第42話

「な……ば、馬鹿なァ!」

 私に対しての余裕とは全く異なり、声を上げたのは他ならぬ、糸を切られたネストだった。

 ただローザは、それを無視してマナガンの方に視線を送る。

「悪いけど、人質のふたりを頼むわ。貴方の方も、その身体では流石に戦いにくいでしょうし」

「大丈夫か――と聞く必要はなさそうだな。承知した」

 マナガンはその実力を一目で見て取ったというように、あっさりと頷きオデッサや神官の娘がいる牢の方へと向かっていく。

 実際、一目で見て取ったのだろう――彼を拘束し続けていた糸が、護身用のナイフによって断ち切られていることに私が気付いたのは、その時のことだった。会話の最中に行っていたようだ。

 もっとも、当然としてストリングの方は怒りを発してきた。

「この……ふざけたマネを!」

 盗賊の方はまだ、ローザの力を正しく理解できていなかったのかもしれない。あるいは後れを取るまいとする強がりによるものか。いずれにせよ吼えると、ローザに向かって糸を噴き出す――

 しかしそれが届くよりも早く、彼女はその場から消えていた。地面にランプだけを残して、暗闇の中へ……そして次の瞬間。

 ばちぃっ! と電撃でも走ったような激しい音を立てながら、暗闇から伸びてきた鞭がストリングの身体に打ち付けられた。

 それは単純な革紐による打撃に留まらない、恐るべき威力を発揮していたに違いない。少なくとも盗賊の身体は一瞬宙に浮くほど強く殴打され、抵抗もなく横向きに倒れ伏し、そのまま気を失った。

「な、馬鹿な……!」

 ネストもそれを見て、ローザの力量を理解したらしい。天井に張り付いたまま、暗闇からゆっくりと抜け出てくる彼女の姿を見つめながら、ただ震えた呻き声を発していた。

「わかっているとは思うけど、どんなに身を屈めても、どんなに逃げようとしても無駄なこと……貴方は既に、私の間合いの中にいるのよ」

 栗色のスーツをランプの炎で仄かに赤く揺らめかせ、微笑すら湛えるその”冒険者”の姿を、私は畏怖と尊敬に加え、美しいとさえ思ってしまった。

 ネストはただ狼狽している。一縷の望みに賭けて逃げるべきか、無謀な賭けに出て戦うべきか、あるいは命乞い、取引する、謝る、泣く――そうした様々な思考の葛藤が手に取るようにわかる。今までの余裕は全く失われ、そのおぞましいモンスターの顔には冷や汗と動揺しか見えなくなっていた。発される声は勝ち誇るものではなく、ひたすらに呻きと「待ってくれ」と懇願する泣き言ばかりになる。

 そうするうち――ローザは可笑しそうに、くすりと鼻から息を抜いた。哀れみさえ含んで、天井のモンスターを見上げる。

「迷う時間はなかったみたいよ。もっと楽で、もっと迅速で、もっと酷い相手が現れたわ」

「え?」

 きょとんとしたのは、ネストも私も同じだった。ローザが指を差し、ランプを向ける方向へ目をやると、そこからは足音が聞こえてきた。そしてしばし……そこに別の光が現れる。

 光の中に見えたのは、私にとっては見覚えのある顔だった。

「フッ……どうやら格好良く間に合ったようだね」

 吟遊詩人めいた格好をした、長身痩躯の金髪――ヒュアキン。

「見殺しは許されない……だからこそ、救出は許される」

 毒々しい色のローブで全身を覆った少女――エル。

「ところで別行動の囮っテ、ちゃンと報告書に載るのカ?」

 そしてぼさぼさに跳ねた赤い髪を持つ、無邪気そうに見える無謀な少年――エクス。

 誰しも、私が同行したことのある冒険者に他ならなかった。

「どうして、みなさんが……」

「実は彼らも請け負っていたのよ、この依頼をね」

 混乱する私に、ローザが答えてくる。

「陽動を行い、外の見張りを引き付け、倒しておいてくれたのも彼らよ。貴女が油断するといけないから、隠していたけどね」

「そ、そうだったんですか!?」

「すまないな、騙すような形になってしまって」

 人質のふたりを解放したマナガンが、どうやら彼もすっかり知っていたように、申し訳なさげに言ってくる。

 私は首を横に振った。きっと彼女らの考えは正しかったに違いないのだから。

「さて。それじゃあそろそろ決着を付けましょうか、ネスト」

「う、ぐ……」

 恐る恐る後退しようとしていたネストが、ローザの視線の糸に絡め取られる。

 それにより、逃げることはできないと観念したのかもしれない。

 いや、観念というのは間違いか――少なくとも怪物は、まだあがいていた。あがいて、だからこそ後退ではなく、前進してきたのだ。

 天井を蹴り、マナガンの方へと。

「……っ!」

 喫驚はマナガンか、あるいは他の冒険者のものか。いずれにせよ声にはならなかった。それよりも早く蜘蛛の怪物は複数の足でマナガンを蹴り飛ばし、彼の抱えていた人質のひとりを奪い取った。

 オデッサだった。

 少女の方は、まだマナガンがしっかりと抱きかかえている。そちらを優先して守ったというところだろうか――なんとなくいやらしい抱え方だったのでマイナス一点だが、ともかく。

「動くなァ!」

 それぞれの冒険者が飛びかかろうとするのを牽制し、ネストは声を張り上げた。おぞましい音声が地下に響く。

 彼は足(あるいは手か)から生えた鋭い爪を見せ付けてきた。そしてそれを、まだ目を開けていないオデッサの首筋に触れさせる。

 全員が息を呑むのがわかった。ローザは眉間に皺を寄せ、マナガンは口惜しげに立ち上がる。しかし動くことはできない。

 身構えたまま、しかし硬直する冒険者の群れに、ネストは多少、余裕と優越感を取り戻したらしい。ケケケと不気味に笑い、オデッサを盾にしながら、残る手だか足だかを使って眼前の冒険者を追い払う仕草をしてみせる。

「どけ、道を空けろ! こいつを殺されたくなかったらな」

「……随分と、陳腐で小物な台詞だな」

「うるせェ! 最終的には生き残れば勝ちだ。なにしろこっちには、あのお方が――」

 そこまで言って、ネストはふと気付いたようだった。

 たった今、自分を愚弄した冒険者は誰なのかということに。視線を這わせても、誰一人として口を開いて”いなかった”ということに。

「生き残ればいい? つまり、お前の負けってことだろ」

「こいつ……!」

 驚愕して、ネストはその相手に視線を向けた。自分が盾にしている冒険者、オデッサに。

 彼は目を閉じたまま、しかし薄く口だけを開けていた。犬歯を覗かせ、囁く。

「俺は待ってたんだ、馬鹿がこうやって近付いてくるのをな」

 同時に、彼の身体に撒き付けられていた糸が解け落ちる。

 その手には剣が握られていた。真っ直ぐに、ネストの脇腹へと突き刺さる剣が。

「ぐぎぁああああああああっ!?」

 悲鳴を上げて飛び退く怪物。それができたのは、オデッサがまた気を失ってしまったかららしい。ヒュアキンが即座に駆け寄り、その身体を倒れる前に受け止めている。

 ネストはそこに、何か怨嗟の声を吐いたかもしれない――しかし私は気に留めなかった。他の冒険者も同じだろう。それだけの余裕がなかったのだ。

 またその怪物がどんな形相でこちらを睨み付けていたのかもわからない。それは私たちの誰も見ることができなかった。

 なにしろ私たちは全員――その時には既に背を向けて駆け出していたのだから。

 ただ、悪魔的な微笑を湛えるローザの声が、地下の暗闇に響く。

「さっきも言ったけど、陽動をしていたのは彼らなのよ。この意味がわかるわね?」

 怪物がわかったのかどうか。それを確かめる術はなかった。

 私たちがやらなければならなかったのは、激震でも足を止めないことと、落下物に注意して脱出することだけだ。

 この建物が――爆弾によって崩落する前に。

「ちょ、ちょっと待て! それは流石に反則だろうがァ!」

 痛みと絶望とに、ほとんど涙ながらになった声が。

 暗闇の奥から聞こえた気がした。


 こうして――魔獣盗賊団は壊滅したと言える。

 少なくともボスであるネスト以外は捕縛することに成功した。

 誘拐された神官の娘は、衰弱しているものの命に別状はなく、帰還中にも意識を取り戻したし、青年冒険者のオデッサも同じく無事だった。

 ふたりは帰還後に早急な治療を受け、少なくともこの報告書を記している時点で、既に退院の目処が立っている。

 これにより、間違いなく依頼は全て完了したのである。

 報告者:ランク二同行員、リコネス・フォークロア

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