第51話 会頭クレメンス18世
3月25日
フシュタン公国の領土を取り戻し、我が先祖の汚名を返上する。それが私の生きる目的だ。
自室のソファに腰かけ、渋めのお茶に口をつけながらクレメンス・ジョヴァンニオ・ガッガネリは自分の生きる目的を思い返す。クレメンス。その名を受けて生まれた時から背負う売国奴という汚名。間抜けの血筋、無能帝の子と言われ続け、こんな辺境の地まで移り住む羽目になった元皇族。それがクレメンスだ。クレメンス・ジョヴァンニオ・ガッガネリは、初代クレメンスから数えて18代目のクレメンスだが、彼の高祖父である4代前のクレメンス14世が、彼の苦悩の元凶である。
クレメンス14世がディカーン皇国の教皇になったのは彼が16歳の時であった。先代の教皇が流行り病に倒れ、また皇位継承順位で彼よりも高い位置にいた者達も次々に倒れ、第6位であった彼が教皇となった。その時、彼を守り、強く補佐したのがハンス・フシュタンであった。当時のハンス・フシュタンは教皇に仕える補佐官の一員であり一介の役人に過ぎなかった。だが、クレメンス14世の周りにとって友と呼べるような者はこのハンス・フシュタンしかいなかったのである。
2人は教皇と補佐官という立場以上に親しくなり、その結果、ハンス・フシュタンは異例の早さで出世し、そしてついには公爵となってしまう。そしてその友情の証として教皇はフシュタンが納める皇都に近いロマとチリャーシを独立国と認めてしまったのだ。本来であれば命を賭して護るべき国土を容易く与えた彼の行動は皇都内に留まらずディカーン皇国全土で批判され、クレメンス14世は崩御ではなく生きたまま教皇の座を奪われる事となる。前代未聞のこの出来事で、クレメンスの名は大陸全土で蔑まれ、忌み嫌われた。この汚名を晴らすには、そのクレメンスの名を受け継ぐ者がフシュタン公国からロマとチリャーシの地を取り戻すしかないのだ。たとえそれが焼け野原であったとしても。
夜も深くなって徐々に蓄積してきた眠気を茶の味で吹き飛ばしたクレメンスは、ソファの上で軽く背筋を伸ばし、肩まで伸びた黒髪をいつもの様に耳の後ろにかきあげた。
「報告を」
まだ暖かいポットの横に置かれている小さい匙の様な取っ手の付いた館内専用の受話器に向かってクレメンスが指示する。受話器には収音と拡声の機能を持った小型のラッパの様な装置の下に14個の匙が並んでいる。右から4番目の匙を押し続けて報告を待つクレメンスの元に男の声が届く。
「会頭、予定通りです」
「そうか、今はどこにいる?」
「トルーからレオルアンに入りました」
「被害は?」
「かなりのものです。トルー、レオルアン両国で聖地とされているピクデミッデの山頂がえぐれたと……死傷者はでなかったようですが」
「あの霊峰ピクデミッデの山頂がか? それは素晴らしい」
「はい、これでワールロ三国全てに被害が及びました」
「首尾は?」
「問題ありません。既に三国の魔法局の大半がこちらの意図通りに動いております」
「そうだな、明後日、いや3日後の3月28日に開戦できるように明日には出兵させろ。皇国側の援助は十分あるから心配しなくて良い」
「御心のままに。我が教皇」
「ははは、気が早いな」
「いえ、それが我が夢ですので」
「ああ、苦労をかけたな」
クレメンスはそう言って小さい匙の様な取ってから指を離す。
3月24日
「あの、どうしましょう」
俺は自分の右の掌を左手で抑え込みながら目の前の光景を眺める。
「素晴らしい。だが、これでフシュタン公国と戦になる国が増えたな」
俺の隣で同じ光景を見ているテオフーラはゆっくりとこちらに振り返り、目をぎらつかせた。
「どうしてですか?」
テオフーラは目の前で崩れ落ちたアダマンタイトの岩山の奥に見える山を指さした。その山はアダマンタイトの岩山同様、俺の右手から溢れ出た真っ赤な3本の光の線によって山頂部分が大きく削れ、おかしな形になっている。
誰か登山でもしている人がいたらやばいな。
「あの山はこの辺りの魔法使いにとっては聖なる山、霊峰というやつでな、入山する事も許されないご神体という奴だ」
笑っている? テオフーラの口元が少し緩んでいる様に見えたが、皺の多い彼女の表情ははっきりしない。
「お前のその右手の力、その力は我々魔法使いが操る源の力だ。詠唱する事で描かれる魔法円や放たれる魔法自体、その源は全て混沌であると言える。お前は魔法が使えない、だからこそ可能なのだろう。純粋な混沌のみの放出が。正に悪魔の如き破壊の力だ。だが、同時にお前はその破壊を止める力を持つ。魔神の力を宿したその左手だ。魔神はその使徒ですら魔法を打ち消す力を持つ。自らも魔力を持ちながらもその生命力によって受ける魔法の力を打ち消す、正に魔神、神の如き力だ。神の左手に悪魔の右手とは……お前の体はアダマンタイト以上の力でその2つを御しているという事だな」
テオフーラは俺の右手と左手を見つめる。
「どうやってその力を手に入れた?」
どうやってって……俺に聞かれても分かるわけがない。ただ、俺の体について言える事なら一つだけ確実な事がある。
「筋トレです」
「キントレ? 前にもそんな事を言っていたな? 何だそれは?」
「体中にある筋肉をトレーニングによって鍛える事です」
「筋肉? 魔神やその使徒が使う肉体を強化する力の事か?」
テオフーラが汚らわしい物を見る様な顔になる。魔法や魔術だけでなく、人の死や、破壊ですら研究の為なら気に留めないテオフーラでも筋肉についてこれ程の拒否反応を示すのか。そう考えると、アレッサンドロさんの優しさ、心の広さには頭が下がる思いだ。
そうだ! フシュタン公国が、ロマの魔法局が戦争になったら、あの爆発なんかよりももっとアレッサンドロさんに危険が及ぶことになる! これはまずい。もう、戦を止める事ができないなら、せめてアレッサンドロさんを守りたい。
「あの、ロマに戻りませんか? 戦になるんですよね?」
「ん? ああ、なるだろうな。だが、それがどうした? 今はキントレの話をしているんだ」
え? このテオフーラは何を言っているんだ?
「魔法局の人達が危ないのでは?」
「危ないだろうな。だが、それがどうした? そんな覚悟のない奴は魔法局の局員にはいない。お前は良く分かっていない様だな。あいつらの事を」
分かっていない? 俺が? 何を?
「魔法使い達は全員その身に混沌の力を宿す。お前のその右手の足元にも及ばん微々たるものだがな。だがそれが魔法使いの魔法の源だ。そして混沌を宿した者が一度でもその解放である魔法を放つと、どうなるか分かるか?」
分かるか? と聞かれても俺には何もわからない。
「快感だ。快感を得るのだ。一度使ったら忘れられない程の快感をな。そして誰もが望むのだ、もっと強い魔法を、もっと強い快楽を。フシュタン公国の中でその快感を求め、自らの魔法の力を強化していった者達の集団、それが魔法局だ。つまり奴らは常に探しているのだ、自らの魔法を最大限放つことができる戦の場をな。だから戦を止める様な者はいないだろう。魔法使いにはな」
え? そうなの? 確かに暴れん坊な奴が多いなとは思っていたが……魔法使いってヤバイ奴ばかりだな。
「かつて、私もそうだった。まあ、今でもそうなのだがな。それが嫌になった。だから私はフィロートを去った。まあ、昔の話だ……」
「それでも怪我をしたり、命を落とす人も出るのでは?」
「出るに決まっているだろう? 戦なんだぞ? 何だ? お前は戦を知らないのか?」
「はい」
「放っておいても人は死ぬ。生まれる事も死ぬことも自らの力でどうにもできない。それが人だ。今日、この場でその命を失ったとして、10年後に死ぬ事と何が違う?」
「え? いや、それは……」
それは難しい問だ。だが、10年あったらもっと筋トレできるな。
「長生きはしたいですね」
「長く生きても良い事など何もないがな……」
テオフーラがそう言うと真実味があるな。
「いや、あったな。お前を見つける事ができたんだった。前言撤回だ、早死にする奴は馬鹿だ。長生きしてこその人生だぞ」
いきなり前言撤回? そうだ、今こそ筋トレの伝道師として頑張ってみるか!
「では、その人生の中で今まで一度も体験したことが無い事をしてみませんか?」
一度も体験したことが無い事、これは俺がたった今思いついた素晴らしい表現だ。長生きに対し先程まであまり良い印象を持っていなかったテオフーラに一番響きそうな言葉を、うまく引き出すことができたと俺は思った。
「今は良い」
「え?」
「今は良い。それよりも、あの削れた山頂にいけるか? お前が放った光で山がどう削れたのか確認しておきたい」
「ええぇぇぇぇぇぇ……」
「ん? 嫌なのか?」
「あ、嫌ではないです。ただ、その……筋トレは?」
「お前がしたいなら勝手にしろ。ほら、さっさと私を担いで連れていけ」
「はい……わかりました。あの、どっちの手で?」
俺はまだ握っている両手を見ながらテオフーラに問いかけた。
「ん、それは確かに問題だな……お前、その左手の触手は引っ込めることができるんだな」
「はい、出来ます」
「ならば左手だな。長生きがしたいからな」
俺は触手を出来るだけ引っ込めた左手にテオフーラを抱えて、真っすぐ削れた山に向かって走った。
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