第32話

(何もできない……私は、何もできない)

 朦朧とする意識の中で、リコネスの頭に浮かんだのはその言葉だった。

 何度も繰り返し、自分を苛み続ける言葉。否応なく自覚させられる事実。

(何が起きたのか……それを理解することも、できていない。私は、どうなったの……?)

 そんな疑問とも呼べない疑問が自分に投げかけられる。

 答えはない。

 しかしそれでもリコネスは半ば無理矢理に、現在の状況を頭の中に並べていった。

 頬には冷たく、凸凹とした土の地面の感触が触れている。うつ伏せに倒れているらしい。転んだというはずもない。背後から何かが現れたのを覚えていた――

 つまりは後頭部を鈍器のようなもので殴打され、為す術もなく倒れ伏した、ということだろう。リコネスはしばしの時間をかけて、ようやくそれを理解した。

 そして理解した瞬間から、頭痛が襲ってくる。何度も殴り続けられているような痛みだ。

 もちろん、実際にそんなことはない。自分を殴った相手――背後に隠れていたのだろう盗賊は、既に自分を通り過ぎ、冒険者と戦っているはずだ。その剣戟の音も聞こえていた。

(冒険者さんの戦い……見て、いなくちゃ。私が、それを見て……)

 収まらない頭に響く衝撃と激痛とに、視界がぐらぐらと揺れ続ける。それでもリコネスはなんとか顔を上げようとした。

 ランプは自分が持っていたため、床に転がってしまったらしい。幸いにも火は消えていない。その光の中に冒険者たちの足が見えた。四対、八本の足。

 マナガンもオデッサも腕の立つ冒険者だが、驚くべきことに盗賊もそれに拮抗しているらしい。忙しなく動き回るそれを見ているだけで、戦いの激しさがわかる。

(見ていなくちゃ……私は……)

 身体を起こそうとするが、腕も足も震えるばかりで力が入らなかった。回復するのにはまだ少しの時間が必要らしい。それまでは――戦いを見ることもできない。

(できない……また、できない……私はそんなこともできない、何も……!)

 狂乱しそうだと、リコネスは不意に自覚した。無力に喘ぐしかできないのが悔しくて、果てしない失望が襲ってくる。

(ここに来るまでの間だって、私は何もできなかったのに……なんの役にも立っていなかったのに!)

 そうしてもがくうちに、目の前を突然、何かが覆った――

 マナガンだった。盗賊に押し込まれ、転倒させられたらしい。しかし次の瞬間には飛び跳ねるようにその場から消える。彼を追いかけてリコネスの眼前に突き立てられたナイフも、すぐに引き抜かれて消えた。

 あと僅かに、マナガンが避けるのが遅ければ。そう思ったのは一瞬後だった。あと僅かに狙いが逸れていれば、と考えたのはさらに後のことだ。

(ほんの僅かな差……その中で、命を懸けて戦っている……)

 激しく動き回る冒険者の足。彼らにとっては当たり前の体捌き、戦闘術かもしれない。けれどそれが少しでも遅れれば、少しでも違えれば、少しでも上回られれば……命は簡単に終わってしまう。

 リコネスは不意に、そんな当たり前のことを意識した。

(私は何もできない……私だけが、命を懸けていない。何もできずに……)

 頭痛が激しくなる。がりっ……と、指先が固い土の地面を削る。

 だからというわけではないが――リコネスはふと、地面に意識を向けた。見ることのできない冒険者ではなく、辛うじて見ることのできる地面の上。

 そこに、一つの光るものが落ちていた。冒険者たちが戦う足と、自分との間。手を伸ばせば届く距離にある、ランプの明かりを浴びて、どこか赤く光る小さな金属。

 それが牢の鍵であることは、すぐにわかった。マナガンが持っていたものだが、先ほどの転倒で落としたのだろう。

(私は……)

 ふと、痛みが引いた気がした。身体にも力が入ることを自覚する。自分の拳の中に、先ほどの土が握り込まれている。

 リコネスは顔を上げた。今までより高く。

 ランプは地面に転がっているが、その光の届くギリギリの最奥に鉄格子が見える。女の足は見えないが――そこにいるのはわかった。

(私だって、やらなくちゃ……何もできないままじゃ、ダメだ! やらなくちゃ、やるんだ!)

 視線を上げる。冒険者たちの姿がハッキリと見えた。ナイフで巧みに斧をいなすストリングに、苦渋の顔を浮かべるマナガン――小柄な身体を生かしてオデッサの懐に飛び込み、棍棒で接近戦を挑んでいるのは、背後で待ち伏せていたヤーンという盗賊なのだろう。青年冒険者は剣のリーチを生かせず、しつこい盗賊から距離を取ろうと懸命に動き回っていた。

 それらの動きを正確に認識して――リコネスは自分の前に誰もいなくなった瞬間、起き上がった。

 手を伸ばして鍵を掴み取り、そのままの勢いで前傾姿勢に駆ける!

 盗賊も、冒険者ですら反応できなかった。虚を突かれて一瞬、誰しもがリコネスの方を向くが、その時にはもう彼らの前を通り過ぎ、牢に駆け寄っている。

 格子に張り付くと、すぐに開錠に取り掛かった。錆び付いた錠と鍵は、恐怖と興奮に震える手ではすんなりとはいかなかった。

 背後から盗賊が迫ってくるのを感じる――しかし次の瞬間、それが蹴り飛ばされ、隣の鉄格子に激突する音を聞いた。冒険者が助けてくれたのだろう。

 リコネスはその間にようやく、鍵を開けた。それに歓喜する間もなく鉄格子の扉を開き、中へ飛び込む。

 牢の中はほとんど真っ暗だったが、人がいるのはわかった。縄のようなものでぐるぐる巻きにされた女。外傷はなく、気も保っているが、口を塞がれ喋れないらしい。怯えた目で、恐怖に首を横に振っている。

(でも、今はそれを取り除く暇も、拘束を解く暇もない……!)

 興奮に上がり続ける呼吸で喋ることもできず、とにかく女の身体を抱き上げる。

(この子を連れ出せば、後は逃げるだけでいい……逃げるだけなら、私だってできる!)

 高揚ではなく、自嘲めいた決起に押されていた。リコネスは必死に腕力を振り絞り、女を抱いて牢から脱出――

 しようとした時だった。

 今度は物理的に、背中を強く押し飛ばされた。

 二度目の背後からの攻撃を受け、悲鳴を上げる間もなく牢の中を転がる。壁に激突し、辛うじて呻いて振り返る。

 暗闇。そこは確かに真っ暗な牢の中だが――人がいた。女ではない。彼女は突き飛ばされた拍子に離れ、元いた場所の辺りに倒れている。

 その女をさらに奥へと投げ飛ばして。もうひとりの人影が近付いてきていた。

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