9.

 剣の道を志したことは一度もなかった。わたしにとって剣とは振るうものではなく、象徴だった。


 切り裂き、断ち切り、切り捨てるもの。力の権化。そういったものだった。そういうものなのだと、教えられてきた。

 もちろん、剣道に似た基本的な型や立ち居振る舞いといったものは身に着けてきた。しかし、それらは勝負に勝つためのものではなく、『刀』という物体に慣れ親しみ、理解するためのものだった。


 伊瀬家には奇妙な風習がいくつかある。その一つに、まだ小学校に上がったばかりの子供に帯刀させるというものがあった。与えられた一本の刀は、常に肌身離さず携行することを厳しく言い渡される。そして『絶対に抜いてはならぬ』と教えられる。

 わたしも女子だからと言って例外ではなく、ほんの子供には重過ぎる鉄の塊を引きずるようにして歩く日々が始まった。画術のための道具だと言い、学校にまで持ち込んでいくことになってからは気が重かった。クラスメイトの珍妙なものを見る視線に耐えなければならなかったし、何よりいたずらに刀を抜こうとする男子たちから守り抜かなければならなかったから。


 ようやくその重さにもなれ、持ち運びもスムーズにこなせるようになってしばらくたったある日。中学校に上がって二年目の頃だ。実家の道場で留守番をしていたところに、風変りな服装をした一団が、無許可に上がり込んできた。父親の客人かと思ったが、どうやらそうでもない。天井裏を移動し梁の上から遠目に伺っていたおてんばな私は、こっそりと警察へ連絡した。

 彼らは何をするでもなく、家の中をうろうろと歩き回った。そして私の部屋に入ると、何やら日本語ではない言葉で会話を始めた。すると突然、何人かが部屋から駆け出し、足音も荒々しく離れの寝室へと向かった。そこで初めて、私は焦り始めた。あそこには母がいる。このまま何もしてくれなければいいが、雰囲気の変わった彼らからは嫌な予感が漂っていた。悟られないように物陰を伝いながら彼らの後を追うと、そこには最も危惧した光景が広がっていた。

 何人かが床に就いていた母を取り囲み、何かを言い合っている。傍目に見ても穏やかではない剣幕を前に、しかし病を抱えた母は泰然とした態度を崩していなかった。さすがお母様、と状況も忘れて感心したのもつかの間、そのうちの一人が懐から銀白色のものを取り出した。それはどう見間違えることもない、拳銃だった。

 不敗とは負けないことではない。負けそうな戦いを見極めて回避することだと父は言った。わたしはそのことを幼心にも理解していた。だから、その時のわたしは勝機だけを信じて疑わなかったのだろう。気づけば身体は天井床を駆け抜け、梁を飛び降り、壁を蹴って畳の上に着地していた。母を背にして、彼らとの間に立ちふさがるように躍り出た。

――いかなる時も、得物を抜いてはならぬ――

 厳格な祖父の声が脳裏にこだました。そのとき初めて、抜けない刀に一体何の意味があるのだろうと考えた。

 唐突に表れた闖入者にたじろぐこともせず、ただ冷静にこちらを観察する彼らを見返し、納刀をかざすだけの脅しでは足りないと確信した。

 不思議と、手に迷いはなかった。背後で母が何かを呟いたが、その言葉は覚えていない。手早く帯紐をとき、片手を鞘に添える。空いた左手を柄に掛け、刀身を見せつけるようにしてゆっくりと引き抜いた。それが生まれて初めて抜刀した瞬間だった。


 そしてその瞬間こそ、間違いなく人生で最大の驚愕を味わったときでもあった。


 質素な黒塗りの鍔から伸びる断絶の象徴は、最高の相棒のように心頼りにしていた重さの持ち主は、どこにもなかった。わたしが力強く構えた刀には、刀身がなかったのだ。つまり、ただのはりぼてだった。柄だけでは鞘に引っかからないじゃないか、とか、刀身がないのに真剣同様の重量があるのは変だ、などと考える余裕はなかった。ただ、自らが10数年を共にした一振りが抜け殻であったという事実だけが、私の心を突き貫いていた。

 母を守ろうという気概すら忘れ去り、茫然と柄だけの刀を構える哀れな少女を目前にして、なぜか彼らにも動揺が走っていた。数人が互いに呟きながら顔を見合わせると、潮が引くようにその場から引き揚げていった。

 それでもなお胸中に渦巻いていたのは、助かったという安堵ではなく、得も言われぬ喪失感だった。その場にへたりこんでしまった私は、襲撃にあった母よりよほど憔悴していた。

 外で警察と合流したのか、警官と父親たちが離れにたどり着いたのは、それから数分が経ってからのことだった。


 後日になって、私は祖父のいる奥まった部屋に一人で呼び出されていた。

 やはり、禁を破って刀を抜いてしまったことを咎められるのだろうか。しかしあれは真剣ではなかった。抜くも何もなかったのだ。

 畳の上に座した祖父の姿はいつも通りに厳格そのもので、自分と大して変わらぬ小さな体躯にもかかわらず、異様な存在感を放っていた。

 鞘を、と彼は言った。鞘をよこせ。

 それはわたしが最も危惧していた一言だった。しかし、それ以上に眼前で正座をする矮躯の老人が怖くてたまらなかった。震える両手で見せかけの帯刀を差し出す。すると、祖父はおもむろに立ち上がり、右手を払う動作をした。鞘が真ん中から両断された。

 わたしはその時、声にならない呼気だけの悲鳴を上げた。これが罰なのだろうか。掟を守り切ることが出来なかった未熟者を切り捨てる、祖父の意志なのだろうか。そう考えると、生まれの家から捨てられたような気すらした。その影響もあってか、同じ声調で続けられた彼の言葉を理解することが出来なかった。

 ――

 刀を抜け。祖父はそう言った。わたしは訳が分からず、聞き返すこともできないまま、その場で硬直した。

 ――

 祖父は繰り返した。わたしはうっすらとにじむ視界に割れた鞘を収めた。もう自分の刀は無い。完全に失われてしまったのだ。なのに、どうして刀を抜くことが出来るだろう? 

 持てる知識を総動員して出した答えが、画術によって刀を描き出すことだった。まだつたない抽象法を繰り、必死に身体の一部のように馴染んでいたその鞘を思い起こした。やっとのことで一刀が実像を結んだときは、嬉しさに泣き出しそうになった。が、祖父はそれを同じ動作で切り捨ててしまった。


 わたしは刀を抜けなかった。誰に会うことも許されず、広い畳部屋に一人閉じ込められて二日が過ぎた。万策尽きたかのように思われ、朦朧とし始めた思考で刀のことを考えた。

 刀とはなんなのだろう。

 そう自問して、はたと思考が停止した。鞘の中に刃が収まっていると信じていたころ、わたしは刀に何を考えていた?

 

――剣とは振るうものではなく、象徴。

 切り裂き、断ち切り、切り捨てるもの。力の権化――。


 薄明りの部屋の中、わたしは呟きながら立ち上がった。そして祖父がしたのと同じように、しかし勢いをつけて、左手を払った。

 わたしの左手には、鞘ではない一本の抜身の刀が握られていた。その研ぎ澄まされた輝きを刀身に灯して、全てを断絶する力が。

 刀を抜くとは、実際に刀を握ることではない。刀という概念を手にすることだったのだ。背後から人の気配がし、振り返ると祖父がいた。その表情は読めなかったが、わたしの出した解答が誤りでないことを言外に告げていた。代わりに老いた口が動いた。

 その意図するところに、今度は迷わなかった。わたしは手にした刃を振りかぶった。

 人が歩くのに足刀に刀身など要らないのだ。



 

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