第4話

13




少し眠りにつきたい。休息が欲しいから。

何もかも、イヤなこと、ツライこと全て忘れて、眠りにつきたい。

この左の手首をこの銀色に輝く刀で切って、透明な冷たい水の中へ沈めたのなら

眠りにつけるのだろうか。

この赤い赤い水は

わたしに安らかな眠りを約束してくれるだろうか。

もう、誰にも邪魔されたくはないから。

ここは深く永い夢の果て

この永く暗い夢から目覚めたとき。

一体、わたしには何が見えるのだろうか。



14


 男は煙草の吸い殻を足で踏み潰しながら静かに口を開いた。

「君の妹の和子さんは今、病院にいるね。精神科の・・・」

「ああ、和子?あいつ、あいつ狂っちまったんだよな。」

 少年はわざと惚けたような口振りで

「ふんっ!なんでかなァ。」

 冷たい瞳を見開いて暗い口調で呟いた。

「いつだったか、今日みたいな雪の降る日だった。あいつが手首を切ったのは」

「和子さんは何故、手首を切ったのかね。」

 少年は口の端で馬鹿にするような微笑みを漏らしていた。

「知らね。欲求がたまってたんじゃねぇの?」

 少年はうす気味が悪くニヤリと笑って見上げた。

「君は、彼女を強姦したね。それも、一度ではなく」

「ああ、そりゃ何度かね。僕はただもやもやとした欲求を晴らしたかった。だから抱いた。それの何が悪い?」

 男は嫌悪感と憐憫の交錯する感情の中で溜め息をつき、

「君の実の妹だよ。彼女は。」

「はは、関係ないね、そんなの。それにさ、いつも一緒にいて、抱きたくなったらいつだって。・・・一番都合がいい相手、だろ?当然。」

 少年の表情の中には罪悪といった感情ののかけらも見あたらなかった。開き直っているというよりもむしろ、罪という感情を知らない、否、当り前のことをしたような顔、だった。

 男は吐き捨てるように呟いた。

「都合がいい、ね。」

「ああ、そうさ。それにさ、禁じられてるからこそ、燃えるもんだろ?遊びってさ、ねぇ?」

「・・・・」

 男の苦しげな顔に気付く風もなく、少年はいかにも面白そうな秘密の遊びを囁くときのような笑いを含むように話を続けている。

「あいつさー、すげー嫌がって。こっちはさ、喜ばしてやろうと気持ちいいこと、してやってるはずなのに、ちょっとぐらい、いいじゃないか。」



15


 ここは病院の一室。

 ベットの上で真っ白な布切れに包まるようにして戯れている小さな女の子。

 その子はかの少年の妹。何一つ汚れのない無邪気にただ、ただ遊んでいる。

 色のないドアの前に青白い顔をした母親が立っていた。母親は鬱気味の弱々しい声で少女へ云った。

「・・・お兄ちゃんがお見舞いに来たわよ。」

 妹はベッドの上でうつろな眼差しを母親の背後に立っている少年・・・兄へ向けた。

「きゃははははは〜!」

 妹は突然、狂ったようにけたたましく笑い出した。

 母親は悲しげに彼女の名を呼んだ。しかし返答はない。

 妹はしばらく笑っていたかと思うと、突如、周囲のものを少年へ投げ付け、激しく泣きわめきだした。

・・・そして威嚇。

「出て行けぇ!!お前なんてっ!このケダモノ!!出て行け!!お前なんてヒトじゃない。出て行け、出て行けっっ!!

 そして再び、けたたましい笑い声が病室に悲しく響いた。まるで自分自身の運命を嘲笑うかのように。


 男は聞いても無駄な答えしか帰ってこないだろうと思いつつも心のどこかで光明を見出そうとするかのように少年へ質問を繰り返した。

「和子さんのそんな姿を見て、君はどう思った?」

「どう思う?そんな。何とも思わないよ、別にさ。だって僕にとって一番興味があって、大切なのは白いデージーと、僕のマリアだけだから。」



16


 白い布をか細く悲しげな身体に柔らかく巻き付けた妹。

 淡い銀色の絨毯のように降り積もった粉雪を両手ですくい、天へ散らせていた。


赤い赤い雨が降る。

それは鈍く光る鋭い針。

無数に胸に突き刺さってくる。

重く湿った臭い風は

ねっとりとして肌に纏わり付いて

いくら掻き落とそうとしても落ちないヘドロ。

汚けがれきった身体、もう元には戻れない。

闇を走り、刻を斬り裂く雷が轟きはじめて。

わたしは檻の中に逃げ込んだ。

だけどここにはだれも来ない。

ここにはだれも来なくて・・・だれも助けてはくれない。


 事切れたようにゆっくりと崩れるように倒れ込む少女。

 少女の上に優しく雪の花びらが舞った。



17


「さっき、君の叔母さんから電話があったよ。」

「叔母さん?」

「君の妹さんが先程亡くなった。」

「そうですか。」

「そっけないね。・・・首を吊ったそうだ、シーツで・・・」

「はぁ。」

「何も云うことはないのかね?」

「云うことって、何があるとおっしゃるんですか?別に僕のおもちゃが一つ減っただけのことじゃないですか。おもちゃなら、また探せばいい、そうでしょ?」

「・・・確か、今日は君の弟さんの一周忌だったね。妹さんが亡くなったのも同じ日。」

 少年は軽く笑いながら、

「弟?ああ、あいつ。なんだか皮肉ですよね。」

 男の胸の中には虚しさしか存在していなかった。もう、何も。

「皮肉、か。君の弟さんはまだ二つだったんだね。生きていれば三才か。」

「そうですね。」

「彼は、沸騰していたお湯をひっくりかえして、頭からそれをかぶり、ほぼ全身に大火傷を負ったんだったね。」

「そうでしたね。」



18


 兄さんの部屋にはきれいな白い花がいつも咲いていた。


 とってもおいしそうな花だったんだ。

 あまーい匂いがして・・・


 でも、兄さんは絶対にその花を触らせてはくれないんだ。

 絶対に。

 ある日僕は兄さんの部屋に忍び込んだ。

・・・彼女はそこにいたんだ・・・。

 可憐な白い花。

 僕は椅子に上って、机の上の彼女に手を伸ばしたんだ。

 鉢はとても重くて、僕は支えきれずに床の上に落としてしまった。

 鉢は割れてしまい、茶色い土とともに床の上に投げ出された。真っ白な花は首をおられて、透明な液体を流しながら痛々しく転がってた。

 僕は折れた花を拾って、その花びらをもいだ。


 一枚、一枚、

 静かにもいで、天へ投げた。

 くるくると舞い降りる白い花びらはきれいで・・・

 僕はほかの花も茎からもぎ取って、同じことをしたんだ。


『ガチャッ』


 部屋の扉が開く音が不気味に部屋へ響いた。僕は振り返り、そのまま硬直した。

 その時、お兄ちゃんは帰ってきた。

「僕の部屋で、何してるんだ?」

 僕はあまりの恐怖に打ち振るえ、のど元から詰まったような声を絞り出した。

「お兄ちゃん、僕・・・」

 僕の周りに真っ白に散っている花、花、花!

 お兄ちゃんの白い花。

「僕の花・・・」

「お兄ちゃん?」

 少年は硬直している弟の胸倉をいきなりつかむと床へ叩きつけた。弟は激しく泣き出した。少年は弟の鳴き声がより激しく増すほどに何度も何度もその幼い身体を蹴りつけた。

 弟は頭を抱えたまま、

「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・!」

 ただ、言葉を続けた。しかし少年は何も云わず、ただ暴行を続けていた。



19


「そう、何度も、何度も殴ったのですか?」

少年は男の方を振り返ると、ニヤっと笑い、こう云った。

「僕はちょっと、弟にお仕置きしただけだよ。」

「お仕置き?」

「そう、お仕置き。」

「・・・・」

「あいつはさ、僕の清純な白い花、もてあそんだあげく、殺してしまったんだ。」

「殺した?」

「僕は頭に来たからあいつを殴った。そしたらさ、泣くんだよ、ピーピーピーピーっ!てめぇが悪いくせに。」

「だから、また、殴った。」

何度も、何度も、何度も!!

僕の大切なデージー、殺したくせにぃっっ!!泣き止まないんだ。泣き止まないッッ!!

うるさい。うるさい。うるさいんだよ!!

うんざりなんだ!!てめぇなんていなくなっちまえばいいっっ!!

僕のデージー、返せよっっ!!生き返して見せろよ!!このやろぉ!!


「だから、だから僕は、母さんが目を離した隙に沸騰していた湯をわざとこぼして頭から浴びせてやった。 」

少年はすすり笑っていた。

「あいつ、椅子にもたれて幸せそうな顔して寝てたんだ。」

「悔しかった。あんなことして、よくもまあ平気でいられるものだと。僕の大切なデージーを殺したというのに。」

「君だって、何人もの人の血で汚しただろう?」




消した?

ああ、したさ。でも、あいつらは当然なんだ。僕が責められる云われはないよ。


「でも、あのコは違う。あのコは何の罪も汚れもないのだから。」

「あのコ?」

「僕のデージー。だから僕は復讐したんだ。弟は熱湯を被った刹那、ギョッと眼を見開いて僕を凝視した。何かを云おうとしていたようだけど。」

少年は回想しながら馬鹿にしたように笑う。

「その口からは呻き声しかでないんだ。真っ赤なんだよ、あいつの、顔も手も足も腫れぼったくなって真っ赤になってた。」

少年はさも楽しそうに笑いだした。

「ひひ・・・泣き声も出ないくらい、ヒーヒー呻きながらのたうちまわって苦しんでたよ。しばらくして、母さん、ゴミ捨てから帰って来て。弟を見て、言葉を失ってたよ。あはは!その時の母さんの顔、間抜けだった。」

「・・・・」

「弟は死んだ。でも、母さんは決して僕を責めなかったんだ。そりゃ、僕の仕業とは、さすがに思わないよね。」

「思わなかったのではなく、思いたくなかったのだろう?」

「どうだか。でも、妹は僕を責めた。あんたがやったんだって、罵るんだ。見てもないくせに。それからあいつ、僕とあいつのこと、母さんや父さんに全部、しゃべったんだ。手首まで斬ってさ!」

「その後、君のご両親は?」

「父さんは何も云わず、青い顔をしてじっと僕を裁くように見据えていた。そう、何も云わずにね。そういえば、身体が小刻みに震えていたな。」

「君のお父さんはどんな眼をしていた?」

「静かな、何よりも静かな、それでいて鋭い眼差し。・・・許せなかった。許せなかったんだよ!あいつだけは!!」

「・・・・。」

「母さんは恨むような眼で僕を貫き激しく叩かれた、何度も何度も!あれくらいのことで、なんでそんなに目くじらを立てるんだろう?そうたいしたことじゃないじゃないか。母さんたちだって若いころは、どうせやってたんだろ?僕と妹がやったような遊びを父さんとさ!じゃなきゃ、僕はここにいるはずないじゃないか。僕には判らないよ。なんで、なんで僕があんなに叱られなくてはならないのか。」

「・・・・」

「弟だって当然の報いだろ?だって、僕のデージー、殺したんだから。誰も、僕のことは責められないよ。」

男は少年を見つめた。

「悲しくは、なのか?」

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