第3話 涼宮ハルヒの衝動

 そのⅠ やはり俺の青春ラブコメはまちがっている……のか?


つまりはこういうことなのだ。要約すればこれは、外見はごくごく一般的な、まぁ、黙ってりゃカワイイ部類の女子高生だが、実は神のごとき異能を内包する涼宮ハルヒと、その一挙手一投足に翻弄される俺の物語。

 いや俺だけじゃなかったな……ただでさえややっこしいのに、超能力者と宇宙人と未来人も巻き込まれてるんだった。


 古泉によるとハルヒがそう望んだから俺はここにいるということになる。

 つまり県立北高、二年五組がそれである。

 語り部である俺。キョンというあだ名でこの物語に登場する、つまり俺と、もちろん俺は一般的にどこにでもいる普通のつまりは普遍的な男子高校生と自負しているが、古泉に言わせると、どうやら異世界の住人らしい、異世界ってどこにあるんだよ? やれやれだ。

 ま、これだけまともじゃないヤツらが集まってるのだから、異世界人の一人や二人紛れ込んでいても不思議じゃない。


 なぜか入学初日のあのとんでもない中二病かよ的自己紹介を平気でのたまう変人ハルヒと当たり障りのない世間話から始まり、今ではハルヒが作ったSOS団なる部活動にまで嫌々とまでは言わないが不承不承参加している。

 以来、ハルヒの周りに起こる非日常的分けのわからない出来事に振りまわされっぱなしなのである。そして、さらにSOS団の団員で、まともなのは俺だけである。ま、そう思っているのは俺だけかもしれないのだが……簡単に説明しよう。


 俺以外にそもそも破天荒なハルヒの動向に注目あるいは注視している輩が三人いる。これがまた一筋縄ではいかないヤツらばかりだったりする。それが全部ハルヒに引き寄せられるように北高に在学しているわけだから、やはりハルヒがそう望んだのだろう。こんなハルヒに都合のよい偶然などあってたまるか! 偶然などという単語は少なくともハルヒの辞書にはない。

 ハルヒが望むように物事が進むのはもはや偶然ではない。

そんなことは百も承知で結局俺はハルヒが巻き起こすてんやわんやの非日常的出来事の尻拭いを懸命にない知恵をボロ雑巾のように絞りながら日夜奮闘しているのであった。


 閑話休題、ここで俺たちSOS団なるもののメンバーを紹介しておこう。

 団員その一、無口な読書家、長門有希は宇宙人である。団員その二、イケメンの謎の転校生、古泉一樹は限定的ではあるが超能力使いである。団員その三、団の萌えキャラ担当、朝比奈みくるちゃんは未来人である。団員その四、最後にただ一人の一般人、団の中でもっとも低い身分に甘んじている俺がいる。

 そして、長門有希が所属していた文芸部を乗っ取ったSOS団(世界を大いに盛り上げる涼宮ハルヒの団)の団長、涼宮ハルヒは神!?のような存在である――古泉に言わせると――らしいのだが……。


 まぁ、実を言えば、あの天蓋領域の唐突な出現すらハルヒの妄想の産物なのではないかと疑っている俺がいたりする。

 なぜならあれは佐々木を除いてSOS団の暗黒面そのもののような気がするからだ。正の裏返し。ハルヒの精神のダークサイドが周防九曜以下の面々に集約されているような、そんな気がしてならない。

 ハルヒは精神的に不安定になると閉鎖空間を自ら造りだし、精神の平衡を保っていたわけだが、それを更に凌駕する破壊衝動があの天蓋領域なのではないか、そんな突拍子もない考えが時として俺の脳内を占領する。


 そういったもろもろのことをハルヒが無自覚に現出させることが俺にとっても古泉や長門にとっても頭の痛いところではあるのだが。


 とりあえずハルヒの行動パターンは決まっている。

「だってそのほうが楽しいじゃない!」これがあいつの選択支の唯一無二の基準である。やれやれである。

 

 遠くに霞む入道雲、真夏の夏休みの真っ只中で俺はいったい何をやってるんだ?

俺以外の高校生が夏休みを謳歌する姿が浮かんでは消えた。


 高校二年の夏休みにこんなことを考えながら近くのコンビニまで買出しにいく俺ってどうなんだ? 

 それも妹がアイスを食べたいという、つまり俺は妹のパシリじゃないか?これって? えぇ? どうなんだよ。



 そのⅡ   僕は友達が少ない、と佐々木は言った。



 コンビニの帰り、ぽつら、ぽつらとアスファルトが灰色から黒に変わっていった。

「なんで雨なんだよ、ったく。家から出た時はピーカンだったくせに」

俺の心の声である。気にすんな。

 雨脚が一気に強くなった。雨宿りしなきゃ、ずぶ濡れだ。

すぐ先に格好の場所があった。

シャッターを降ろした商店の軒先テントに雨宿りする先人がいる。

 「佐々木?」

先人がこっちを見た。雨は更に勢いを増す。

「キョン?」

ま、家が近所だ。偶然会ってもなにも不思議じゃない。しかし、通う高校が違うから、ばったりなんて会ったためしがなかった。

「あれ以来だな」俺は勤めて佐々木を見ずに言った。佐々木みたいな女子がすぐ傍にいたなら間違いなく意識してしまうだろ? そんな俺の胸中を悟られたくなかったからだ。こいつとは友人あるいは親友みたいな間柄でいたいんだ俺は。

 あれ以来とは周防九曜及び天蓋領域の一件のことだ。

「あれ以来だねぇ。携帯の番号、交換したから連絡のひとつもくれるかと思ったが、ははは、冗談、冗談」穏やかな語り口の佐々木が俺を一瞥する。


 「そういえば、覚えてる? 塾の帰りに僕をママチャリのケツに乗っけて夕立ちに合って、雨宿りしたこと」佐々木は軒先から滴る水滴を手のひらで受け止めながら独り言みたいに言った。

「覚えてるさ……忘れるもんか」佐々木に今の俺の偽らざる心境が届いただろうか?

 中坊の俺は女子と喋るのが苦手で、それは今もなのだが、しかし、不思議と佐々木には異性を意識せずに話せた。

こいつは男と話すとき自分のことを僕と言う。いわゆる僕っこである。

「そういえば涼宮さんは相変わらず神のごとき異能を発揮してるのかい?」

「お前はどうなんだよ? お前だって異能の持ち主だろ?」

佐々木は神なんぞにしておくにはもったいない。現実の女子として充分魅力的である。中坊の頃より数段可愛い。

「ははは、僕には荷が重過ぎる。人類の生死を司る神などというものとは永遠に無縁でいたいもんだ。僕は見た目よりずっとリアリスティックだしね、ミステリアスな涼宮さんとは真逆の、自分の人生を神なんていう抽象的な概念に委ねたくないと常々思ってる派だよ。どちらかというと無宗教で無神論者だ」


 雨は止みそうになかった。ハルヒとの丁々発止の非日常な世界もそれはそれで楽しいのだが、こうして佐々木と話していると日常だって捨てたもんじゃないなと思えてくるから不思議だ。

 

佐々木はなにをする風でもなく手のひらに雨粒を受け止めていた。 

無言で佐々木の華奢な指を見つめ続ける俺。

軒先から滴る雨が手のひらにいっぱいになった。零れ落ちてゆく雨粒……。


 きっかけはそういうことだ。手のひらから零れ落ちる雨粒の先に佐々木の顔があって、その瞳の中に俺がいて、どちらからともなく近づく。

どちらからともなくだ。そうすることが一番自然なような、そんな穏やかな空間だったんだから仕方ない。俺はいったい誰に言い訳がましいこと言ってるんだ!?

唇がほんの一瞬重なる。ほんの一瞬だ。

 唇が離れた刹那佐々木が呟く「雨のせいかな?」

俺が答える「雨のせい……だろ?」

 なぜか怒りに満ち溢れたハルヒの顔が脳裏をよぎり、佐々木のやわらかな唇の感触に後ろめたさを覚えた。

 『なんでだよ、なんでハルヒが……!?』俺の心の声だ。気にすんな。

 降り続く雨、二人でいることが自然なような、先ほどのあれはなんだったのか?気まずいでもなく穏やかな時間がクロノスの惰眠のようにゆっくりと過ぎていった。


 俺たちは雨がやむまでその軒先を占領していた。

 平静を装う外見とは裏腹に胸の鼓動は鳴り止まず、恐らく佐々木も同じだったのだろう。

 こういう展開になるなんて予想もしてなかった俺はただただ軒先から滴る雨粒に視線を合わせた。

 俺を見つめる佐々木の視線と合わせると余計なことを言いそうだったからだ。


 「止んだね雨」

 遠くに入道雲、半分は抜けるような真夏の青空、蜩の鳴き声が辺りを包み込む。

 いったいどれくらいそうしていたのだろう?

 佐々木が口を開いた「今の行為を気にしてるんだったら、そんな必要はないよ。少なくとも僕のことは気にしなくていい。お互いに雨のせいで魔が差した、そういうことだよ、きっと」

 「ああ、お前がそれでいいならそういうことなんだろうな……」

「僕は友だちが少ない、いや、そういう言い方は正しくないな。友だちが欲しいなどと思ったこともないんだ。でもキョン、君は違う。

 だからってわけではないけれどこういう行為に無駄に意味など考えないで欲しいんだ。君だけは友だちでいて欲しい、僕の友だちでいて、これからもずっと」

 軒先で雨に濡れた風鈴が寂しげなか細い音を奏でた。

こいつを守ってやりたい。俺の琴線になにかが触れたような、ほんの一瞬だ、そう思ったんだから仕方ないじゃないか……俺にもう少し勇気があったならきっと背中越しに抱きしめていたかも、いやいや混乱してきた。

 急にわれに返ったように佐々木が振り向いた。

 見透かされたのかな、俺の思いが……誤解すんなよ佐々木、多分あの遠くに霞む入道雲が悪い、そんなもんだ。

 「じゃあね、キョン……またね」

 「ああ、またな」

 爽やかな真夏の抜けるような青空みたいな笑顔を残して佐々木が離れてゆく。

 何かを言わなきゃな、そう思いながら結局一言も発することもできず俺は去ってゆく佐々木の後姿を見つめ続けた。



 そのⅢ 青春ブタ野郎は電気ブタの夢など見ない。



 ガラにもなく青春してんだな、俺……まさか、あの佐々木と接吻なんかしちゃったんだが、ありきたりだけれど甘酸っぱいもんなんだな、青春ってのは……しかし、この心に残った後ろめたさはなんなんだいったい? 

 恋人でもなんでもないハルヒに「ごめん」なんて言ってる俺を想像してるってのはどういうことなんだ?

 なぜ、佐々木と接吻したことで俺はハルヒに贖罪を乞うような気分にならなきゃならない?

 俺は俺の気持ちが今ほど解せないことはなかった。

思春期なんてのは遠い過去の遺物みたいなもんだと思ってたのに、なんなんだこの胸の奥を締め付ける感覚……まさか、まさか俺は佐々木に恋でもしたってのか!?


 溶けまくったガリガリくんに文句たらたらの妹をリビングに残し早々と自室に退散した。

 ベッドに寝転び暫く天井を見つめ続けた。魔が差しただと? そんなことであの行為の理由を片付けていいものか? 自分のしたことに自分で確たる答えが見えない。

 残ったこの消化不良気味の得体の知れない気持ちはどうしたものか?

 確かなこと。それは佐々木のあの柔らかな感触ともやもやした気分だけだ。

 そしてなぜか懐かしかった、懐かしいだと? そうなのだ、俺は佐々木の唇そのものよりもその匂いに驚いたのだ? なぜだ? なぜだ?なぜだ?


 天井いっぱいにハルヒの憤怒にまみれた顔が広がった。

おいおいおいおい、今は見たくないぞ、そんな顔。頼む消えてくれ!

 《ライン!!》

 ビクッっとしてスマホを取った。

 《古泉です。今いいですか?》

 《うん?ああ》

 《涼宮さんの状態が……どうやら久しぶりに我々機関の出番らしいです。今回のは異常に拡大してます。そう、そうです。閉鎖空間ですよ》

 《なんで俺に掛けてくるんだよ?俺は、お前のような能力があるわけじゃない。

いたって平凡などこにでもいる一般的な高校生男子だ。閉鎖空間はお前の範疇だろ?》

 《閉鎖空間の発生状況に関してその都度我々は詳細な情報を蓄積しています。でも、今回の発生事例はなにもかもが異常です。とすれば思い当たる節はひとつしかないと僕なりに……これは推測ですが多分、恐らく、あなたと涼宮さんの間になにかあったのかと?》

 《すまんな古泉、俺はハルヒのお守り役じゃないし、夏休みに入ってからただの一度も会ってないぞ!》

 《……そうですか、あなたには思い当たるふしはない。そういうことですね》

 疑り深さを絵に描いたような声色がスッと消えた。

古泉はなにかを知っているのか? はたまたなにかを感ずいているのか?


 また携帯が鳴った。いつから俺はこんな人気者になったんだ? 

長門からだった。

《宇宙の、そして、この世界の秩序を乱す行為は慎むべき……》

 長門の声色はいつになく緊張を孕んでいた。

《はぁ? なにを言ってるんだお前は? それに、なんだよこんな時間に……なんの冗談だよ》

《これはある種の警告。

 あなたの長期的滞在地点の……具体的に言えばガリガリくんを買い求めた近所のコンビニと言い換えてもいいが、その一点から小規模だけれど、強烈なフレアを感知した。そのフレアは宇宙規模に発展するかもしれない無限の危険因子を含んでいる》

 《長門!!お前、監視カメラでも仕掛けてるのか? 》

《フレア発生の特定に関しては、この携帯を通じてあなたの行動様式を特定した。

それ以外は論理的推測。涼宮ハルヒ以外の不確定因子が発生あるいは、あなたが自らそれを創りだしたのではと思える……》 

 そこまで言うと長門は口ごもった。

 残ったのは受話器からお互いの鼓動が聞こえるほどの沈黙。

沈黙は金だ、などとおふざけを言ってるような状況ではないことは百も承知なのだが、《なにが言いたいんだ長門、なにを知ってるんだ?》

問い詰めるような言葉が口をついて出た。

 長門は何かを知っている、俺が知りもしない何かだ。間違いない、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイスとは長い付き合いだ。長門の沈黙はすなわち何かを知ってはいるが、それは俺に知られるべきではない事項と言うことなのだ。

 《……今は、今は、なにも言えない、言うべきではない。不確定なファイルの断片を整理すれば正確に伝えることができるはず》

長い、長い沈黙のあと長門は頼りなげな声音でそういい、唐突に会話を切った。


 どいつもこいつもだんまりか? やはり俺の青春ラブコメはまちがっている……のか?


ふと思った。長門は夢を見るのか? いや、あいつには睡眠など必要ないんだったな、じゃあどうやっていつデフラグするんだ? 蓄積された無数のエラーを、それをストレスと言い換えてもいい。

 ハルヒというとてつもない対象物を四六時中観察しつづけるという深淵を覗き込むような行為の果てに蓄積される無数のバグをどうやって?

どうやってそれらのバグを修正し削除し、正気を保っていられるんだ?

 ハルヒの壮大なお遊びの後始末を一手に引き受けるこの対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイス、別名長門有希……。

あいつは本当に電気羊の夢を見ないのか?


 古泉から再度着信。

「閉鎖空間が拡大しています。機関が観測して以来最大値を超えていると、我々も精一杯努力してはいますが……このまま拡大すると……我々にも予測すらできない事態が起こる可能性が……」




そのⅣ      冴えない彼女の育てかた? ハルヒが? 佐々木? まさか。




 夜の、それも満月の校庭に忍び込むってのは案外刺激的なもんだ。

うちのプールは校舎に隣接しているから水泳の授業と重なると、ことのほかうるさいのだが、さすがにこんな時間ともなると宿直以外校内には人っ子一人いない。

そよ風に揺れる水面を月明かりが照らす。

「ハルヒ! こんなとこにこんな時間に呼び出しやがって? いったいお前はなにがしたいんだ!?」

 無言で俺を睨むハルヒ……月明かりに照らされたハルヒ。はっとするほど綺麗だった、なんだよ? いつのまにかオンナっぽくなりやがって。

「キョン! あんたも続きなさい! 有希! 古泉君! みくるちゃん! いくわよー」

 そういい残すとプールに向かってダッシュするハルヒ。思いっきりジャンプ! ハルヒの姿が満月と重なる。

 おいおい、なんてジャンプ力なんだよ? 制服のまんま飛び込みやがった。

水しぶき、続いて望外に反響する水面を叩く音。

 一度水面から消えたハルヒがひょっこり顔を出す。

「みんな! なに躊躇してんの! 団長命令よ」バックでひらひら泳ぎながらハルヒが叫んだ。

 宿直に気づかれないかとヒヤヒヤものなのだが、ハルヒがきっと宿直はグッスリ眠ってるはずと思っていたら望みどおり惰眠を貪っているのだろう。

「団長命令ですからね、飛び込むしかないですね」

古泉が意を決したようにプールに走り出す。

 長門がゆっくりとプールに近づく。ひざ小僧を抱えてボッチャーン。

朝比奈さんが恐る恐る水面に手のひらを浸し、温度を確かめているとハルヒがその手を掴み強引にプールに引きずり込む。

「ひぇえええええ」断末魔の絶叫が満月の夜空に消えた。


 バンパイアがそこらじゅうにいてもおかしくないような――まぁ、吸血鬼でも出ようものならここにいる我が団長さまの餌食になるのは非を見るより明らかなことなのだが――満月の夜、月明かりに照らされたプールサイドに横たわりぐったりした影が五体……プールでひとしきり騒いだンだからな……ハルヒにつられてわけの分らない高揚感とは裏腹にことのほか肉体は疲労困憊。当たり前だ、長門までもが普段見せもしないようなはにかんだ笑顔で水をかけあってキャッ、キャッ言ってやがる。

 朝比奈さんは終始溺れそうなほど腕をバタつかせてるんだが、朝比奈さん、そこは足がつくほど浅いんですよと耳打ちするとこれまたはにかむ笑顔で「ウフッ」

 朝比奈さん! あなたは地上に舞い降りた天使か、はたまたボッティチェリのヴィーナスの生まれ変わりですか!?

ハルヒの飛び込めという命令になぜこんなに律儀に付き合っているのか?

 無意味や無駄をたっぷりと含んだ北高の制服はことのほか重く、ことのほか気持ちがよかったのは内緒だ。

 高校二年の真夏のある日、俺たちは確かにここにいたし、確かに青春のしっぽにしがみついていたんだ。



 大の字になったハルヒがプカプカ気持ちよさそうに水面を漂っていた。

俺たちも同じように漂っていた。

 満月が頭上でよりいっそう輝きを増したように見えた。

あばた面の隅々が見渡せるほどに満ちた月の輝きが、平静を取り戻した水面に否応なしに降り注いでいた。

 「……ハ、ハルヒ、俺たちをこんな真夜中に呼び出して大騒ぎにつき合わさせるってのはどういう魂胆なんだ!?」

 俺は我に返り、揺らめく満月の光を浴びて水面を漂うハルヒに問いただす。

「うるさいわね! 暇つぶしよ、ひつまぶし! それ以上でも以下でもないわ」

隣の古泉の顔色を伺う。

「しょうがないですね、As You Wishです、女王さまの仰せのとおりに、ハ、ハ、ハ、ックション」

 古泉のクシャミが満天の星空に響き渡った。


 小一時間ほど水面をプカプカした後、ハルヒの解散の一言で真夏の夜の夢みたいな一大イベントは、あっさり終了した。

 ハルヒはずぶぬれの制服のまま、相変わらずの素早さでさっさと帰宅し、長門は朝比奈さんを送ってゆくとこの場を去った。


 俺たちが通った後には滴り落ちたしずくの跡が点々とアスファルトを濡らす。

結局残ったのは例によって俺と古泉、ただ二人。

 ずぶぬれの制服の端々をぞうきんみたいに絞りながら殊のほか重い足取り。

 あのプールに飛び込んではしゃいでた高揚感はどこかに置き忘れてきてしまったようだ。

 「なんだってハルヒに付き合ってこんな目にあわなきゃならない! 古泉いつからそんな無口なニヒル野郎になったんだ?」

 制服から水をポタポタ滴らせながら古泉は考え込む例の指を唇に当てたしぐさを崩さない。

 「ハルヒはいったい何がしたかったんだろうな? なんで俺たちをプールに引っ張りこんだんだ……さっぱり、わからん」

 古泉が言葉を発しないのだから俺が喋り続けるしかあるまい。

 無言のまま、暫く水を滴らせながら真夜中の坂道を下った。

「前方のあのひときわ輝く三角形の星々、あれが夏の夜の大三角、デネブ、アルタイル、ベガです」

 深夜、街の灯りが消え、天空には天の川と古泉が言っ夏の大三角がことのほかくっきりと見えた。

 なにが言いたいんだこいつは? 

「不確定情報なのですが、我々機関の推測によると長門さん、つまり対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースの創造主はこと座のベガで誕生したらしいです。もちろん情報統合思念体と言われる彼らを知覚することなど、ラプラスの悪魔でもない限りできないわけですが……」


 俺はあの長門が語った夢物語を思い出していた。もちろんその長尺話の1%も理解しているとは言い難いのだが、長門を創り出したソレは生命体でありながら実体を持たないという摩訶不思議な百鬼夜行なのだった、もちろん俺の中でではなのだが、

「恒星ベガまでの距離は約25光年です。一光年でさえ今の我々にとっては途方もない距離です。

 長門さんの創造主である統合情報思念体にはそんな一光年も百億光年もほとんど無意味です。なにしろ彼らは実体を持たないんですから、その思念の固まりはあらゆる辺境の宇宙にその触手を伸ばし、自立進化という途方もない実験の手がかりを探している。

 これはある種のロマンと言い換えてもそんなに間違ってはいないと思います。

我々人類と彼ら思念体の思考回路が同種であるとすればの話ですがね」


「なあ古泉、お前に言わせればハルヒは神のごとき存在なんだよな。するとハルヒが望めば宗教対立もそれに伴う各地の紛争も、地球上の飢餓も、世界平和すら実現可能なんだろ?

 あいつがそう望めば夢のような話だって実現するんだろ?

 なぜあいつはそう望まないんだ? なぜ毎日、毎日、宇宙人や未来人や、超能力者や、異世界人探しにうつつを抜かしてるんだ?」

 黙って俺の戯言を聞いていた古泉がやっとその重い口を開いた。

「じゃあ一つ、あなたが涼宮さんにそのように諭してください。なんといってもあなたは、SOS団の中でも特に涼宮さんと近しい存在なのですから、あなたの言うことなら涼宮さんは聞く耳持つかも知れませんから、しかしですね、これには大いなる危険が潜んでいます。

 涼宮さんが己の底知れぬ異能に気づいた場合ですが、即座に地球を逆回転させるような暴挙に出るかもしれません。そんなことにでもなれば、世界平和どころじゃない。この地球そのものを破壊するなどという事態が待ち受けているかもしれないわけです」

「おいおい、脅かすなよ。ただの戯言だ、聞き流せ」

 去年の七夕イベントの短冊に書いたハルヒの文言を思い出していたのは俺だけではあるまい。

 真夏の夜空を見上げて二人同時にため息をついた。

水爆を直近に抱えた俺たちにできること。それは現状維持、そういうことなのだ。そのため息はお互いの声なき無言の了解なのだ。





 

 

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夏休みだってのに古泉からのSOS団緊急ミーティング開催のお知らせメールによって夜の七時に光陽園駅前の広場に集まった。

 もちろんこんな時はいつだって団長様抜きである。


「これはハッタリでもなんでもないんです。警告です。佐々木さんには近づかないほうがいい。

退屈しのぎに涼宮さんがこの時空間に出現させた不確定要素そのものかもしれないのです。

 で、手っ取り早く佐々木さんという自分の分身を構築するための要素になにを選んだと思いますか?

 なぜ佐々木さんは、異能を持ち合わせているのですか?

涼宮さんと同じような神のごとき能力をなぜ持ち合わせているのですか?

なぜこの時空間にそれもこんな矮小な限定された場所に神のごとき異能の持ち主が二人も?」

 古泉が腹に一物を持つ時は決まって饒舌になり、決まってまどろっこしい。なにかを疑っている。

 俺が佐々木とそのなんだチューしたことがそんなに悪いことなのか? それがなぜこうも非難されなきゃならない? 俺がちょっと青春を齧ったからって……。


 「佐々木とは中学の同級生だ。それ以外になにがある?」

「機関の中ではこういう穿った推論を唱えるものも少なからずいます。佐々木さんは涼宮さんとあなたが創りだしたもの。

キザな言い方を許してもらえるならいつかの未来に結ばれたお二人の愛の結晶と言い変えてもいいのですが……」

「古泉! それ、本気で言ってるのか!」

 俺の甲高い声に反応して朝比奈さんが怯えたように後ずさりする。


古泉が目配せする。

怯えた様子でじりじり後ずさりする朝比奈さんに問いただせと言いたいのか? 

「知ってるんですね朝比奈さん? 古泉が突拍子もないこと言ってるんですが……知ってるんですか?」

 眼には今にも零れ落ちそうな涙を浮かべてさらに俺から震えながら後ずさりする朝比奈さんがこれまた震える声で一言。

「禁則中の禁則、最高機密の禁則みたいな、き、き、き、禁則事項です……」

言い終わると手のひらで顔をうずめてその場にしゃがみこんだ。

 長門がいつになく優しい眼差しで朝比奈さんを庇うように矢面地に立ち、俺をじっと見詰める。

「宇宙は多元である。よって未来を司るモノですら多くの解が存在する未来を正確に、更に、より具体的に己の知覚したものを言語化するのは至難。この時空間の一秒先、一分先、一時間先、一日先、一年先の未来はいくつにも分岐する要素を内包した集合体であり、今、現在以外は不確定、よってこれ以上の議論は無駄」

 俺を真っ直ぐに見詰めた長門の瞳は澄み渡った宇宙空間を写した深淵に見えた。

 いやいや底知れぬブラックホールか?

 長門の発した言葉は俺には念仏に聞こえた。さっぱり分からん。

それでも、俺になんとかわからせようと相当言葉を選んだのだと長門の瞳が訴えていた。

 「我々はもちろん佐々木さんを徹底的に調査しました。当然でしょ、規模は小さいかも知れませんが涼宮さん的脅威には違いありませんから」

「佐々木を調べただと! 古泉いい加減にしないと……」

「取り合えず聞いてください。西宮北中以前の記録が完全に白紙でした。佐々木さんは唐突にこの世界に出現したんです。涼宮さんがいるから僕らがいる。

 北中に突然現れて当然のようにあなたと親友になったんです。同じ塾に通い、自転車で送り迎えし、恋人同士と疑われるほどの存在になった」

「止めろ! 俺はそんなこと聞きたくもない。そんなことは、そんなことは知りたくもない!」


 長門を見た、朝比奈さんを見た。どうやらここには俺に賛同するものは皆無のようだ。

 「あの運命の七夕の日、あなたは東中の涼宮さんと出会い、そして涼宮さんの前から跡形もなく消えた。

 涼宮さんは真夜中に見たあなたの制服を頼りにあなたを探し回った。

見つかるわけはありません。あなたは長門さんの元で長い眠りにつくのですから、

で、涼宮さんはどうしたと思いますか……識域下で自分の分身を創り出してあなたのそばに置いたんですよ。

 佐々木さんは涼宮さんがあなたに会いたいという無意識の行為の産物であると、

 その分身がどういうものか、我々機関のものがそういう穿った推論を持つのもあながち……」


 もういいい、俺は古泉の胸ぐらをつかみ黙らせた。

 薄暗い街灯の下で俺たちは迷子の子犬みたいに行き場を失っていた。

さて、これからどこへ向かうのか?

 俺たちは何処から来て、何処に向かうんだ?

 宇宙人と、未来人と、超能力者と俺。なんてメンツなんだ? そして、程度は違えど神のごとき異能を持つものが二人も……。


 唐突に古泉の携帯に着信。朝比奈さんが「ふぇっつ」と言いながら後ずさりした。

 長門は相変わらず無言のまま、瞬きもぜすことの成り行きを見詰めている。


「ほっとしました。どうやら閉鎖空間の膨張は収まりつつあるようです。機関から連絡がありました」

 古泉の安堵の表情が、閉鎖空間、それがどれほどの危険な水域だったのかを思い出させた。

「それともう一つ、涼宮さんがなぜ我々をプールに誘ったのかのあなたの問いへの答えがこれです。己の閉鎖空間の増大を自らプールに飛び込んでクールダウンさせることによって留めたのですよ。






そのⅣ   ドラスティックな彼女……ハルヒ以外にいる? いたいた

      あいつが!








 緊急ミーティングの内容が内容だっただけに眠れなかった。

 ベッドに横になっても頭が冴えて一向に眠気はやってこない。

 羊の数でも数えようとしたが、頭の中には電気羊しか浮かんでこない。

   もんもんとしたまま、もう小一時間天井を見詰め続けている。


 唐突に携帯が鳴った。佐々木? 佐々木からだと……。

 《キョン、どこにいるの? あなたの友人って人から呼び出されて丘の上の教会にきたんだけれど……キャッ!》

 《佐々木さんも咄嗟のことに異能を発揮する余裕もなかったみたいね、ウフフ、私の腕の中でお休みしてるみたいよ》

 《いったい何をした!》

《キョンくん、丘の上の教会にいるわ。すぐ来ないと佐々木さん大丈夫かしら、いい、わたしは長門さんとは違うの、任務遂行のためなら容赦しないわよ一人できなさい、さもないと……》


 俺は自転車に飛び乗り心臓が飛び出さんばかりの勢いでペダルを漕いだ。

どこをどう通ったのかも分からないまま闇雲に突っ走った。

 滝のような汗が背中にまとわりつく。

 危うく教会の門扉に激突しそになりながら急ブレーキを掛けた。


丘の上の教会は静まり返っていた。

 天空に浮かぶ満月はことの他明るく輝き三角屋根の天井の十字架を浮かび上がらせていた。

 十字架に縛り付けられた佐々木と傍らに含んだ笑みを唇の端にたたえたあいつがいた。

 俺はゆっくりと外壁に取り付けられた非常梯子を登った。足が竦んだ。俺は元来高い所は苦手、もちろん、登るのだって苦手なのだ。

 その上にヘタレなんだったっけな俺。

 頭の中をジェイコブスラダーなんて単語がグルグル浮かんでは消えた。

 やっとこさ屋根の上に降り立つ。おっかなびっくり立ち上がると脚がブルブル震えていた。思っていたよりも教会の屋根は高く、軽く眩暈がした。

 俺だって男のはしくれだ。カマドウマくらいのプライドは持ち合わせている。

 俺に今必要なのは、この窮地をどうやって打開するか、考えろ、考えろ俺! ない知恵を絞りきるかだ。佐々木だけには指一本触れさせはしない。


 「やはりお前か! 朝倉! なんてことをしやがる!」

「ちゃんと一人で来るなんて、あなたやっぱおバカさんね。正真正銘のね、飛んで火にいる夏の虫、いえ、虫以下ね。それが今のあなた」

「なんとでも抜かせ! 俺はお前の言うとおりにここにきた。佐々木を放せ!とにかく開放しろ!」

「この教会の周辺は完全に遮断したわ、もう長門さんにも誰にも邪魔はさせない」

 朝倉が腕を下ろすと同時に薄いカーテンのような膜が俺たちをゆっくりと包んでゆく。

なんとも異様な光景がそこにあった。教会周辺以外の景色が薄ぼんやりとした輪郭の中に沈んでいたのだ。

「なぜ、関係のない佐々木まで巻き込む! お前は俺が狙いじゃないのか?!」

 俺は過去に何度もこの見た目は善良そうな美少女、朝倉涼子に命を狙われるという寸劇を演じた間柄だったのだが、今回はきっぱりと決着を付けねばならない。

なぜなら今回に限っては俺以外の人間を傷つけるという最低の暴挙に出たからだ。

 一度は長門に助けられ、二度目は未来の自分に助けられた。三度も、四度も、そんなことたまったもんじゃない! 

「いつまで経っても変わらない状況なら、生ぬるいやり方では一向に拉致があかないもの。そうでしょキョンくん、涼宮ハルヒは除外せよと言われている以上、もっとも有効かつ決定的な手段はキョンくんと佐々木さん二人を同時に抹消したら、涼宮さんはどう出るか、とても楽しみ。

 上からの命令はただひとつ、涼宮ハルヒ以外ならわたしに判断を委ねる。そういうこと、


教会を覆っていた鉄枠がメリメリと音を立てて空中に浮かび上がり一瞬にしてそのうちの一本が朝倉の手に握られていた。

 「いい、これがわたしの力。あなたがどう逆立ちしたって、そのない頭をめぐらせたってこの状況から逃れられない!あなたは大切なものを失う。そしてあなた自身もここで果てる。恨むなら自分の無力を恨みなさいな、フフフッ」

言いながら朝倉の腕から放たれたずっしりとした鉄の矢が十字架に張りつけにされた佐々木の顔面をかすり十字架に突き刺さった。

 「や、や、やめろおおおおおお!」

同時に空中に静止した何本もの鉄の矢が俺めがけて突き刺さる。

 鉄板の屋根が何度も鈍い音を立てた。

鉄の矢に囲まれて俺は身動きができない。

「キョンくん、寂しくないように佐々木さんも同時に始末してあげるわ。大宇宙の支配者が自立進化の道をたどるための石杖になるなら、おバカさんにとってこれ以上の結末はないでしょ。ウフフ」


 薄ら寒い朝倉の含み笑いを合図に、数十本の槍のような鉄の矢が俺を目がけてすさまじい風きり音を立てた。

俺は堪忍して目を閉じた。短い人生だったな、まだ高校二年生だってのに。


「フンモッフウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!」

俺の眼前で降り注ぐ光の玉と鉄の矢がぶつかり激しく明滅する。

「遅いんだよ古泉!」

「ですから何度も言ってるようにですね、わたしの能力はこういった閉鎖空間でしか発揮できない限定的なものなんですって、朝倉さんにこういう状況を創っていただくまで登場できないんです大丈夫ですか?」

「長門は? 長門はどうした?」

古泉が見上げろと合図した。

長門が十字架に縛り付けられた佐々木を守るように朝倉との間に立ち塞がる。

「朝倉、いくら俺がバカだとしてもだ、お前のような何度も俺を殺しそこなったやつの前に一人で来ると思うか……」

「ウソつき! だから人間って嫌いなのよ!」

憤怒にまみれた朝倉がありったけのパワーを込めてその腕を俺に向ける。

 地の底から湧き上がるような轟音とともに、

教会に張り巡らされた鉄柵が地面からめくれ上がり一斉に俺目がけて突進する。


 「まっがーーーれ!!」抑揚の利いた落ち着き払った声色で古泉が言った。


 鉄柵は俺の鼻先数十センチのところで急角度で向きを変え、勝手に俺を反れ、そこいらじゅうに突き刺さった。

 数秒なのか、数分なのか、数時間なのか、辺りを沈黙が支配する。完全なる沈黙、

宇宙の深淵はきっとこうなんだろうな。

 などと考えるほどの余裕である。なにしろ長門と古泉と言う強力な助っ人がいるのだから。


 朝倉涼子は、どうやら負けを認めたようだ。その場に硬直したまま交互に俺たちと長門を見詰めている。

「あーあ、わたしもほんと甘ちゃんよねぇ、キョンくんはわたしの言うとおり一人でくるって、人間なんて信じるもんじゃないわね。あーあ、ほんと最低……」

長門が佐々木を庇いながら口元でなにか呟いた。

「あなたの独断専行に対する上の回答は即座に実行される。消えなさい、そしてバックアップとしての機能は百等級格下げされる」


朝倉涼子の顔が一瞬恐怖に歪んだが、張り付いた恐怖をぬぐう間もなく虚無を称えた空間の一点に吸い込まれるように跡形もなく消えていった。


 「大丈夫か、佐々木?」

長門に抱きかかえられたままの佐々木に俺は恐るおそる声を掛けた。

「キョン、ここは? 僕は? なにがあったの?」

疑問符ばかりの佐々木の問いにどう答えていいものなのか……。

「済まんな、俺のせいだ。本当に済まん」

佐々木は一瞬俺の瞳を見詰め、そして目を閉じた。

 この状況をどう理解したのか、それは俺にも分からなかった。

しかし、俺の脳裏には確信めいた思いが過ぎったのだ。佐々木が俺を信じ、

すべてを委ねたのだと……安心したように佐々木は再度、意識を失う。


「わたしがおぶって送ってゆく。今ならまだなんの処置もぜず本人の夢オチで済む。今回の一件は完全にわたしのミス、思念体の一部は急進派的テロ行為にバックアップを唆すものがいる。二度とさせない、信じて」

「ああ、信じてるさ、いつだってな。お前も古泉も、数少ない大切な親友だからな」

長門が一瞬微笑んだように見えたのだが俺の見間違いかも知れない。

「さて僕もお役目御免ですね。今回の件は機関にとってもわたしにとってもいい経験でしたよ」不必要に接近した古泉が耳元で囁いた。





そのⅤ       中二病だって恋はできる……のか?





 自転車を漕ぐ気力さえ失せていた。

自転車を押しながら薄暗い街灯のともる路をふらつきながら歩いた。

俺だって自分で言うのもなんだが万能じゃない。疲労が足元をまるで鉄の塊を引くように重くする。

 一歩がことの他気だるい。


 歩道がみるみるグレイから黒に染まってゆく。弱り目に祟り目とはこのことか、大きな雨粒が俺の弱った身体に降り注ぐ。


 門扉の街灯に雨に濡れた人影があった。

「ハ、ハ、ハ、ハルヒ!?」

「キ、キョン? キョンなの?」

「どうしたんだよ、こんな時間にずぶ濡れじゃないか。なにやってんだ、ったく」

「嫌な夢を見たの……、携帯に何度もテレしたけれど、圏外になってて、繋がらないんだもの。なんかトラブルにでもあったかなと思って、来たらまだ帰ってないって……」

雨は容赦なく降り注いだ。夏の生ぬるい雨だ。俺もハルヒも風邪なんか引きはしないだろう。

 十七歳だ、まだまだ充分に若い。明日のことなんかクソくらえだ。

いつになくハルヒは真顔。心細げなその姿に俺はほんの少し胸がキュンとなった。


 「キョンとわたしの大切なものを失う……でも、それがなんだかモヤモヤしててそんな夢だったの。それがなんだか分からないから、とても不安な嫌な感情だけが後にずっと残ってる。眠れなくなって……どこにいってたの? なにか私に隠し事してる?」

 なあハルヒ、今はなにも言えないんだ。いつか、必ずいつかお前に今日の出来事を話をしたいとは思ってるんだがな、俺を信じろ、俺を信じてくれ。

 俺はいつまでもお前のそばにいたいと思ってるんだ。

 そして、そして、いつまでもずっとお前の味方なんだ。

 ハルヒ、お前がお前である限り、俺は俺でいられるんだ。

お前がなにをしようと、どこへ行こうと俺はお前と一緒だ。

 例え世界中が敵に回ろうともたった一人になろうとも俺がお前の味方をする。

俺はお前の側につく。お前を守って見せるさ。


なぁ、そうだろハルヒ。なんにも言えないけれど、お前なら分かってくれるだろ……。


 真夏の降りしきる雨の中で俺はハルヒをそっと抱きしめた。

ハルヒは一瞬身体をよじったが俺にその身を任せた。

今の俺にはこれしかできないんだ。ハルヒ、今、俺ができる精一杯なんだよ。

 「キョンとわたしの大切なものは守られた、そうなのね」

「ああ、守ったさ。だから心配すんな。終わったんだ」


 雨は相変わらず激しく降り続いていた。

 まるで俺たちを覆い隠すように、そして、俺たちを守るように。


土砂降りの雨の中で俺たちはなにを探していたんだ? いったいなにを探し続けていたんだ?


 「キョン、知ってる?」

「もういい、なにもかも終わったんだ! これでいいんだ、そうだろ……」

俺は抱きしめた腕に力を込めた。

いぶかしげに俺を見詰めるハルヒの瞳、そうだろうな、分からないよな俺が今どんな気持ちなのか……それでもハルヒは何事かを悟ったように目を閉じた。

 胸元でハルヒは頷き、俺の胸にずぶぬれの額を押し付けた。

世界すら変える力を持ってるってのに、俺の所在を案じ、小刻みに震えるその華奢な身体を俺はこの雨から必死に守ろうとしていた。


 ……はぁ? いったいなにから俺はハルヒを守ろうとしてるんだ? ったく。

 濡れた顔を俺に向けて精一杯背伸びしてハルヒが言った。

「雨にはね……雨には再生の神様が宿ってるんだよ……」

 雨に濡れたくしゃくしゃの笑顔がそういった。









第三話 涼宮ハルヒの衝動 <了>  第四話 Somewhere Over The Rainbowにつづく 

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