第12話 アレッサンドロは痛みに耐える

 僕は今、とても怖い思いをしています。オロロッカの方々からの指示なので逆らう事などできないのですが、本当はこの部屋に居たくはないのです。


 僕の役目はこの部屋の人が洗面台を使ったり、お手洗いを使ったりしたときに水を流す事。その人は今日初めて会った僕の事を完全に無視して、部屋の中で常にローブを脱ぎ、ほぼ裸でおかしな行動をしています。僕と同じ基礎学年だと聞いているのですが、とても背が高く、体も大きく、物語に出てくる悪魔や魔物達の様な恐ろしく隆起した体を持っています。


 何かの儀式なのでしょうか。息を吸ったり吐いたりを繰り返し、動作の区切りの度に何か呪詛の様な言葉をつぶやいています。その影響でしょうか。僕はその様子を見守るだけで野獣が発する悪臭に包まれ、軽く眩暈を覚えます。


 そして何より恐ろしいのが休憩ごとに食している物です。オロロッカの方々ははっきりとはおっしゃられませんでしたが、あれは野獣や一部の世捨て人が食べると言われている「にく」というものだと思います。とても、とても穢らわしい物で、実際、顔をしかめたくなるような臭いが漂ってきます。


 野獣と「にく」の匂いが相まって何度か気を失ったのですが、気が付くといつも僕はその人の恐ろしい体で抱き起されているのです。だからもうこれ以上気を失うわけには行きません。僕がしっかりこの人を見張っていないと。


 部屋の外ではオロロッカの方々が見張っています。つまりそれは、この恐ろしい人を部屋から出してはいけないという事なのだと思います。確かに、こんな恐ろしい人をシラお姉様のおられるエスロペの校舎に行かせるわけにはまいりません。体が弱く、魔法に耐えるだけの能力のない僕ですが、この人を見張る事でシラお姉様をお助けする事ができるのなら、このアレッサンドロ・ロンヴァルデニ、もう二度と気を失わないと誓いま……


 ……気が付いたとき、僕はその人の部屋で、その人のベッドに寝かされていました。


 情けない。誓う事すらできない自分が情けない。僕は悔しさを隠すことなく歯を食いしばり、そして頬を伝う涙を拭いませんでした。


 「何か悔しい事があるのですか?」


 その人は寝ている僕の頭を優しく撫でてくれていました。臭いは気になるのですがその手はシラお姉さまのように大きく優しい手でした。


 「僕は体が弱いのです。魔法の使用に耐える事ができないほどに」


 まだはっきりとしない意識の中で僕はその人の問いかけに素直に返事をしていました。


 「魔法を使うのに体の強さが必要なのですか? そうですか……なるほど……」


 その人は僕が答えた当たり前の事にものすごく感動し、何度も何度も頷いているようでした。


 「では、もし、体を鍛えて強くなることができる。としたら、やってみたいですか?」


 その人は急に意味の分からない事を行ってきました。魔法の使用に耐えられない僕の体では、魔法による身体強化はできないのに、それをやってみたいかと言うのです。できるならやっています。と僕はその問いかけに怒りを感じたことを覚えています。


 「できるわけないです」


 僕がそう言うと、その人は少し不思議そうな顔をしました。


 「体を鍛える事ができないのですか? 筋肉を鍛えるという意味ですが」


 またおかしな事を言い出しました。筋肉を鍛えるなどと聞いたことがありません。筋肉は鍛えるのではなく魔法、または魔力そのもので強化するものです。水を流す魔力も無い人なので考える事も少し変わっているのかも知れません。


 水を流す魔力もない? それって……異端者……なのでは?


 いえいえ、そんなはずはありません。異端者がこの学園の生徒な訳がありません。仮にもこの学園は名門の……あ、でも僕の様に家の力を使ってこの学園の生徒になったという可能性はあります。という事は、この人もどこかの血筋の方なのでしょうか。普通に考えるとアエリアの生徒なので、カルデララ家の血筋なのかも知れません。


 確か、カルデララの方はロンヴァルデニの者達を心よく思っていないはず。つまり、どうやってかは知りませんが僕がロンヴァルデニの者だという情報を知り、訳のわからない事を言ってきているのかも知れません。


 「あの、あなたのお名前は? 僕はアレッサンドロです」


 敢えて家の名を出さずに聞いてみた。


 「ピエトロ・アノバです。出身は分かりません」


 その人は自分の名前を即答したのですが、出身は分からないとぼやかしました。うまい作戦だと思います。僕が家を隠したようにこの人も僕に情報を隠しました。


 「ピエトロさん。体を強くする話はまた今度にしましょう。とにかく介抱していただきありがとうございます」


 「気にしないでいいですよ。そうだ、ずっと立ったままも疲れるでしょうから、ソファに座っていてください。アレ……えっと、何でしたっけ?」


 「アレッサンドロです」


 ピエトロさんがワザとらしくもう一度聞いてきたので、僕はまた名前だけを答えました。


 「そうでした、すみませんアレッサンドロさん。後で体を拭きたいので、それまでソファに座っていてください。


 こちらの警戒を察したのか、その日はそれ以上の会話はありませんでした。次の日も朝から僕はピエトロさんの部屋に向かいました。部屋の扉を開けてくれたピエトロさんの姿を見て何か違和感のようなものを感じた事を覚えています。


 僕は入学して以来ずっと授業に出る事が出来ません。当然です、魔法を使用できないのですから。だからずっと自分の部屋にいました。同じ学年の生徒達の顔も名前も分からない、そんな1年でした。ピエトロさんはそういう意味では僕に初めて出来た顔も名前も知っている同級生という事になります。変な人ですし、まだ恐ろしさは完全に消えていませんが。


 「あの……質問しても良いでしょうか?」


 数日後、僕は相変わらずおかしな動きで呪詛を唱えるピエトロさんに勇気を振り絞って声をかけました。どうしても聞きたい事があったからです。


 「はい、何ですか? 僕に分かる事なら何でも答えますよ」


 顔だけ見ると普通の人、いえ普通以上に端正で優しい表情のピエトロさんは、初めて会った時から明らかに体が大きくなっている様でした。


 「ありがとうございます。ピエトロさんのお体が、初めてお会いした時から、その……大きくなっている様なのですが」


 僕がそう言うとピエトロさんはとても嬉しそうな顔になった。


 「え!? 本当ですか? どこですか? どこが大きくなっています? こ、ここですか? いや、ちがうか。最近、広背筋に力を入れていたから、ここかな? どうです? ここですか?」


 ピエトロさんは僕に自分の体を見せようと様々なポーズをとって来ました。その姿があまりにも可笑しくて僕は声を出して笑ってしまいました。


 「ぐぶっ、あは、あははははははは」


 「え? 何か面白かったですか?」


 「あ、す、すみませ、ぶは、あはははははは、や、止めてください、そ、その可笑しなポーズ……」


 「あ、これですか? バックダブルバイセップスという広背筋を……」


 「ひぃ、も、もう無理です……あはははははは」


 僕は床に跪いて両手をついて笑った。こんな風に心から笑ったのはいつ以来だろう。シラお姉様がまだ屋敷におられた頃以来だ。笑った理由は正反対と言えるけど、笑うってこんなに楽しい事だったのか。


 「おかしいな。これはものすごく格好良いポーズのはずなんだけど。面白いのか。じゃあ、これは? これはどうですか? 先ほども一度しましたサイドチェストです。ほら、この胸の、つまり大胸筋を見せるポーズです。ほら、こうやって動かす事もできますよ?」


 「無理です……もう、お腹が痛くて……ぐふっ、く、苦しい……痛たたたたたたた」


 笑い過ぎるとお腹が痛くなることを僕は初めて知りました。ピエトロさんから目を逸らしても、ポーズを考えているピエトロさんの声を聴くだけで、その姿を想像してしまい笑いが僕を襲います。


 「すみません。ちょっと調子に乗ってやり過ぎました。もう、ポーズは取っていませんよ」


 心を落ち着けて僕がゆっくりと立ち上がると、ピエトロさんは嬉しそうな顔に戻っていました。


 「僕の体が大きくなった様に見えた理由は筋トレの成果です。こうやって体に負荷をかけると筋肉が成長し大きくなるんです。確かアレッサンドロさんは体が弱いと悩んでおられましたね。やっぱり筋トレして体を強くしてみませんか? それで魔法の使用に耐えられるようになるかどうかはやってみないとわからないのですが、僕は全面的に協力しますよ」


 ピエトロさんはその巨体からそっと右手を差し出してきました。僕はその姿を見上げながら何か神がかった何かを感じた事を覚えています。その、何というのでしょうか、善なのか悪なのかは分かりませんが、ピエトロさんがおっしゃられる事が嘘やまやかしではないと思える、そんな説得力を感じたのです。


 「やってみます」


 僕は差し出されたピエトロさんの右手に自分の右手を差し出しました。そして、大きさの異なるその手を握ります。


 「本当ですか!? やった! うれしい!! よし、がんばりましょう!!」


 「あ、ちょっと、わ、わわわ、な、何をするんですか!?」


 ピエトロさんは僕の握った手を放すと、僕の両脇に手を入れ高々と持ち上げました。何度も、何度も。怖い、怖い、怖い! 高すぎて怖いです!! 心の中で訴えますが、出てきたのは声にならない呻きだけでした。そして僕はまた気を失います……。



 「すみません。調子に乗りました」


 ベッドの上で目覚めた僕にピエトロさんが申し訳なさそうに話しかけてきました。全くです。調子に乗りすぎです。でも、僕は許してあげる事にしました。ピエトロさんの様に可笑しな体にはなりたくないですが、体を強くするという新たな目的が今の僕にはあったからです。


 「大丈夫です。早速、キントレ? というのをはじめましょう」


 「わかりました。でもその前に、今のアレッサンドロさんの体力を調べましょう」


 「体力を調べる? どうやってですか?」


 「うーん……そうですね。まあ、それ程正確というわけではないですが、まあ、一般的な方法で、腕立てと腹筋かな?」


 「ウデタテトフッキン?」


 「はい、腕立てと腹筋です」


 「それはどういった魔法ですか?」


 「魔法ではありません、単純な体の動きです。まずは、床にうつ伏せに寝てください。こうです」


 ピエトロさんが床の上に寝転びました。僕はその隣に同じように寝転びます。


 「そこから両手で体を支えるように、体を持ち上げます」


 ピエトロさんは、寝転んだ体を真っすぐに伸ばしながら両手で体を押し上げます。が、僕にはそれができませんでした。


 「ん……くっ……んん……で、できません」


 腕で体を持ち上げるなんてそんな事、今まで一度もやったことがないのです。できるはずがありません。


 「なるほど、わかりました。では、仰向けになってください」


 僕の隣でピエトロさんが体をひっくり返しました。


 「こうですか?」


 「ええ、そうです。そのまま、上半身を起こしてください。あ、膝を曲げて下さいね」


 ピエトロさんは寝転んだまま膝を立てると、そのまま上半身を上に起こしました。


 「ぐっ……くくくっ……で、できません」


 僕には体を起こすことができませんでした。


 「わかりました」


 ピエトロさんは僕を見て失望したのでしょうか。少し悩んでいるような表情を浮かべています。


 「これは……やりがいがありますね! どちらも一度もできないという事は、一度でもきるようになればそれは大きな成果ですよ! 0が1になるんですから!!」


 違ったようです。ものすごく嬉しそうにしていました。僕が出来ない事がうれしいとは変わった人です。


 「では、これならどうですか? こう、四つん這いになってみてください」


 僕は両手と両膝をついて四つん這いになりました。


 「ここから、腕だけを曲げて、そしてまた伸ばします」


 ピエトロさんは事もなげにそれをやっています。


 「こ、ここ……こうです……か?」


 「おお! できましたね!! そうです、そうです! じゃあ、それを10回やってみましょう!!」


 え? これを10回も? そ、そんなことできるわけが……3回が限度でした。


 「3回できましたね! 最初はそれぐらいにしておきましょう。そうだ、本当は始める前にすべきでしたが、ストレッチをして今日は終わりますね。多分、明日、ものすごく腕が痛くなると思いますが、それが筋肉の超回復です」


 「超回復?」


 「そうです。筋肉を傷めつけることで筋肉はより太くなっていくのです」


 「あの、痛いときは魔力で回復するから大丈夫ですよ?」


 僕がそう答えるとピエトロさんは少し眉間に皺をよせました。


 「あの、今までも魔法ではなく、魔力で体の疲れや傷を治してきたという事ですか?」


 また、当たり前の問いかけです。体の疲れや傷を魔力で治すのは当然の事、大きな怪我や病気は魔法を使わないと治せませんが。


 「もちろんです。疲労を感じる前、傷を受ける前の状態に体の状態を戻します。これは魔力を持つ者なら誰でもできる事です」


 「え? 前の状態に戻す? なるほど!! それで筋肉が成長しないのですね!! 良い事を聞きました。アレッサンドロさん! 今から明日まで体が痛くても絶対に魔力で回復させないでください。これは絶対です」


 魔力を使わない? 痛くなっても我慢しろと? そんな苦行、聞いたこともありません。ピエトロさんは何を言っているのでしょうか。


 「あの、僕、もう既に腕の痛みと疲れを魔力で回復していますが?」


 「ええ!? だ、だめですって!!」


 その後、僕は同じ事をもう一度させられ、疲労と腕の痛みで夕方まで起き上がることができませんでした。次の日は朝から地獄でした。腕があがりません。体は熱を持ったように熱くなり、腕が痛くて扉をノックするのもやっとです。


 「魔力は使っていませんね」


 痛みと疲労に耐えながら僕はピエトロさんに返事をします。


 「ええ……だから腕が上がりません」


 「今は我慢です。今日は別の所を鍛えますよ」


 「この椅子に座ってください」


 僕はソファではなく勉強机の椅子に座らされた僕の前にピエトロさんが立ちます。


 「では、真っすぐ座ったまま、足を上にあげてください。こうです」


 ピエトロさんの手で、僕の足は持ち上げられました。膝を揃えて上にあげるという動きです。こんな意味のない動きもしたことがありません。


 「では、1人でやってみてください」


 「ぐ……ぐううう……1回……2回……も、もう無理です……」


 2回できました。そしてそのまま倒れこみます。


 ドザッ


 椅子から床に倒れこんだ僕にピエトロさんの声が聞こえてきます。


 「魔力で回復したらだめですよぉぉぉぉぉ……」


 まるで悪魔の様な言葉です。腕と同じ痛みをお腹でも感じたままにしろと言うのです。目覚めたときに僕のお腹が苦しいままだったので魔力を使わないという事は守れたようです。


 次の日、次の日は何もしませんでした。ただ、この時も魔力を使わないようにと言われました。


 そして次の日、事件が起きました。腕の痛みが引いたのです。お腹はまだ少し痛いですが、腕は痛くありません。


 「今日はもう一度、四つん這いになってください」


 やっと痛くなくなった腕をもう一度痛めつけるとピエトロさんは言ってきました。信じられない人です。


 「やっと痛みが引いたのにですか?」


 「そうです」


 「でも、また痛くなりますよ?」


 「それが狙いです」


 やはりピエトロさんは悪魔なのかも知れません。僕を痛めつける事が目的だなんて。


 「どうしてもですか?」


 「体を強くしたいんですよね?」


 「は、はい……わかりました」


 僕は床に四つん這いになりました。


 「では、今日も10回を目標にやってみましょう」


 だから10回もできませんって……1回……2回……さ、3回……よ、よ、4回……え? 4回!? ご、ごご、ごごごご、5回!!!


 「もう、だめです……」


 僕は床にそのまま寝転がりました。でも、今、確実に僕は5回することができました。


 「おお! 今日は5回できましたよ!! 2回です! 2回分強くなれました!!」


 え? そういう事なのですか? これが、筋トレ?


 「どうです? 出来なかった事ができるようになる喜びは? 3回しかできなかったことが5回できるようになりましたよ?」


 「す、すごいです! で、でも腕が前よりも痛い気がします……」


 腕を抑える僕を見てピエトロさんは嬉しそうに言います。


 「魔力は使っちゃだめですよ」

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