2‐3
ニコラス・ヴローコヴィチ・ゴリツィンは帰路にあった。なんだかんだで旧知であるウィリアム・タスカーとは外界の現況報告も兼ねた世間話で盛り上がり、そこで彼から得た情報を元に通達の必要があると踏んだスペイン支部へと足を延ばした帰りである。その旨は伝えたものの、結局丸一日掛かってしまっていた。
とは言ってもその道程はほんの一瞬である。主であるソフィア・アウグストの描出する多点同時展開型の風景画術『隠遁者の回廊』へのアクセス権を当人から得ているため、地球上のどこに居ようと本拠地である館の一部を呼び出せるからだ。白い大理石を用いて優雅なアーチを組み合わせた階段は、両側に偉人たちや天使の彫像が並び立ち、高い天井には巨大な聖書の一端を示した天井画が描き込まれている。竜を象った燭台を含む荘厳な金箔装飾が夜闇を煌々と照らし、空間全体に輝きを与えていた。もう何度この階段を抜けてきたか分からないが、その『美しさ』への感動が色褪せることはない。ロシアバロックの極致と言うべきこの建築を代々再現し続けてきた当主にこそ、美の何たるかを語る資格があると実感させられる。
二階に上がると、開け放たれた重厚な扉とその奥に広がる深紅のビロードで彩られた空席の玉座の間が待ち受ける。しかし彼はその扉を一度完全に閉じると、「冬宮へ」と呟き、再度重々しい動作で両板が開き終えるのを待った。
「……わぁ、このゼリーみたいなものはなんですか?」
「うむ、これはストゥジェニと言ってな、ひき肉が入った肉のブイヨンの煮凝りだ。ちなみにこっちは塩漬けのオンドリだな。ショウガが入っているのが好きなの
だ」
何やら和気あいあいと歓談しているのが聞こえてくる。食事中のようだった。というよりたった一日少々で随分と打ち解けたものだ。
(それにしてもストゥジェニにオンドリとは……外国の方に随分と強気のメニューをお出しになる)
無難に海外でも定評のあるボルシチやピログ辺りにしておけばと思ったが、一応コックの判断は通しているはずだから彼らの手腕に期待しようと心に決めた。壁際に控えたドアの片方、獅子の金細工で象られたドアノッカーを控えめに叩いてから膝をつく。
「ご歓談中に失礼致します。ニコラス・ゴリツィン、只今帰参致しました」
広がる室内は一重に黄金だ。壁全体に金箔が貼られ、一体となった柱は天井に掛けて優雅なカーブを描き、計算し尽されたモザイクの配置に立体的なアクセントを加える。バルコニーへのガラス戸を覆い隠す紅い垂幕で屋外と隔てられた内部を照らすのは、百を超える蝋燭が灯る豪奢なシャンデリアだ。華美ではなく、過飾ではなく、一つの美的精神によって統一された世界がそこにはあった。長大な食卓に饗された料理を二人だけで囲む図は少々物寂しい感があったが、その上座からソフィアは元気よく立ち上がって手を振った。
「遅いぞ! 何をしていた!」
「申し訳御座いません。ですが、少々ソフィア様のお耳に入れたい事柄が。勿論、晩餐を終えられた後で構いませぬ」
「では後だ。さっさと席につけ」
姿勢を戻して深く一礼して先客の対岸に向かうと、控えていた給仕が背もたれの高い椅子を音も無く引き、彼はそこへ座した。ソフィア様と同じものを、と耳元に告げると、給仕は下がり、すぐさま頼んだメニューが並んだ。
「ソフィア様、よろしければこちらのご令嬢を私めに紹介して頂けませんか」
せっかくの空気を台無しにしてしまった自覚のあるニコラスは、(実質的)年長者として会話の輪を成立させるべく、遠慮がちになっていた客人に微笑んだ。
「ホナギ・ミカゲだ。東京支部の者なのだが、ホナギは凄いぞ、イレズミという素晴らしい画術を持っている! そして何より飲みこみが早い。既に我らの宮廷料理の一端を再現しつつある!」
(ミカゲ……三影家の人間か?)
その名は欧州でも同業者――すなわち仕事人系の家柄だ――の間では通る名だった。確か筆頭画術師が一子相伝で受け継いできた歴史的にも貴重な画術を伝えていたはずだ。彼女がその伝承者だとすればかなり若い。ソフィアと違って見た目と年齢が一致していないということも無さそうだ。傍目から見ても美味しそうに切り分けられた鶏肉を咀嚼する少女はごく普通に見えるが、作為的にやっているのだとしたら大したものだ、と彼は適当な想像を一笑に付した。
「ほう、それは大したものですな。料理がお得意とあれば、ソフィア様とお話も合うでしょう。かなりの美食家でいらっしゃいますからな」
「い、いえいえ! そんな大したことは……! 少し作り方が気になったので、無理を言ってコックの方に教えてもらっただけで……」
「私としては当方の料理が口に合ったというだけで嬉しいものですよ。食文化とて立派な芸術の一部であるからして」
「その通りだ!」
鼻息荒くフォークを持ったままの片手を振り上げたソフィアは、揚々と瀟洒な食膳を見渡した。
「これも我らが誇る芸術の一つの形! その光景、味や香り、雰囲気を味わい、己の血肉として伝える事が識る者としての使命に他ならん! ゆえに、存分に愉しむといい! それがまた我らの美の糧となる」
ちゃんと手を止めて相槌を打っているところ、根が素直な子なのだろう。そう感心しながら彼も好物の煮凝りを口に運んだ。
「それにしてもソフィアさまはすごいです、画術で作られた料理なんて初めて食べました……」
続いて運ばれたウハー(魚介のスープ)を味見していると、歩凪がいたく感激した様子でそれを眺めていた。普段から常食しているとこの食事方法が一般的でないとつい忘れてしまうが、その通り、これは実は大変稀有な例なのだ。
画術で食べ物を得る。これもまた古来から研究開拓が続けられてきた大きなテーマの一つだ。一言で言ってしまえば、これは数多ある術式の中でも最上位の難度を誇る。例えば、写実法で一つのリンゴを描出したとする。これを食べることは勿論できる。ちゃんと再現が成されていれば味もするし、食感もそのままだ。しかし、大半は喉元を通り過ぎた時点で消えてしまう。つまり、消化される過程が術式に含まれていないのだ。言い換えれば、その部分をイメージできていない。ただ食べ物が消化される様子をイメージできるような変人はそういない。だから『食べた』という行為止まりで、ちっとも腹が膨れないのだ。
ではどうするか。一般的なのは抽象法を用いて、「食べるもの」と概念づけた状態で食物を描出することだ。これならば理屈は抜きにして食べればそれは食物としての役割を体内で果たすことになる。しかしこれは口で言うほど簡単ではない。写実法のように成分を指定してしまえば味や香り、食感は比較的簡単に再現できるが、抽象法の場合は全てイメージ頼りだ。更に根本的な問題として、画術を消化吸収の段階まで維持し続けなければならない(排出の部分はイメージから省いておくとその段階で勝手に消える)。これらの問題で、消費される画力と体力を考慮すれば全くコストパフォーマンスが釣り合わない。普通に食事をした方がマシだと言われる始末である。
ところが今自分が食べている料理たちはその更に上を行く。ソフィアは基本的に全て食材の段階から再現を始めている。このスープであれば、サケやスズキなど複数の川魚に玉ねぎやパセリ、ベイリーフなどで作ったスープにニンジンやジャガイモなどの野菜、チョウザメのフィレなどを加え、最後にハーブやスパイスで整えている。これらの細々したもの全てを一つ一つ丹念に描き出し、それをコックに調理させているのだ。食材の性質を完全にイメージできていなければ出来ない芸当であり、しかもそれがフルコース全てに及ぶとなれば考えるのも馬鹿らしくなるほどの並列描出になる。
「世界を探しても食材レベルから料理を描き出せる画術師はそうおりませんからな。そしてそういった人間は大抵高級料理店を開業している事が多い。そう日常的に食する機会もないでしょう」
当の本人はふふんと自慢げに目を伏せてスープをすくっているが、こればかりは誰もが手放しで賞賛せざるを得ない。こと芸術において価値観の相違から来る批判は茶飯事だが、食事に関しては味と同等に製法が重視されるからだ。
「私の回りではこういうふうに画術を使う人が少なくて。とても新鮮に感じます!」
それは恐らく何の他意もない、本心からの言葉だったのだろう。しかしそれを耳にしたソフィアは手を止め、ナプキンで口元を拭った。その目はどこか寂しげであった。
「――そも、画術とはこういうものなのだ。己が琴線に触れた事物を芸術として表現し、信ずる美の在り方とともに世に残す。……昨日、館の作品を見せたであろう。あれは我がコレクションのほんの一部に過ぎぬが、それでもその一枚、一個がその美の爪痕を残さんとして創り上げた芸術家たちの足跡なのだ。それらは彼らの生きた証そのもの、だからこそ我はそれを画術で再現し、敬意を払う。この宮殿とてそうだ。美しきものはただ美しい。それだけで存在するに足る。理由などいらぬ、実用を求めるなど言語道断。それをブラッシャー共は分かっておらんのだ……‼」
小さな握り拳が食卓の端を叩きつけるのを、ニコラスは世間体と信念の狭間から見守っていた。自身が主と仰ぐ人物が静かな憤りを込めて語るのを。
「だからといって改派の連中のように画術を武器として取ってしまえば同じ穴の狢だ。それでは守るべき画術の在り方を自ら汚してしまう。それで勝ち取った結末など、何の価値も有りはせぬ。事の本質も忘失し戦に耽るなど……我は断じて許すことなど出来ん」
(素晴らしい)
素晴らしい、と彼は思った。これがソフィア・アウグストだ。世界にその名を轟かせるトリニティの一柱だ。これこそが、我らが信奉するに値するサンクトペテルブルクの威光だ。永劫に幼くあり続けることを定められた少女に、万雷の喝采が送られて然るべきだと再認した。人目が無ければ、年甲斐も無く涙したことだろう。
(殿下――。ソフィア様はご成長なされましたぞ。その身体と精神が止められても、殿下の遺志を、指導者の器を、確かに引き継いでおられる)
このまま感慨にふけるのも悪くは無かったが、ここは客前だ。賞賛の言葉は機会を見るとして、ニコラスは自身の役割に徹することにした。
「ソフィア様」
「……む。熱くなりすぎた。少し外す。後は頼むぞ、ニコラス」
「御意に」
無音のままに立ち上がり片手を胸に当てた略礼で応じると、主が部屋を退室するまでその姿勢を維持した。次にハンドサインで給仕を呼び寄せると、料理を下げさせるように指示し、メニューを進めた。いざ席に戻ってみれば、反対側に座した少女は今にも泣き出しそうな表情でこちらを窺っていた。
「あ、あの……わたし、失礼なことを……」
「お気に召さるな。非礼と言うなら我が主の方に責がありましょう。あれでいて子供ですから、まだまだ自身を押さえきれない所があるのでしょう。ただ、主にも立場と言うものがございましてな。それを如何なる時も貫き通さねばならないことは、ご理解頂きたい」
なるべく柔らかい口調を心掛けたつもりだったが、それが功を奏したのか少女は制服の袖口で涙と悲壮をふき取った。
「さて、少し早いですがデザートと参りましょう」
助け舟として呼んだ一皿と一杯が二人の元に到着し、彼はそれに便乗して場を作り直すことにした。
「パスチラー、という焼き菓子です。ロシアの伝統的な菓子ですな。ああ、飲み物の方はクワスというのですが、少々アルコールが効いておりましてな。お飲みになれますかな? 別のものも用意できます故、ご遠慮なく」
「大丈夫です、家の行事で日本酒を何度か……。いただきます」
「日本酒、いいですな。私も外交の席で口にして以来、すっかり気に入ってしまった。ソフィア様にも是非製法を学んで頂きたいものです」
軽く笑い飛ばしてみせたが、どうやらまだ彼女の名を出すのは逆効果だったようで、歩凪の表情に影が差した。
「タイラーさんの『霧の街』に触れて、分かったはずだったんです。画術がどういうものなのか。……わたしは今まで、画術を道具としてしか見てこなかった。わたしが身に付けたものは、画術の正しい姿からはかけ離れたものだったんだって、そう、思えてしまって」
「それは勘違いですぞ。歩凪殿」
喉を通るクワスからハッカの透くような香りが込み上げる。この清涼感が今は何とも心強い。この勢いに身を任せられるのが良い所だ。
「ソフィア様は道具としての画術を否定された訳ではありません。画術を道具として使うことを否定されたのですよ。貴女の画術は、確か刻印術式でしたな。何時から伝わるものなのですかな?」
「確か、安土桃山の後期から……1600年前後だと思います」
「なんと。400年を超える歴史を持っている画術など、我が国なら国宝級ですな。一生遊んで暮らせますぞ。……冗句はさて置くとして、歩凪殿のそれは武芸と呼んで差し支えないものでしょう。そして現在も実戦に耐えうるほどの完成度を持っている。元より道具として創られた画術は、洗練された独自の美しさを持つものです。ウィリアム卿もおっしゃっておられました、貴女の画術は美しかった、とね」
「でも、どこまでいってもこれは道具でしか無くて、皆さんのような美しさを表現することは……」
「敢えて厳しい言い方をすることをお許し願いたい。それこそ愚考というものです。美しさに貴賤は無い。ウィリアム卿や我が主の描く世界は確かに最高級の画術と言っていいでしょう。しかし、それは独立した評価です。世界のどんな優れた画術師でも、貴女の極めた画術の形を超えることは出来ない。その美しさは貴女だけが持ちうるものだ。貴女だけが表現し得るものだ。それを自ら貶めることは、長きに渡って伝統を守り抜いてきた先人に、何より貴女自身の才覚と努力に泥を塗る行為ですぞ。そのような事は決して成されるな」
またソフィア様がお怒りになられます故、とソフィアが去った扉を指して肩を震わせた。かじったパスチラーの甘酸っぱい酸味が主からの無言の反撃として口の中に広がった。リンゴよりクランベリーなどベリー系の酸味が強いのが彼女の好みなのだ。
「……老骨が偉そうな事を申しましたな。今夜はこの辺りでお開きに致しましょう。――案内を」
「ニコラスさん」
執事然とした二名の女性に寄り添われながら、歩凪は思い立った言葉をぶつけることにした。悩むより吐き出しておいた方がいいこともある。理性と感情は別物などということは、画術に親しむものなら誰でも知っている。
「何でしょうかな」
「ありがとう、ございました」
「……、いやはや。どういたしまして、と申し上げましょう」
一瞬毒を抜かれたような相を浮かべ、老いた画術師は略礼をおくった。図らずもそれは心からの返礼となった。無論、少女への敬意を抱いていないわけではなかった。しかし、ウィリアム・タイラーが気まぐれを起こすのも何となく理解できたのだ。
「こちらにおられましたか」
広大な謁見の間において、最奥で構える威圧に満ちた大きな王座が強制的に来訪者に畏敬の念を抱かせる。その大きさには不釣り合いに小さな少女は、しかし歴年の辛苦を経た老王に似たアンニュイさをもって片肘をついて白磁の頬を支えていた。
「ホナギはどうした」
「大浴場にお連れしました。案内の者を数人つけておきました故」
そうか、と短く返してまたソフィアは黙り込んだ。それが何に由来する不機嫌なのかは大体察していた。そのうえで職務を優先しなければならないことを知っているからこその沈黙だと、ニコラスはあえて主の文脈を無視することにした。
「改派の動向ですが。マドリード支部の報告に興味深いものがありました。ここ数年で沈静化していたとみられていましたが、どうやら水面下で大規模な計画を進めていたようですな。ところがウィリアム卿の報では霧の町への接触はそれに反して増加していたと。想定以上に、改派に同調する支部が増えていたようで」
「……あやつもその一派だと言いたいのか」
「ご本人にその自覚があるかどうかは分りかねますが、十中八九そうでしょうな。東京支部は以前より中性的な立場でありました。日本の情勢を鑑みれば致し方ないことではありますが」
気だるげといってもいい彼女はその態度のまま、壮麗な玉座の上から透徹たる眼光を宿していた。意図して身にまとっているものではない、生来の気質がその席に座するに相応しいもの足らしめている。
「消すのであれば、我がーー」
「いえ、御手を汚すには及びますまい。自浄も兼ねて、彼女の家には利用価値がある」
「……いいだろう。おまえに一任する」
ニコラスは短い時間の間に三影の周辺事情について洗い出していた。その家の体質も、共存関係にある伊勢家の存在も。その上で、彼は近いうちに起こるであろう事態に対して布石を手に入れたと判断した。このような謀略は主にはさせまい、と彼は老婆心ながら考えた。お節介と言われようとも、彼女の純粋さを些事で濁らせるわけにはいかない、と。
「我は間違ってなどいない」
「その通りでございますとも」
主従は意味のない、しかし信頼の証となる言葉を交わして、互いのあるべき場所へと歩き始めた。その力が、意志が、動かすものの重みを十全に受け止めながら。
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