第8話

 実際には――

 開かれたというより、中から何かが飛び出したせいで蓋が弾けた、という方が正しいだろう。

 咄嗟に確認できたのは、それが泥のような糸を引き、薄暗い森よりも汚い、濁った半透明の緑色をしているということだけだった。

 そして一瞬の間を置いて、私はその飛び出してきた謎の物体に激突され、転ばされ……

「ひにぁああああああ!?」

 打ち付けた背中の痛みと物体の正体とを同時に理解し、特大の悲鳴を上げた。

 私の身体には、覆い被さるようにその物体が張り付いていた。どろどろと、べっとりと、まさしく泥のような不定形さで、しかし確実に意志を持って這いずる怪物――紛れもなく、それはスライムだった。

「わああああ! た、助け、助けてー!」

 スライムは私の上半身にぶつかった後、首から腰の辺りまでを覆っていたらしい。さらにそのまま地面にまで身体を広げ、軟体生物とは思えない吸着力と重量で私を張り付けにしていた。

 自分の悲鳴の隙間から、盗賊たちの嘲笑する声が聞こえてくる。

「ゲハハ! だから言っただろう、スライムに気を付けろってな!」

「なるほどね。反抗的な冒険者には、こうやって魔物をけしかけてきたというわけか」

 ヒュアキンは落ち着き払い、納得して頷いたようだった。もう少し慌ててほしいとも思うが、彼はあくまでも冷静に、どうやら細剣を構えたらしい。

 その声が、脅威を与えるほど鋭いものに変わったことを、私は悲鳴を上げながらも感じ取っていた。「フッ……」と笑う息にすら、圧力を感じさせて。

「だけど残念だね――見ての通り、僕は無傷だ」

「っ……!?」

 盗賊がその事実に気付かされた時には、ヒュアキンは動き出していた。

 地面を蹴り、跳躍する音は優雅で、荒々しくはないが、彼の持つ細剣のような、相手を突き刺す鋭利さがあった。

 人数の不利を逆転するように、動きは異常なほど機敏である。華麗で、的確で、素早く、私にはそれを目で追うことができなかった――地面に転がっていたせいだが。

 ただ彼の無駄のない動きが、盗賊たちの短い悲鳴と、それに続く倒れゆく音とで理解できる。

 そして放置された私の体感時間では三十分ほど。実時間にすれば、数十秒とかからなかっただろう。六度目の倒れる音が聞こえると、あとには盗賊たちの声がなくなった。

 残るのは森の中に聞こえるのはヒュアキンが「フッ……」と勝利の余韻に浸る息と、私の悲鳴だけだ。

「やっぱり盗賊程度では相手にならなかったね」

「それはいいから助けてくださいいい! 溶けるっ、服とか溶けてきてるううううう!」

 スライムの消化液は石をも溶かす強力なものだ。近年、成分的に鉄を溶かすことはできないという研究発表がなされたが――ケースが鉄製だったのもそのためだろう――、同行員のスーツが鉄製なはずもない。つまり同行員に防具など不要という上層部のケチのせいで、私はこうして生命の危険に陥ってしまったのだ!

 などと考えている間にもジャケットはボロクズに成り果て、ブラウスにも穴が空き、どちらかといえばスライムを着ていると言った方が正しいような状況になり始めていた。

 しかしヒュアキンはそんな私を見下ろしてから、また余裕に前髪を弾いた。

「フッ……残念だが僕はスライムを倒せないんだ。剣で倒せない相手には滅法弱くてね」

「全然格好良くないいいいぃっ」

「仕方ない。では近くの町に行って松明を貰ってくるとしよう。確か火に弱かったはずだからね」

「なんでそんなにのんびりなんですか!? 他人事だからですか!? このままだと服どころか身体に穴が――」

 と私が叫ぶ声を。

 遮ったのは、爆音だった。

 実際には音が鳴ったかどうかもわからないほど激しい衝撃が襲い、真っ赤に染まる視界の中で、私は宙を舞う感覚を抱いていた。

 そして廃屋の扉の前に落下する。背中から落ちたにも関わらず、それほど深刻な激痛を感じなかったのは、下に気絶したベインの身体があったためだ。

「はぎゃ、ふ……な、何が……」

 衝撃に目を回しながら、それでもなんとか周囲を見やると、最初に見えたのは私の隣で扉に突き刺さっているヒュアキンだった。格好良いポーズで、焦げて気を失っている。一応、命に別状はなさそうだ。

 私の身体も煤けていたが、こちらもそれほど深刻ではない。そして何より、爆発の影響でスライムが剥がされていた。

 どこへ行ったのかと探すと、正反対の方向に飛ばされ、落ちている。こちらは不幸にも、同じく命に別状がないらしい。

 そして――スライムの前に立ちはだかるように、今までいなかったはずの人影が立っていた。

 盗賊ではない。私よりも一つか二つ年上に見える、少年。ぼさぼさに跳ねた赤い髪を持ち、吊り気味の赤い瞳をきょとんとさせて、

「怪しい奴だと思ってとりあえず吹っ飛ばしてみたンだガ……同行員だったのカ?」

 冒険者だろう、と私は判断した。いや、判断自体はどうでもよかったかもしれない。私は彼に事情を説明するよりも早く、叫んでいた。

「そんなことより、危ない! そこにスライムが!」

 スライムは少年を敵とみなし、既に襲いかかろうとしていた。軟体を縮める反作用で飛び上がり、私と同程度の身長しかない少年の身体に張り付こうとする!

 しかし――少年は最初から気付いていたように、あっさりと身体をずらしてそれを避けた。そして同時に、スライムの身体に何かを突き刺したらしい。

 次の瞬間。

 ばんっ! と机を思い切り叩いたような音を響かせて、スライムの身体が弾け跳んだ。

 その正体は、爆弾だった。

 少年の手に、未使用の黒い球体が握られていたため、そう推測することができた。どうやら少年はそれをスライムの体内に押し込み、内部から破裂させたらしい。

「す、すごい! ……けど、なんかグロい……」

 感嘆と吐き気の狭間で頭痛を覚える。あるいは先ほど吹っ飛ばされたせいかもしれないが。

 いずれにせよ少年はどうということもなく、ひらひらとこちらに手を振ってきた。

「事情はわからンガ、たぶン助けた気がするナ。依頼料までは要求しないかラ、オレのことも書いておいてくれヨ」

 ケラケラと笑いながらそう言うと、彼は名前も告げずに去っていった。別の依頼の遂行中だったのかもしれない。彼の後を慌てて追いかけていく同行員の姿があった。

 こうした冒険者との巡り合わせもまた、ある種の運命と言えるだろう――

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