第37話
地下牢の通路は、まだしも平穏だった。遠雷のように微かな爆音が聞こえることもあるが、地鳴りがするようなことはない。土を踏みしめる足音の反響の方がよほど大きく、また不気味だった。
景色は以前と何も変わっていない。仮に変化があっても気に留めることはできないだろうほど暗闇に包まれているが、何より変化していてほしかったおぞましい悪臭は、以前よりも濃度を増したようにさえ思えてしまう。
ランプを持ったローザが、ひたすらに前方のみを照らしてくれるのが救いだった。光の指先が触れる鉄格子の先端や、天井付近に残る蜘蛛の巣の残骸が、抵抗するように不吉な気配を醸し出してくる。
「今更だが」
不意にマナガンが、反響する足音に紛れるように口を開いた。
「敵との戦闘では慎重になった方がいいだろうな」
「本当に今更ね」
答えたのはローザである。静かに、淡々として。
「あんな潜入をしたのだから、慎重も何もないと思うけれど」
「交戦すること自体に慎重さを要求しているわけではない。戦闘になった場合の話だ。気になっていることがあるのだ――オデッサの言葉」
「そういえば言っていましたね……何かがおかしい、って」
「何がどうかはわからない。しかし彼は明らかに異変を察知し、そのために我々を逃がしたのだ。警戒しなければならない」
リコネスは腰に帯びた鋼鉄の刃を意識した。普段は同行員に支給される護身用のナイフだが、今は戦闘用の短剣を携えている。冒険者ライセンスを取得した際に購入した自前の剣だが、今まで一度も鞘から抜かれたことがない。
やがて……正体の知れない不安と、それに対する警戒心を抱きながら地下牢を進んでいくと。ざりっ、と音を立てて、一行の足が止まる。
そこは、以前にもそうして止まった場所と全く同じだった。
ランプの光が、微かに最奥の牢屋を照らしている。そこには以前と違い、ふたり分の足が見えた。未だ捕まったままである神官の娘と、青年冒険者オデッサ。
ふたりとも全く動かないが、かといって命を落とした静けさとも違う。全身を照らし出せば無事であることが明らかになるだろう。
リコネスは無理矢理にでもそう確信して、今はそれよりも眼前を見据えた。
そこには以前と違い、最初から立ちはだかっている者がいた。ストリングと名乗った、頭髪を剃り上げた盗賊。隣には幾分か貧相な、背の低い男がいる。うすらぼけた眼に、下顎の突き出た顔立ち。それらをハッキリと、落ち着いて認識するのは初めてだったが、恐らくヤーンと呼ばれた方の盗賊だろう。手には棍棒を握っている。
声を発したのは、マナガン。
「お出迎えとは、盗賊にしては礼儀正しいな」
「手土産に俺たちの要求した神像を持って来ていれば、もっと歓迎してやったんだがな」
言いながら、ストリングはナイフを構えた。
マナガンも斧を手に、半身を引いて戦闘の体勢を取る。リコネスは恐怖に竦んでいたが、遅れまいと短剣を抜いた――初めて、その真新しい刃が外気に触れる。
盗賊が言ってくる。ランプの僅かな明かりの中で、ナイフの銀色を煌かせながら。
「どうしても渡せねえっていうなら――お前らが代わりの供物だ!」
雄叫びのような声で、戦いは始まった。
マナガンが咄嗟に横へ飛び退き、リコネスたちから離れる。ストリングはそれにつられて方向を変えた。
結果としてリコネスに向かってきたのはヤーンである。以前は背後からの一撃によって、戦うも戦わないもなく打ち倒された相手。それを今度は真正面から、そしてリコネスも冒険者として、戦わなければならないという意志によってそれを迎え撃つ。
視線を強くし、盗賊の動きを注視する。先んじて攻撃を仕掛けなかったのは、自らの身体能力が極めて低く、体術も剣術もなく、先手の困難さを理解していた――というためではない。そもそも根本的に後手の方が困難には違いなく、彼女が目に力を入れたのは、他の部位が先頭の恐怖に怯え、動こうとしなかったために他ならない。
ヤーンが以前と同じように一撃必殺を狙うためか、側頭部目掛けて棍棒を振り回してくる。リコネスは辛うじてそれに反応した。慌しく身をかがめ、その頭上を通過させる。
さらに相手の腹部ががら空きであることに気付くと、無我夢中で体当たりを仕掛けていった。
(これで……!)
その肩を突き出した一撃は、冒険者を見てきただけあってか、様にはなっていたかもしれないが――
「えっ!?」
しかし少女と盗賊の間において、体重も、脚力も、全く不足しているのは明らかだった。盗賊は少女の突進に僅かに面食らっただけで、突き飛ばされることもなく足を踏ん張り受け止めていた。
彼は嘲笑したのかもしれない。口の端が吊り上がるのを、リコネスは見た気がした。そして次の瞬間に突き飛ばされる。
ほとんど倒れそうなほどよろめき、後退してしまうと、盗賊がそれを逃すはずもない。ヤーンは再び、しかし今度は真っ直ぐ、上から棍棒を振り下ろす!
「きゃっ……!?」
リコネスはその瞬間、踏ん張ろうとした片足を滑らせ、後ろ向きに転んでいた。
どがっ! と、棍棒が鈍く激しい音を立てる。それは小規模な爆発のように僅かな砂煙を上げ、小石や砂利を弾き飛ばした――リコネスはそれを間近で見ていた。転んだ自分の足の間にある地面に、棍棒が叩き付けられている。
「っ――!」
しかしその幸運に感謝する暇も、悲鳴を上げる暇もなかった。声を発しようとしたリコネスに先んじて、ヤーンは明らかに不愉快そうに顔を歪めると、素早い動作で再び棍棒を打ち付けてくる。
リコネスは必死に身をひねり、それから逃れた。なおも追ってくる盗賊の棍棒から距離を取ろうとして……かといってランプの明かりの外に出ることはできず、その境界線をなぞるように逃げ回る。
がしゃんっ、と背後で音が鳴ったのは、棍棒が牢屋の格子を叩いたためだろう。
以前の記憶が蘇り、その時の痛みを、無力を思い出したように、血が凍る。悲観や諦観が鎌首をもたげ始めてしまう。
そうしたリコネスの双眸に映ったのは、もうひとりの盗賊、ストリングと戦いを繰り広げるマナガンの姿だった。
まさしく以前の再戦という様相で、互いに強烈な殺意を発しながら、刃を打ち合わせている。もっとも斧をナイフで受け止めきれるはずはなく、ストリングの方は受けるというより流すという戦闘方法だったが。
マナガンの大柄な体躯と斧という力強い武器は、容易に一撃必殺の威力を生み出すことができる。それは全力で打ち込めば、人を殺して有り余るほどであり、ある意味で無駄な破壊力ではあるが――逆にそうした威力が存在すること自体に意味があった。つまりは防御を躊躇わせ、回避に専念させたところで、振りを小さくして直撃を狙うのだ。
ストリングは以前の戦いにおいて、それを上手く翻弄していたのだろう。力のない攻撃のみを的確に受け止め、大振りの一撃を使用しなければならないと思わせていたに違いない。
しかし歳経た冒険者が、同じ撤を踏むことはなかった。今度は反対に、受けようとすれば威力を高め、ストリングに対して回避への専念を強要していた。
結果として、マナガンは圧倒的に手数で勝り――
とうとう回避が間に合わなくなった防御の上から、盗賊を弾き飛ばした。
「がふ……っ!」
暗闇の中に消え、鉄格子を鳴らすストリング。
リコネスはその戦いの結末を見て、助けを求めようという考えが全く浮かばないわけではなかったが――逆にそれだからこそ、咄嗟に足を止めていた。冒険者の戦い。それを目の当たりにしたために。
ただ、かといって自分を追う盗賊に立ち向かう術が思いついたわけではない。
(私では、何もできない……?)
浮かんでしまう、もはや聞き慣れた自分を責める声。その存在に少女はぞっとして――
「戦いなさい、リコネス!」
不意に。それが全く別の声に変わった。
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