳の綺麗な女の子が目の前で笑っていた。
「お早う御座います。あーちゃん」
「……君は、誰だい?」
思わず漏れた声にしまったと思う。寝起きの鈍りきった頭では、ただただ素直な疑問を指す単語しか声に出ず、それに気付いた時には相手への配慮に欠けた失言を止める事は出来ず、彼女も驚いたのか目を点にし唖然としていた。
だがこちらが謝罪と訂正を求めるよりも先に、彼女は柔和な笑みを浮かべ立ち上がると、この部屋の窓らしき場所にあるカーテンを優しく開く。先程まで塞き止められていた光源は、熱をもって部屋中に広がり、見慣れぬ室内を瞬く間に鮮明化させた。
部屋にはパイプ製の机・積み上げられた本や本棚・洋タンス等の見慣れぬ家具。そして今も汗ばんだ体に風を送り続ける扇風機と、自分が上半身を起こし座っているベッドが、その存在を主張する様に色を取り戻し輪郭を浮き彫りにする。
「もー、あーちゃん寝ぼけ過ぎ!幼馴染の名前忘れるなんて、いくらなんでも酷いよー。私の名前は
彼女は私の眼前まで顔を近づけ、自己紹介と私の名前を口にした。自分の名前を心の中で反芻すると、確かに自分のものだという実感が湧いてくるが、やはり彼女の名前には聞き覚えが無い。私は彼女の肩を掴み少し遠ざけ、もう一度確りと彼女の姿を確かめる。ウェーブのかかった綺麗な栗色の髪は光を浴びて金に煌き、年齢は恐らく十七~八で、整った顔立ちは若く幼ささえ感じられる。着ている制服で学生だと推測できるが、その制服には見覚えは無い。夏服と思われる薄手の布地から見える健康的な肌は、女性特有の華奢な体系だが付くところには確りと肉が付いていた。
だが、どれだけ彼女を観察してもやはり見覚えは無かった。そもそも私にそんな年代の知り合いが居たのかすら思い出せない。何とか彼女の事を思い出そうと私が記憶の引き出しを引っ張り出していると、彼女が突然頬を赤らめて体をくねらせながら口を開く。
「あ、あのね。朝からこんな場所でそんなに見つめられちゃうと……」
「あっ――す、すまない!」
慌てて彼女の肩を確り掴んだ手を跳ね上げ、万歳状態のまま硬直してしまう。彼女も年頃なのだ。確認の為とはいえ、あまりにも配慮が足りなかった。
「き、昨日あんな事があった後だもんね!後で保健の先生にもう一度見てもらお?ご飯の用意は出来てるから、早く着替えて降りてきてね?」
耳まで真っ赤にして矢継ぎ早にそう言って逃げるように部屋を飛び出す彼女に、私は衣服の場所を確認する間も無く一人取り残された。今更彼女の後を追って聞く訳にもゆかず、ベッドから立ち上がり、仕方なく一番衣服のある可能性が高い洋タンスへと足を運び中を開く。
「これは……どうしたものか」
予想通りそこには幾つもの衣服が金属製のパイプに掛けられていたのだが、そのどれもが学生の制服や若い子向けのラフな私服で、私の見覚えがある衣服は一つとして存在しない。幾ら年老いたとはいえ学生の衣服を着れる程、体格も小さくは無いしそんな趣味も無い。とはいえ彼女に他の衣服を尋ねるにしては、今さっきでばつが悪く聞きに行く気にはなれない。
仕方が無いので一度袖を通してから無理ならば彼女に尋ねようと思い、地味めな服装に袖を通すと思いの外、と言うよりまるで私の為に用意されたと思う程にすんなり着用出来て驚く。
いや、そもそも先程から何かおかしい。寝起きであることを考慮しても、あまりにも体の感覚がずれている――軽過ぎるのだ。
何時も起きて感じる体の重さや倦怠感。思考から行動に移るまでの伝達速度の速さ等があまりにも違いすぎており、違和感の原因発見の為に思考を巡らせていると、呆けた脳は回転数を上げ咄嗟に自分の手足を確認する。
そしてやはりと言うべきか、そこには私の予想した手足は無く。皺の無い別人の様な手足が私の意志で動いていた。
怖くなって小走りに部屋を出ると鏡を探す。部屋を出るとやはりそこに見覚えのある風景は無く、何処か古めかしい建物の中だと言う事が分かった。
正面には自分の居た部屋と同じ様な扉に”かのん”と平仮名でかかれたプレートが垂れ下がり、右手には廊下が続く。さらにその先には階段が下へと続き、ここが上階だという事が視覚情報だけで理解できた。
鏡を探すなら一番可能性が高いのは洗面所だろう。私は小走りで、しかし僅かな恐怖に怯えながら下の階へと駆け下りた。
下に下りるとすぐ隣は玄関で先程の階が二階、ここが一階だと言うのが分かる。階段を下りてきた音が聞こえたのだろうか、先程の彼女が一階の奥にある一室から用意できた? と声が掛かる。私はもう少し待って欲しいと言う旨を伝えると、近場の扉から順に開いて、鏡探しを再開した。
応接間・トイレ、そして三つ目の扉で洗面所と風呂場を引き当てる。急いで鏡の前に立つとそこに映し出されたのは良く知る自分の姿。だが予想していた姿よりも数十年若い姿が、エンジンのかかり始めた脳を混乱させる。
「どう言う……事だ?」
私は半ば無意識に、先程彼女の声が聞えてきた洗面所の先にある扉に、手を掛け居間に入る。今は先程の失態を気にして弁明するよりも、彼女に問わなければならない事がある。
「もう準備できたの?あーちゃ――どうしたのその服?」
「すまない。今日は何年何月だろうか?」
青い空と白い雲。使い古された表現の新鮮な景色が、白色のカーテンを揺らめかせ顔を覗かせる。
入ってくる風が、扇風機等の人工的な風とは違う自然の心地よさを与えてくれて。今まで感じた事の無い日差しに、滲んだ汗が気化され一緒に運ばれる薬品独特の香りは、ここがそれらを取り扱う部屋だと訴えていた。
「それでぇ?説明と確認はこれくらいで満足かい?」
正面に座る女性がキャスター付き回転椅子にもたれかかり息を吐く。カーテンを揺らしていた風が、先生の黒いショートの髪と膝まで届く白衣を揺らし、ここが私の城だと誇示している様だ。
私――俺は小さく頷くと、先程までの出来事と先生からの説明を思い返す。
初めて出会った彼女、花音は。俺の様子が予想以上におかしいと感じると、すぐに俺を制服へと着替えさせ、朝食もとらずにここ『
部屋には島唯一の医師であり、同時に学園の養護教諭も勤める
先程までの二人の会話を聞いたかぎり。どうやら俺は昨夜、家の階段から転げ落ち盛大に頭を打ち付けたらしい。
その時も診察に駆けつけた漆先生により治療を受けたらしいのだが、診察結果は軽い打撲と脳震盪で、その場はそれで収まった――らしい。
先程から“らしい”が多いのは当然で。今の俺にはその時の記憶が無く、それどころか朝起きてここに到るまで、自分が知っている・覚えてるものが何一つとして無かった。
「大掛りな設備が無いからはっきりと断言はできんが、恐らく一時的な記憶障害だろう。症状が悪化するなら外部の医療施設へ搬送するが、今は忘れている事を説明して、それで暫く様子を見よう。精神科医では無いから自分が老人になる夢の件はわからんがな」
皮肉を言いながら、先生は俺に言い聞かせる様にしてここの説明を始めてくれた。
今居るここは『
辺りに視認できる他の陸地は無く。唯一外界との連絡手段は定期的に物資を持ち運ぶ為に存在する小さな定期船のみ。島も大きい訳ではなく、特に特産物等も無い。
何故こんな場所に人が住んでいるのか不思議に思うが。どうやら何処かの酔狂な富豪が島を買い取り。身寄りの無い子供達を育てる為に、大人達を教育及び管理人として雇い、出来上がったのが今の籠目島との事。
自分の事すら怪しい今の状況で親の記憶などある筈も無いが。どうやら自分は孤児らしく、隣に居る花音も俺と同じく孤児だとと言う事を暗に告げる。そんな彼女と目が合うと、少し寂しさの混じった笑顔で返してきた。当然だ、天涯孤独の身で辛くない訳がない。
「そしてここが、そんなお前らの通うこの島唯一の教育機関『私立籠目学園』だ。教師は私を入れて三人。私は医師兼保険室の先生兼お前らに生命の神秘を教える漆 麗華だ。以後お見知りおきを」
改め挨拶をし、わざとらしく椅子の上で仰々しい一礼をする漆先生は、顔を上げるとニヤリと笑う。つられて花音は息を吹き出すが、そんな大人の対応で返してくれた先生に、心の中で感謝した。
「それでぇ?説明と確認はこれくらいで満足かい?」
「えぇ、有難う御座います先生」
俺が恭しく頭を下げて礼を言うと、まだ爺さんが抜けてないね? と笑われる。気恥ずかしさに誤魔化す様に席を立つと、病人らしい注意だけ受け取って早々に保健室を後にしようとする。
「――さっきの話、なんだがな。実は私達も雇われているだけで、詳しい理由も育ったお前達をどうするかも知らん。そもそも雇い主に直接会って話も聞いたことも無いが……こんな手の込んだ酔狂を良しとする人物だ。この先どう選択しようとも、決してお前さんの悪い様にはならんだろうよ」
部屋を後にする直前。漆先生は俺を呼び止め少しだけ躊躇った後。まるで自分に言い聞かせる様な口ぶりで言葉を零す。
きっとそれは先の説明に対しての先生なりのフォローなのだろうが。俺にはまるで、そうであって欲しいと願う信徒のそれを彷彿とさせた。
古めかしい木造建て校舎の三階。幾つかあるうちの一室しか使われていないそこが俺と花音、高校生の教室だそうだ。
彼女に先導されて室内に入ると、そこには使い込まれた黒板と教卓。そして正面には、同じく使い古されたパイプ製の勉強机が部屋よりも小さな塊として六つ並び。四人の男女が往々に輪を作り談笑していた。
「みんな、おはよう」
「おー、おはようおはよう。なんか今日はやけに遅かったな?」
同年代として見るには随分ガタイの良い褐色肌の男。如何にもスポーツマンと言うイメージがピッタリな男子生徒が、花音の挨拶に返事を返す。彼女はそのままの流れで今朝のあらましを彼らに説明すると、様子を窺っていた俺の手を引き、彼らの前へと突き出した。
俺だけが新入生の面持ちで晒し台に立たされていると、彼らはそんな俺を見かねてか順に自己紹介をしてくれた。いの一番に名乗りを上げた先の男子生徒は、
「しっかし、階段で頭打って記憶喪失なんて馬鹿だなぁ」
「馬鹿だなんて酷いよ滝崎。考え方次第では、限られた人数しか居ない島で、記憶喪失者をこの目で見られると言うのは、ある意味レアな体験だよ。ありがとう星崎」
前髪で片目が隠れ、もう片方の目を細くして笑みを浮かべる彼は、悪態ともつかない礼を述べると
男三人でそんなやりとりをしていると、背後から柔らかな感触と共に声が耳元で鳴り響く。
「あぁ酷い、酷すぎるわ明人!私の事も忘れてしまうなんて。あの時囁いてくれた私への愛の言葉も、温かな抱擁も溶かす様な口付けも、全て忘れてしまったのね!」
壇上の役者が演技をする様にして降り注ぐ言葉の暴力に、記憶を無くした頭がもう一度真っ白になりそうになる。機能停止した脳では彼女を振り解く事も弁解の言葉も出ず、彼女のなすがままとなっていたが。先程まで見守っていた花音が突然騒ぎ出し、俺の背後から抱きつく女子生徒を無理やり引き剥がしてくれたおかげで、謂れもわからない責任から一時的に開放される。
「そ、そなこと。そなことし、してないでしょ⁉ なんて嘘つくのよ日真理!」
「やだなぁ。冗談、ジョーダンだってばぁ。もうこんなに真っ赤になって、可愛いなぁ~花音は」
金髪に青い瞳。見るからに健康的で活発的な
そんな光景を見ていて、ふと制服の裾を引っ張られる。目を向けると、そこには皆より二周りほど小さい体格の少女が心配そうにこちらを見つめ、小さな声で呟いた。
「ほ、本当にお体は大丈夫なんですか? やっぱり今日はお休みになられた方が……」
「あぁえーと、心配してくれてありがとう
この島に現在居るのは生徒数は六人。うち五名が同学年であり、残り一名が二つ学年の違う生徒で、目の前に居る銀色の髪が綺麗な少女がその生徒、籠目 クリス。
その細く掴めば折れてしまいそうな体つきや、体と同じく小心気味な性格で、実際の年齢よりも幼く見られがちだが。俺達と二つ三つ程しか変わらず生徒数が六人と言う事もあり、同じクラスの生徒として学んでいるらしい。
そんな彼女がこちらを気遣ってくれたのが嬉しかったのか、無意識に親が子供を褒める様に頭を撫でていた事に気がつくと。朝の花音とのやり取りを思い出し、すぐに撫でる手を止め朝と同じ様に謝罪した。
だが彼女も満更では無いらしく。構いませんよと、照れた顔で俺の手を両手で掴み、逆に続きの催促をされてしまう。
「はーい、皆席について。HR始めるわよー」
暫くクリスの頭を撫でていると、よく通る声と共にジャージ姿のメガネを掛けた大人の女性が、引き戸をガラガラと鳴らし教室に入って来る。声に素直に従う皆の状況を察するに、あの人が漆先生が言っていた教師の一人なのだろうと推測できるが、やはり顔を見ても名前やどういった人物なのかは思い出せない。
六つの机のうち真ん中がコンコンとノックされ、滝崎が椅子を引いて目配せしてくる。どうやら俺の席はそこらしく、滝崎は俺が席についたのを確認すると、丁度真後ろにある自分の席へと腰を下ろした。
「さてと。今日の掃除当番や受け取り係とか色々あるんだけど、まず先に星崎君の件ね――皆はもう知ってる?」
俺以外の全員が一様に頷く。花音を筆頭に全員の自己紹介は済ませた事を伝えると、先生は感心感心と言わんばかりに頷いて言葉を続ける。
「じゃあそうね、折角だから先生の自己紹介は他の誰かにやって貰おうかしら?」
そう言って先生が誰かを選ぶ間も無く、後ろで首筋にかかる程の風圧を感じる。振り返ると、滝崎の手はまるで旗を掲げる鉄柱の様に真っ直ぐと伸ばし、先生を見つめる真っ直ぐな目は、俺を指名してくれと言わんばかりにものを語っていた。
先生は苦笑混じりに滝崎を指名すると、まるで軍人の様に颯爽と立ち上がり、先生の自己紹介を胸を張って声を張り上げる。
「名前は
「滝崎君も、記憶喪失になりたいのかしら?」
眼鏡ケースが滝崎の耳を掠めて教室の壁に激突し壊れ飛び散る。ケースの惨状を背後で感じ取ったのか、先程とは打って変わって銃口を突きつけられたチンピラの様に両手を挙げたままゆっくりと着席した。
前を向きなおると、壇上では全力投球により肩で息をし、乱れた髪は橘先生の顔を隠していた。だがその窺い知れない顔を見るまでもなく全員が彼女から溢れ出る殺気を感じ取る。先程の説明にあった温厚とはなんだったのか。
「――さて、それじゃあ改めて紹介も終ったところでHRを再開しましょうか」
満面の笑みで発する命令に俺達は囚人の様に従った。
授業が終わり下校時間。昇降口を抜けて外に出ると、日中ほどの射す日差しはそこには無く。弱る熱気を吹く風が洗い流し、赤い光が校舎の前に広がるグラウンドを照らす様は、何故か焦燥感すら感じてしまう。
「滝崎君はもうちょっとデリカシーを学ぶべきだよ。あーちゃんもそう思うでしょ?」
「あぁそうだな。まぁインパクトのある紹介で忘れられそうも無いけど」
滝崎は朝の件で橘先生から呼び出しをくらってまだ校舎の中で、花音と俺以外は滝崎のお説教が終わるまで待つとの事。俺達も待つと言うと怪我人が無理するなと帰されてしまった。なんだかんだで島の皆から心配されている様で、その言葉に甘える事にした。
花音と他愛ない話をしながらと同時に、一人で帰れるほど見覚えが無い帰り道を覚えながら、二人で新鮮な景色を堪能して歩く。
朝の掛札や状況を考えれば思い至るが、花音とは一緒に住んでおり。俺達はここに連れて来られる前から一緒だったらしい。
彼女が言う幼馴染とは正確な意味では無いが、確かにこの島では一番馴染みがあるのだろう。そんな馴染みある見覚え久しい彼女と二人で、初めての道を歩いて進む。校舎は他より少し高い位置に建てられており。学園の敷地を抜けて暫くすると、この島を一望できた。
人気は無く人工物よりも自然が多い島。何も無いが、それ故に心惹かれる景色が心に映り込む。
「――ねぇあーちゃん。この島綺麗?」
「そうだな。覚えてないからだとしても綺麗だと思うよ」
それを聞いた花音は、まるで我が事の様に嬉しそうに微笑む。景色に混じるその笑顔と、夕日に照らされるその姿は。先程よりも眩しくて、ただただ言葉を失った。
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