第33話

「陳腐な罠だが、陳腐な潜入には効果的だよなァ?」

 低く、どろりとした口調で、それは言ってきた。暗闇のせいで、姿はほとんど確認できない。二度目の激痛に、また意識を朦朧とさせたかもしれない。

 いずれにせよ、その人影がそれ以上全く無害であり、自分たちをここから大人しく逃がしてくるということはあり得なかった。腰をねじり、拳を振りかぶっている。手には鉄の爪のような、鋭い凶器が見えた。

(罠、だった……? 待ち伏せていた、敵がいた、私がそれにかかった……私が……)

 息が詰まり、絶望に絶叫することもできない。引きつった呼吸が繰り返される。

 鉄の爪がリコネスを狙っていることは明白だった。一撃で命が終わるだろう。その後にはどうなるだろうかと、悠長な考えが浮かんでしまう。

 奥で倒れている人質の娘は。人数で不利になる冒険者は。依頼主は。

(全部、私のせいで……!)

 人影の鉄爪が、自分に向かって振り下ろされる――

 しかし。ぎんっ……と一つの硬質な音を立てて、それは中空で止まった。

 リコネスは目を開けていた。閉じることもできなかった。だからこそ見ることができた。突如として自分の目の前に飛び込んできた、さらに別の人影を。

「あァん……? 誰だァ?」

 暗闇だが、眼前に立つその背中は見ることができる。見覚えもある。ここまでの道中、ずっと眺めていた。

「オデッサさん……?」

「何してやがる、さっさと逃げろ!」

 青年冒険者は叫び、受け止める爪を、人影を弾き飛ばした。その上で距離を詰め、リコネスが逃げるだけのスペースを作り出す。

 しかしリコネスは動けなかった。

「で、でも、オデッサさん……!」

「こっちだ!」

 横から、また別の声と、腕が現れた。それに強く掴まれ、牢の中から引きずり出される。ほとんど地面を滑るような形で、リコネスはランプの光が届く場所まで連れ戻された。

 身体を擦った痛みを無視して顔を上げると、そこにいたのはマナガンである。彼は――瞬間、大きく腕を振り回した。

 斧がリコネスの頭上を通り過ぎる。そして、近付いていた盗賊、ストリングを後退させた。しかし入れ替わるように、ヤーンが横へ回り込んでくる。今度はそれを返す刃で牽制する。それでヤーンの方もすぐに後退したが――

 そちらは単純に離れるだけでなく、オデッサが入ったままの牢の方へと駆け寄っていった。

 彼が何をするのかはすぐにわかった。マナガンの方に視線を向け、牽制したまま、後ろ手で牢の格子を閉める。

「なっ……オデッサさん!」

 悲鳴のように叫ぶ。しかし答えてきたのは彼自身ではなく、彼が格子に叩き付けられる音だった。

 がしゃんっ! と錆び付いた格子が危ういほどに激しく鉄音を響かせながら、そこに青年冒険者の背中が押し付けられる。

「…………」

 リコネスは絶望的な心地で、何かにすがるように周囲を見やった。

 背後にはストリングがナイフを構え、前方――牢の方にはヤーンが棍棒を手に、挟み撃ちする態勢を取っている。

 そして牢の中では……もうひとりの盗賊が、オデッサを圧倒していた。人質の娘もその牢の中に残されている。

 しかし再び錠は閉じられ、また隙を突いて開けに行くことはできないだろう。まして、このままでは圧倒的に不利だった。

「私……私が……」

 がくがくと視界が揺れる。脳震盪の類ではない。自責と絶望による眩暈だった。

(どうしたら……みんなを助けないと、助けないと!)

 激しい狼狽の中で、しかし答えは出なかった。自分に何ができるのか――何もできない。その言葉が、また頭の中に浮かんでしまう。

 リコネスは呼吸を引きつらせ、それでも必死に考えようとして――

 二度目。再び、オデッサの身体が格子に打ち付けられる音が響いた。そして同時に。

「逃、げろっ……こいつ、何かがおかしい! 一度退け!」

「そんな、何を言って……!」

 反駁しかけたのはリコネスで――マナガンの方は、一切の迷いがなかった。

 ちらりちらりと前後を同時に視線で牽制していた中年の冒険者は、オデッサの言葉を聞くと同時に駆け出していた。

 牢とは反対の方向に、である。

「えっ!?」

 リコネスは、その途中で抱き上げられていた。牢の方を向きながら、マナガンに抱えられて来た道を戻っていく。

 視界の中にある牢が、そこに背中を押し付けられた冒険者の姿が、瞬く間に遠ざかる。暗闇でほとんど見えなかったものが、今度こそ全く見えなくなる。

 見えなくなる。リコネスの視界から、冒険者は遠ざかり、見えなくなる。

(私は……私は、私は……!)

「逃がすか!」

 盗賊の声が背後、つまり進行方向から聞こえてくる。マナガンは何も言わなかった。無言で、しかし一切止まることなく盗賊の繰り出すナイフを避け、そのまま横を通り抜けていく。

「ま……待って、待ってください!」

 リコネスがようやく状況を理解したのは、その頃だった。引きつった、ほとんど涙声のような声音で、狂乱するように叫ぶ。

「このまま、逃げてしまうんですか!? オデッサさんも、人質の子も……!」

 それを言う資格が自分にないことはわかっていた。けれどそれでも、言わずにはいられなかった。

(逃げる……冒険者を置いて、私だけが逃げる……逃げる、にげるにげるにげる! また私は!)

 揺れる視界が、暗闇の黒から赤に変わる。それは錯覚だっただろうが、ハッキリとした感覚でもあった。わけのわからない感情が、全身を叩き付けるほどの痛苦となって襲ってきた。狂いそうになっていると、狂った感情が伝えてくる。ぼろぼろと涙が溢れ、わけもわからず大口を開け、声も上がらないほど、喉から血のような息を吐き出していた。

 しかし、マナガンはそれでも止まらず、黙したまま。ただ全ての力を逃走のために向けているように、暗闇の地下牢を賭け続けた。

 看守の部屋を通り抜け、階段を駆け上がり、扉を蹴破って警察署内の通路に出る。受付カウンターにまで戻ってくると、そこには盗賊が待ち構えていたが――

「はああああッ!」

 裂帛の気合と共に、彼は斧を振り回し、四人いた盗賊たちを恐怖に後退させた。おかげで包囲に風穴が空き、その生まれた隙間を通り抜けて建物を脱出する。

 盗賊はやはり追ってこようとしたようだったが――マナガンは廃屋の陰に潜り込みながら追跡を振り切り、街道までの道を駆け続けた。

 リコネスは……激発する感情に、絶叫を上げたかもしれない。

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