第38話
リコネスはハッとして振り返った。声の主の方にではない。背後に迫っていた盗賊、ヤーンに対してである。
距離はほとんどない。相手の攻撃範囲に入るまで、あと一歩か、二歩か。しかしその中でも、リコネスは必死に相手を注視した。
向かってくる敵。それを前に、使われたことのない刃を正面に構える。
盗賊が一歩、そして二歩目を踏み出そうとした時、リコネスも飛び出した。体術などない。ただ闇雲に、自棄のように身体を投げ出し、腕を突き出す。
目を閉じなかったことだけが、全くの少女との違いだったかもしれない。リコネスはひたすらに相手を見据えていた。少女からすれば恐ろしく素早い動作で、明らかに自分の剣が届くよりも早く、相手の棍棒が頭に向かって振り下ろされるのを。
避ける術などなく、そもそも思考も追いつかない。しかし見ていた――それが本当に触れる直前、盗賊が不意に、足を払われたかのように体勢を崩し、大きく仰け反るのを。
リコネスはそのまま短剣を突き出した。その真新しい刃が、ばたつくように投げ出された男の二の腕に突き刺さる。
「っがああああああ!」
激痛に、盗賊は悲鳴を上げた。リコネスは反射的に手を離し、怯えて半歩ほど飛び退いていた。
棍棒を落とし、利き腕を破壊されてのた打ち回る盗賊。少女はその姿と、自分の手とを交互に見下ろした。手の平には肉を貫いた、不快な感触が残っている。そして目の前に、その結果が倒れている。
「わ、私は……!」
少しすると、盗賊は絶叫をやめた。気絶したらしい。
リコネスは目の見開き、それを見つめ続けていた。呼吸が荒くなる。手足が震える。口の中が乾き、嫌な苦味を覚える。
そうした肩に、優しく手が触れた。びくりと飛び跳ねそうなほど喫驚し、振り返る。そこにいたのはローザだった。
「覚えておきなさい、その感触を」
彼女は囁くように言いながら、手を引いた。そこにはいつの間にか鞭が握られており、先端はヤーンの足首に伸びていた。
種明かしというつもりでもないだろうが、ローザは軽く肩をすくめる。
「流石にまだ、貴女に命を乗せることはできないけれど、その一端を感じさせることはできるわ」
「ローザさん……」
名前を呟く声は、畏怖とも感謝とも呼べる。そのどちらか、あるいはさらに別の感情であるのかは、リコネスにはまだわからなかったが。
「話は後だ。ともかくこれで邪魔はいなくなった。早くふたりを」
「あ……は、はい」
歩み寄ってきたマナガンの言葉に頷いて、リコネスは最奥の牢へと駆け寄った。
格子の扉を開け、以前のトラウマから慎重に中に入り、左右を見回す。ローザが掲げてくれたランプの明かりの中には、敵らしき姿は見えなかった。
そこにいたのは神官の娘と、オデッサだけ。しかし奇妙なことに、ふたりとも白い縄のようなもので、全身をくまなく縛り上げられていた。首の下から足先まで、縄に包まれているような状態だったのだ。
「これって……」
奇妙な状態ではあった。身動きを封じるのに、これほどまでする必要はない。まして、ふたりは完全気を失っているようだった。
縄自体も奇妙である。正確に縄と呼ぶには一本一本が細すぎる気もするし、どこか粘着質のようにも思えた。
リコネスはそれに触れてみようとして、恐る恐る手を伸ばし――
「危ない、避けろ!」
地下牢にけたたましい警報のような声が響いた。それが向けられたのは自分だろうと、リコネスは直感できた。またそうでなかったとしても、身体は反応した。
声の望む通りの回避ではなかったかもしれないが、咄嗟に身を屈める。それとほぼ同時に――その頭上を何かが通り過ぎていった。
それは気を失っているふたりの頭も掠めながら、奥の壁に突き刺さったらしい。リコネスは恐々として顔を上げる。
見えたのは、白い縄の束だった。ふたりを縛り上げているのと同じものだ。今はピンと、視界を斜めに分断するように、一本の棒として壁に突き立っていた。
リコネスがもう一方の端を探すと……視線は天井に行き着いた。
通路の天井に、黒くずんぐりとした影がある。白い縄はそこから伸びているらしい。
「何者だ!?」
マナガンが声を上げ、ローザがランプの天井に向かってかざす。見えたのは――人間だった。天井に逆さまに張り付いた、恐らくは盗賊の仲間なのだろう。
しかしそれは一見してストリングたちとは違う、全く異質の生物として認識できた。少なくともリコネスは見た瞬間に戦慄して血の気を引かせ、口の中で小さな悲鳴を上げたほどだった。
間違いなく、人間の形を持っている。しかしその生物は、同時に明らかに人間ではあり得なかった。それには人間の手足とは別に、背中から四本の、蜘蛛の脚を生やしていたのだ。
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