第40話
彼は生きているようだが、意識は失っているように見えたし、少なくとも動きは封じられており、糸によってどれほどの傷を負わされているのかも判然としなかった。
「あ……あ、ぁぁ……」
意味のない呻きがリコネスの口から漏れる。ローザはそうした恐れをこれ以上引き起こさせないためか、ランプの光を冒険者から遠ざけ、代わりに敵をふたりとも映し出すようにしていた。
かといって、リコネスの中に湧き始める怖気を取り除くことはできなかったが。
(大丈夫だと思ったのに……今度こそ、上手くいくって……)
「言っただろう。人間無勢では敵わんとなァ」
人間を溶かす毒液のような、脅威と不気味さを醸し出すどろりとしたネストの声が聞こえてくる。それはリコネスに巣食い始めた絶望を後押しするようでもあった。
「何しろお前たちはこうやって、簡単に罠にかかってくれるのだからなァ」
ネストの言葉に、嘲りを含む笑い声を上げたのはストリングである。肩を揺らして――黒く暴悪な双眸が、リコネスを睨み据えた。
「この前に潜入してきた時もそうだったな。俺が張っておいた糸にもかかってくれたおかげで、すぐに気付くことができたぞ」
「張っておいた、糸……」
言葉に、リコネスは呟き返す。頭の中に何かが、それこそ糸に引っかかるような違和感を抱き、それを必死に思い出す。
が、そうしなければよかったと後悔したのは、思い出してからだった。
(そういえば最初、この建物に入った時……何度か蜘蛛の巣に当たって……)
それこそが侵入者を伝える警報器だった、ということだろう。リコネスがそう気付いたのを理解したように、ストリングはさらに笑った。
「おかげで待ち伏せはしやすかったし――牢の待ち伏せに引っかかってくれたのも、確かそっちの女だったな」
「っ……!」
「感謝してるぜ? お前が特に馬鹿だったおかげで供物が増えたんだ」
ぞくりと、リコネスは身体を震わせた。少なくともその一瞬で、リコネスは心中に多少なりとも抱いていた前向きな感情を、全て真っ黒に塗り潰された心地だった。
今度こそ首をもたげ、黒い沼の底から大口を開けて人間を呑み込もうとするように、湧き上がってくるのは何度も聞いた、己を苛む呪詛に他ならない。ましてそれが今度は、微かに残された自分の考えすぎや、突発的な悲観主義によるものなどではなく、純然たる事実として、これまで以上に強く突きつけられていた。
もはや自分を責め立てる声は幻影などではなく、その失望は悲観などではない。
(私の……私のせいで……)
リコネスはある種の耐え難い恐怖の中で周囲を見回した。
そこに広がるのは暗闇ばかりで、オデッサも、人質の娘も、マナガンの姿も見えない。ランプの明かりが照らしているのは、自分ではなんらの対抗策も持ち得ないおぞましいモンスターたちの姿だけであり、それらは明らかな嘲笑に顔を歪め、皮肉に蔑んでいた。
(逃げる……できない、そんなのできない。逃げられない、逃げたくない、逃げる、逃げられない、逃げたい、逃げられない!)
真っ黒な視界が、不意に何度も明滅するように赤く染まり、リコネスは絶望的な状況で自分が発狂しそうになっているのだと自覚した。
逃げる、あるいは逃げたいという言葉がひたすらに頭の中で繰り返され、そのたびに頭蓋骨が割れるような痛みに襲われ、そのたびに視界は揺らめく赤色に染め上げられ、ぐらぐらと揺れていく。
それはこんな状況にあるというのに逃げだそうとしてしまう己への自責や叱咤、さらに自分自身への失望や冒険者たちへの強い悔悟の念によるものだったかもしれない。
足の感覚が失われ、立っているのか倒れているのかもわからず、内臓から身体を持ち上げられているような、不愉快極まりない浮遊感と嘔吐感に苛まれた。
「私、私は……私のせいで、私の!」
泣いていることは自覚できず、声を発したかもわからなかった。その場でうずくまろうとしたかもしれないが、身体は震える以外の動きを一切許さなかった。
「私は、何もできない……! できない、何もできない、できないできないできないできないできないできない!」
泣き叫んでいたかもしれない。頭を抱え、遂には本当に発狂していたかもしれない。しかしリコネスがそれを自覚することはできなかった。現状にも、己にも絶望して、またなんらかの耐え難い、鮮烈で恐ろしい白昼夢を見るかのように、理解しがたい、その場にはないはずの絶望的な光景までもが、真っ赤な視界の中に映し出されてしまうほどだった。
目の前にひとりの人間が立っている。赤い視界、震えるように揺れる赤色の中で、黒い人影。それが次第に赤に包まれ、溶けるように失われていくのだ。それでも自分は全く動けなかったし、あるいは自分の眼球こそがそうして溶けていたのかもしれず、ひょっとすればその方がよかったとさえ思うほどの、物理的な激痛を伴う苦痛が体内外を襲い回っていた。
ひょっとしたら目の前で、本当に同じ光景が広がっていたかもしれないと思える。そうでないという保証はなかった。ただ、炎が弾け回るような地獄めいた音と、意味のない、心中から湧き起こる絶叫だけが耳を支配する中で、遠く微かに声が聞こえていた。
希望のものではないと、リコネスは理解できた。そうしたことだけはハッキリとわかった。敵の声だった。
「安心するといい。今度こそお前も捕まえてやるからなァ!」
赤い視界に、白が混じる。希望のない白。命を刈り取り、白紙に戻すという意味の色だろう。リコネスは見えていた。絶望だけは見える。
だから――それが途中で止まったのは、全く不可解なことだった。
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