第39話
それはまさしく怪物だった。
背中から生える脚だけではない。人間と同じ場所にある手足も、よくよく見れば全く形状が異なっている。足は強靭そうな一本爪で、手は五本指に分かれているが、間接はなく、手の平から直接爪が伸びているというものだった。
身体は確かに人間のものである。恰幅がいい中年といった様子で、盗賊めいた服も着ている。また顔の輪郭も人間のものだった。目が多いわけでもない。ただ、まぶたがなかった。見開かれた呪いの宝石のような赤黒い眼球が、ぎょろりとこちらを見据えている。
口からは人質に巻き付いているのと同じ、白い縄が伸びている。リコネスの頭上を通り過ぎたものが、まさしくそれだった。つまりはその男――恐らくは男だろう――が吐き出した、蜘蛛の糸だったということだろう。
見れば天井に張り付いているのも、そこに突起物があるわけでも、爪を天井の土に突き刺しているわけでもなく、その糸を張り巡らせているためのようだった。
蜘蛛の男は気味の悪い顔で薄っすらと笑った。糸を口の中で切ったらしく、不気味に糸が落ちる中、
「残念だなァ、避けられちまったか」
ドスの利いた、どろりとした声が地下牢に反響する。
リコネスはそれに続くように、喫驚に声を上げていた。
「と、盗賊が、モンスター!?」
「馬鹿な、モンスターが人間に協力など……いや、そもそも人語を解するモンスターなど!」
同時にマナガンも、信じがたい面持ちで驚きを口にする。
モンスターはいずれも理解しがたい発生をしているが、それでも多くは特殊な能力を持った”動物”と言える範囲にある。伝説上では、稀にドラゴン種族が人間となんらかの交渉をする、という場面も描かれているが――少なくとも目の前にいるのは、ドラゴンなどという恐るべき最上級モンスターには見えなかった。
しかし蜘蛛の盗賊は、そうした驚愕を嘲るように鼻を鳴らした。
「ふん、人間の殻に縛られた浅慮で測らんでもらいたいなァ。我々は¨ある方¨によってこの素晴らしい力を手にいれたのだ」
「ある方?」
片眉を吊り上げるローザ。蜘蛛はその疑問に機嫌を良くしたのか、勝ち誇って声を上げる。
「そうだ。お前たち人間無勢など足元にも及ばない、崇高なお方だァ! 我々はその方に絶対の忠誠を誓うことで、力を手に入れたのだ」
それがその魔物の身体だと言わんばかりに、人間の後ろ足だけで天井の糸にぶら下がってみせる。逆さまに立つ八本足の、人間を侮辱するような奇怪な怪物の姿に、リコネスはある種の嘔吐感すら覚えていた。
だが当人の方は、そうした人間の不気味がる、不快な感情を見ることこそが愉悦であるようだった。逆さまのまま、おぞましく口を歪めて笑ってくる。そこには明確な嘲りと侮蔑が含まれ、また自己の優越感を言葉として発してきた。
「ついでにもう一つ言っておこう。我々は人間に協力しているのではない。なぜなら盗賊団を取り仕切っているのが――この、ネスト様だからだァ!」
蜘蛛――ネストは逆さまのまま身体を仰け反らせると、反動をつけて糸を噴き出してきた。狙ったのはマナガンと、牢から出てきたリコネスの両者らしい。
しかしどちらも危機を察知し、咄嗟に横へ飛び退いていたため、どうにか難を逃れた。標的のいなくなった地面におぞましい糸が数本、長大な矢か、あるいは槍のような威力で突き刺さる。
「いいだろう。お前がボスだということは、つまりお前を倒せば全てが終わるということだな!」
地面を抉る粘着質の糸を横目に、マナガンは吼え、飛び上がった。
斧を手に、天井のモンスターめがけて大きく腕を振り回す――
が、その一撃はあっさりと空を切った。ネストは既に、伏せるように天井の”巣”に張り付き、全く手の届かない位置に逃れている。
そもそも地下牢の天井は、脱獄を困難にするためだったのか、無闇に高い。リコネスがふたり並んでも、長剣を精一杯高く突き上げなければ届かないだろう。鎧で武装した、重量のある体躯をしたマナガンでは、そこまで飛び上がるのは難しい。
「無駄だ、無駄だァ! 人間無勢が、我々の力にも、頭脳にも及ぶものか!」
「外したか……しかし地下牢の天井で、何をほざいている」
「こうした限らせた空間ですら、お前たちに勝ち目はない、ということだァ。そしてそれを今、さらに思い知らせてやろう!」
再び、糸が発射される――
しかしそれは、ネストからではなかった。全く別の、暗闇の中から突如として現れたものだ。
狙われたのは他でもなく、マナガン。注意を天井のネストに集中させていた彼に、横から吐き出されたそれを避ける術はなかった。
がごんっ! と鋼鉄を打ち合わせるように鎧が叩かれ、一瞬にして彼の身体が吹き飛ばされる。鉄格子を叩くけたたましい音が響き、同時に彼の呻き声が、暗闇の中から聞こえた。
「な……」
声を上げたのはリコネス。状況の変化に全くついていけず、喫驚に目を丸くしたまま口を開けるしかできない。
一方で、ローザは素早く、糸の吐き出された先へとランプを動かしていた。そこで照らされたのは――黒い肌と瞳を持つ、スキンヘッドの盗賊、ストリングだった。彼の口から、白い糸が伸びている。
「貴方も同種だった、というわけね」
「まさか人間にここまでやられるとは思ってなかったがな」
忌々しげなローザの言葉に、盗賊はあっさりと頷いた。ごきごきと首や肩を鳴らして。
「まあ、その分たっぷりとお礼をしてやらねえとな」
次の瞬間、ストリングは再び糸を噴き出した。狙いは視線を厳しくさせるローザでも、震えて怯えるリコネスでもなく、暗闇の中――そこにいるはずのマナガンだった。
そこでまたしても硬質な音がいくつも響き……ランプの光が向けられると、牢の格子に背中を押し付けられながら、手足に糸を絡ませられ、鎧に何本もの恐るべき糸を突き立てられたマナガンの姿が浮かび上がった。
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