第31話

 地下は、進めば進むほど黴臭く、また吐き気を催すような濃度の土の臭いに満ちていた。

 しかし足を速めると余計にそれを強く意識することになるし、かといって立ち止まればその悪臭の中に留まることになってしまう。そんな理不尽な二択を強要されるように、進んでいく。

 階段を降り切り、ある種の地面に足を付けると、目の前に鉄格子が現れた。しかしこれも鍵はなく、簡単に引き開けることができる。

 警戒し、極力軽減された軋む音が、狭い地下内に異様なほど反響する――

 鉄格子を抜けた先に伸びるのは通路である。警察署内の通路よりもさらに狭く、ふたりがすれ違うには半身を引かなければならない。天井も床も壁も土が剥き出しになっているが、ところどころに補強が見えた。一応、まだ強度を保っているらしい。

 どこか湿った感じのする土を踏みながら歩いていくと、見えてきたのはまたしても扉だった。

 ただし地下ということもあってか、作りが同じでも雰囲気が違って見える。そこが看守部屋らしい。

「ここを通らなければ、牢には抜けられない作りというわけだ」

 ほとんど口の中で囁くように、マナガンが言う。

 それを聞いてか聞かずか、オデッサは慎重ながらも足を速め、吸い付くように扉に張り付いた。鉄製の扉。分厚く、中の様子は窺えないが、鍵はない。

「…………」

 無言で、青年が視線を向けてくる。頷いたのはマナガン。片手斧を構え、半身を引いて突進の構えを見せる。

 あとは看守部屋の見張りを倒すだけ――そう言ったのは彼自身であり、だからこそ気を張り詰めているようだった。

 オデッサもそうしたものを感じながら扉の取っ手に手をかけると……勢いよくそれを引き開けた。

 と同時にマナガンが中へと突入する。掛け声は上げないが、咆哮を湛えた勢いである。猛牛のように看守部屋に押し入って、そこにいる盗賊を――

「……おや?」

 きょとんと声を上げる。斧を振り回す音も、敵の叫びもない。

 通路に残っていたふたりも中に入っていくと……

 そこには、誰もいなかった。

 書き物机と資料用の書棚が置いてあるだけの、石造りの部屋である。隠れられる場所などない。酒瓶が転がっており、明らかに盗賊が利用していたと思われるのだが、無人だった。部屋の角々には蜘蛛の巣が見られ、長く使われていないか、少なくとも清掃されていないのが明白である。

「役目を放棄してどこかへ行ってしまったか、最初から配置されていなかったのか」

「馬鹿な。ここに見張りを置かない理由がねえ」

 青年冒険者の反論に、もっともだと頷くマナガン。

「しかし……いずれにせよ、敵がいないのなら好都合だ。今のうちに娘を助け出し、脱出するべきだろう」

 肩をすくめそう言うと、壁にかかっていた鍵を手に取り、地下牢の方の出口へと向かう。そうしながら、ぼそりと続ける。

「例え罠だとしても、だ」

「…………」

 オデッサはそれを聞き流すように、後に続いた。最後にリコネスが扉をくぐり、正真正銘の地下牢に出る――

 そこは先ほどよりも数段、縦にも横にも広くなっていた。補強されながらも土が剥き出しになった通路。

 しかし悪臭がさらに強烈になっている。腐敗臭とも呼べるかもしれない。その根源は探りたくもなかった。左右にいくつも並ぶ牢獄は奥深く、小さなランプひとつでは照らしきれないのが幸いだと言えた。牢を閉じる鉄格子は赤く錆び付き、それがなんらかのおぞまし痕跡のようにも思えてしまうが……

「…………」

 誰からでもなく、無言を発する他にない。ひたすらに不気味だった。ランプに押し広げられながらも、数歩先に広がる闇。その境界の灰色が、なんらかの怪物にも見えそうになる。確かに、こうした中に立たされるとなれば拷問だろう。時折、天井付近や格子の間に白いものが見えて、特にリコネスの背筋を凍らせた。単なる蜘蛛の巣だったが。

 地下牢の通路は幾重にも折れる一本道だった。真っ直ぐ進んでは直角に折れて、また真っ直ぐ進むの繰り返しになる。当然、その間には誰もいない。ただおぞましい異臭が脳を侵食してくるだけで、人は存在していない。

 やがて……最後の通路だろうという場所に出る。そう感じられたのは、そこに唯一、人の気配があったためだ。

 静かな呼吸、身じろぎ。ほんの微かな音でしかないが、地下ではそれが感じられる。

 直線の通路は、建物の横幅と同じだけ続いている。反響する足音に引きずられるように、その距離を緊張して進んでいく。ランプの灯はその何歩分かの先を照らし……

 それがとうとう、最奥の鉄格子に触れた。咄嗟にランプを高く掲げると、それより少し先が見える。縄のようなもので拘束された、女の足だった。

「見つけた!」

 思わずリコネスが声を上げる。するとそれに呼応するように――牢が開いた。

 しかし目の前にある、女の閉じ込められた牢ではない。その手前のものだった。キィィと不快な甲高く軋む音を聞かせながら、行く手を遮るように格子が開放される。

「……!」

 冒険者たちは息を呑み、瞬間的に身構えた。格子が完全に開かれると、そこから影が現れる。

 黒い、というのは冒険者たちが最初に受けた印象だった。黒い肌に黒い瞳。黒の革ジャケットには放射線状に不気味な骨の足が描かれている。顔付きは明らかに悪い。剃り上げた頭に皺が寄り、それをなおさら強調している。

 手にはナイフを握っており、それがランプの灯を反射させていた。

「六年前から投獄されていた亡霊、などということはないだろうな」

「似たようなもんさ。俺たちみたいな盗賊はな」

 マナガンの声に、盗賊が応える。捕食側の動物を思わせる、おぞましい声音だった。それがまさに猛獣めいて見えるのは、光が盗賊の顔に深い影を作り出しているせいだろうか。

「潜入に気付かれていたとは、迂闊だったな」

 いずれにせよマナガンは完全に戦闘の態勢を取った。半身に構え、片手斧をいつでも繰り出せるように腕を下げる。

「名前を聞いておこう。捕らえた後に聞き出すのは面倒だろうからな」

「ストリング。そして――」

 盗賊、ストリングは笑った。獲物を食らうため牙を見せるように。

「そっちにいるのは、ヤーンだ」

「……!?」

 ごっ――という音が、聞こえたのかもしれない。リコネスには。

 しかし確信は持てなかった。それは体内、まして自分の頭から聞こえた音なのだから。

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