第9話 リンダⅡ

「夏休みしようぜ」

 キャバクラの仕事を終え、待ち合わせたバーでハマーと二人酒を酌み交わしていた時に、突然ハマーが言い出した。

「明日休みだろ」

 優しく微笑んでハマーが言う。

「夏休みって。子供じゃないんだから」

 リンダが笑って答える。そういえば、昼の仕事を辞めてから、夏の休暇らしい時間を当分過ごしていない。 

「長野に別荘があるんだ。ゆっくりしようぜ」

「でも、休みは明日しかない」

「近いもんさ。明後日の朝に帰れば間に合うだろう。まじいいもんだぜ、夏休み」

 ハマーがにやりと笑う。確かに、たまには日常から離れてみるのもいいかもしれない。それに、ハマーの別荘にも興味が湧いた。リンダは頷いた。

「決まり」

 ハマーはリンダの焼酎に自分の飲んでいたコロナビールの瓶をぶつけると愉快そうにそれを呷った。そして電話を掛け始めた。夏休みだ、集合だ。そんな事を言って、何人にも電話を掛けている。さっきの話は、二人きりという話じゃなかったんだ。リンダは途端に憂鬱になった。ハマーの仲間達と気が合うとは到底思えない。

「朝方、仲間が車を出すから、それまでは飲み明かそう。まじ楽しいぜ」

 電話をデニムの後ろポケットに仕舞うとハマーが笑顔で言う。突然の招集で集まる仲間とやらの胡散臭さに、リンダは少々怯んでいる。まあ、それでもたった一日の事だ。明後日には帰るのだから。リンダは腹を括って、自分も焼酎を呷った。


 目が覚めると車の中だった。例の如く酔いすぎて、記憶のないままこの車に乗り込んだらしい。リンダが座っているのは後部座席で、隣にはミュウタが寝ている。頭をリンダの肩にもたれさせていて、思わずリンダはそれを思い切り反対へ押しやった。ハマーは助手席で鼾をかいて眠っている。運転手は初めて見る男だった。里咲のライブにたむろしていそうな、リンダの苦手なタイプだ。オーバーサイズのだらしなく見える服装はゴロツキにしか見えない。バックミラー越しに一瞬目があったが、リンダは直ぐに逸らして寝たふりをする事に決めた。


 ハマーの別荘は鬱蒼と草樹の茂る森林の中にあった。美しいログハウスで、とてもじゃないがハマー達には吊りあわない。ハマーの仲間達は、もう一台別の車でも来ていた。ハマーも含め総勢六名の怪しい男達がぞろぞろと森の小道を歩む様子はとても奇妙で、不法投棄か死体を埋めに来たか、そのどちらかに見えてリンダはぎょっとする。

「ねえ、ちょっと」

 リンダはハマーの腕を掴んだ。

「着替え持って来てないんだけど」

 ああ、とハマーはご機嫌に頷いた。

「後で街に降りて買いに行けばいいじゃん」

 ログハウスの主は、さすがセレブの発想だ。ハマーは何者なのだろう。皆の噂する通り、本当にヤクザの息子なのだろうか。


 ログハウスの中は整然としていて美しく、甘い木の香りに混じって妙な匂いがした。妙なのは匂いだけではなく、見た事のない外国の楽器が至る所に置かれている。太鼓や、人の背程あるほら貝のようなもの。それらをハマーの仲間は嬉しそうに愛でている。やはりリンダの思った通り、リンダには馴染めそうもない状況だった。

「リンダと俺はこの部屋」

 入口近くの小部屋の扉をハマーが開いた。キングサイズのベッドが隅にぽんと置かれたシンプルな部屋だった。白いシーツが清潔感を感じさせる。大きな窓の外は緑に溢れ、その隙間から差し込む陽射しが部屋の中に柔らかな線を描いていた。ハマーと二人きりで来る事が出来ればどんなに良かっただろう。別部屋から聞こえてくる騒々しい男達の笑い声にリンダは舌打ちをした。

 荷物を放り投げると、リンダとハマーはベッドの上に転がり込んだ。少し湿り気を帯びたシーツがひんやりと心地良い。枕に鼻を付けて思い切り吸い込む。森林の香りと奇妙なお香の匂い。ハマーのプライベートにまた深く一歩歩み進めてしまった。

「ねえ」

 枕に顔を埋めたまま、リンダはハマーに話し掛けた。

「あんたって、何者?」

 ん、とハマーが答える。リンダはその先の答えを待ったが、ハマーはそのまま眠ってしまった。リンダはその横にぴたりと寄り添うと目を閉じた。自宅のアパートの小部屋で過ごすよりもずっとリラックスした心地の良い感覚だった。

 目が覚めると夕方だった。部屋の中に空腹をくすぐるスパイスの匂いが漂っていた。仲間の内の誰かがカレーを作ったらしい。女は一人なので、自分がそういう事を引き受けなければならないのか、と考えて憂鬱だっただけに、意外だった。朝からろくに何も食べていないので、その香りはとても魅力的に感じた。

「カレーか」

 ハマーがベッドから降りて腰を鳴らした。

「俺たちは街で何か食べようぜ」

 リンダは心の中で小さな不満の声を上げたが、直ぐに考え直した。明日には東京に戻らなくてはならないのだ。今夜は異空間でとことんハマーと楽しみたい。


 ハマーとリンダは車を借りて街を散策した。東京より幾分日が沈むのが早いように思えたが、観光客や別荘に来ている人間達で東京と変わらない位に混雑していた。それでも、東京の様にせわしなくは無く、穏やかにゆったりとした時間がそこには流れていた。墨色に暮れる街に橙色の明りが灯る様は、幻想的とすら思えた。

 ハマーはリンダに下着や着替えの服を買い与えた。それも、リンダがどちらにしようかと悩めば、どちらも買ってしまえよ、という風に大層太っ腹で、リンダはやはり男にそのように扱われるのが初めてなものだから、少々の戸惑いと柔らかい興奮を覚えていた。

 二人は六本木で過ごす時よりもずっと密着して歩いた。腕と腕はずっと絡まり続け、隙あらば唇を重ね、足すらも絡まり、よろけてしまいそうになる位だった。それでも誰も眉間に皺を寄せて見る者は居ない。二人のその姿は、六本木では少々いかがわしい光景になってしまうのだろうが、この場では爽やかで微笑ましい光景に成り得たのだった。そう、リンダは完全に映画の主演女優に成り上がっていたのだった。


「あたし、すっごく今幸せかもしれない」

 リンダが細かく千切られたステーキ肉にフォークを突き刺しながら言うと、ハマーが驚いて顔を上げた。

「何よ。可笑しい?」

 むくれて肉を口に含む。上質の肉汁が口の中にじわりと広がり、リンダはそれを赤ワインで流し込んだ。

「いや、俺もまじ、今同じ気持ちだったから」

 照れ臭そうに言ってハマーも肉を口に含んだ。二人の間に横たわるテーブルがもどかしい。今すぐに抱き付きたい衝動を、リンダは赤ワインで誤魔化す。ハマーは運転があるので水を飲んでいる。男に大事にされる、という事を、身をもって今、リンダは体験している。愛なんて存在しない、と豪語して生きてきたリンダではあったが、これを愛と呼ぶのなら、愛も悪くは無いかもしれないとリンダは思い始めていて、そんな自分に人知れずはにかむのだった。


 ログハウスに帰る途中の車の中でまで、二人は手を繋いで過ごした。険しく細い山道であるにも関わらず、ハマーは馴れた様子で片手でハンドルを操作した。その様にリンダはうっとりとしている。恋の病は重症化していたが、胸が苦しくないのはそこに愛が存在しているからなのかもしれない。この状態が、恐ろしくもあり、魅惑的でもある。

 ログハウスに着き、車を止める。闇の中にログハウスの温かい明りが浮かび上がる。二人は木の枝が絡まり合うように、ぴたりと寄り添って扉を開けた。途端にもくもくと白い煙が目の前を漂う。来た時にリンダの鼻先を軽く掠めた独特の匂いが強烈になっていた。

「もうやってんのか」

 ハマーが呟いて軽い足取りでログハウスの中を突き進む。リンダもその後に続いた。ばタン、と音を立ててハマーがリビングの扉を開け、目に入って来た光景にリンダは言葉を失った。

 リビングの中央で男が顔を血だらけにして横たわっていたのだ。それはミュウタだった。

「どうした」

 取り乱す事も無く、ハマーが静かに低い声で言う。

「ハマーさん、こいつ、ケミカルに手を出してるんすよ」

「本当か」

「マジです。何か様子が変だと思ったら、アッパー持ってやがりました」

 仲間の内の一人が煙草の様なものを深く吸い込みながらハマーに言い、ハマーはそれをその男から取り上げると自分も深くそれを吸い込んだ。そしてゆっくりと煙を吐き出すと、ハマーはミュウタの傍にしゃがみこんだ。

「本当か」

 ミュウタは何も答えず、ハマーから目を逸らした。鼻と口からどろどろとした赤黒い血液が溢れ出ている。

「ナチュラル以外に手を出すなって、まじあれ程忠告したろうが」

 優しく諭すようにハマーが言う。尚もミュウタは何も答えずハマーから目を逸らし続けている。ハマーはゆっくりとミュウタを立ち上がらせた。ミュウタは立ち上がるとTシャツの袖で口を拭う。

「ミュウタ」

 静かにハマーが言い、ミュウタが顔を上げたその時だった。ハマーがミュウタの頬を力の限り殴った。様々なものをなぎ倒して、ミュウタが再度床に倒れ込む。ハマーはゆっくりとその上に馬乗りになると更に殴り続けた。ゴスッゴスッと鈍い音が響き続ける。ハマーは立ち上がり、また煙草の様なものを先程の男から受け取ると深々と吸う。よく見ると備え付けられた暖炉の中でも何かが燻り、白い煙をゆるゆると立ち上らせていた。

 他の男達がミュウタを代わる代わる殴り、蹴り上げた。それもちょっとやそっとの力ではない筈だ。やられる度にミュウタはビクン、と体を跳ね上がらせ、呻き声を上げた。男達も息を切らしている。ハマーは再びミュウタの上に馬乗りになると、思い切り拳を振り上げた。ゴスン、と鈍い音がして、ミュウタは動かなくなった。それでも、ハマーは再び拳を高らかに振り上げる。ゴスン、ゴスンと鈍い音がリンダの鼓膜を刺激する。もうやめて、死んでるよ。リンダはリビングの入り口で立ちすくんでいる。声が出ない。

 最後にハマーはミュウタの腹に踵を振り落した。ミュウタはぴくりとも動かない。

 ハマーを含め、男達は妙な煙草の様なものを吸いあっている。

「ハマーさん、これどうします」

 男の一人が親指で面倒くさそうにミュウタを指差した。

「邪魔なんすけど」

 男達が下卑た笑い声を上げる。

「川に流しておいて」

 ハマーが言うや否や、男達は協力し合ってミュウタを部屋から引き摺り出した。途中、壁や玄関の段差でミュウタは頭を強く打っていたが、勿論もう何の反応も無かった。六人の男達から暴行を受けて、ミュウタは死んでしまったに違いなかった。

「気にするな」

 ぽん、とリンダの頭を優しく叩いてハマーは笑った。リンダはやっとの事であてがわれた部屋へ戻った。


 宴が始まった。閉ざされた寝室の向こうから聞いた事の無い怪しげな楽器の音色と男達の歌声が聞こえる。

 リンダはベッドの上で頭を抱えた。ナチュラルとかケミカルとかアッパーとか、一体何を指しているのだろうか。話の流れで大体は察している。ナチュラルとは、恐らく大麻等のハーブと呼ばれるような植物由来のもので、ケミカルとは合成麻薬のような、所謂薬物と呼ばれる物の事ではないだろうか。アッパーは、その中の種類を指すのかもしれない。ハマーの王国では植物由来のものはオーケーとし、合成麻薬はエヌジーとされているらしい。どちらも違法だって言うの、と呟いて、リンダは携帯電話をバッグから取り出した。インターネットで詳しく調べてみようと思ったのだ。けれども、携帯電話はとっくに充電が切れていた。リビングに行って男達に言えば、充電器を貸して貰えるに違いないが、今このタイミングでそれを求める事は憚られた。警察に電話するとでも思われたら、どういう目に合うか分からない。ハマーを信じたいけれど、今のリンダは、戸惑いから彼に対して強い不信感を抱いていた。胡散臭い見た目とは違い、心根の優しく穏やかで誠実な男だと思えたから、こういう関係を持ったのだったが、今晩見たハマーの裏の顔はリンダの全く知らないものだった。恐ろしく冷徹で、暴力的で、享楽的。まさにその怪しげな風貌のままではないか。

 リンダさんの手に負えるような男じゃないよ。

 クロークでの安藤の声が耳元に甦る。その通りだった。ハマーの何が分かるっていうの、と突っ撥ねて聞く耳すら持たなかった自分を悔やむ。分かっていなかったのは、自分だ。

 ミュウタが死んでしまうまで暴力を振るう状況を止めもせずに見守り、暖炉で焚かれている、恐らくマリファナであろう煙を吸った。ふわりと精神が浮上するような妙な感覚がある。アルコールで得る感覚とはどこかが明らかに違う。自分の意思がどうあれ、社会的には彼らと同罪の様な気がする。つまり自分は彼らと同じ、犯罪者に成り下がってしまったのだ。

 愕然として頭を掻きむしる。自分は、一歩、二歩、三歩どころか、一気にハマーの世界へ転がり落ちてしまった。その世界はずぶずぶとぬかるんでいて、一度入り込むと抜け出す事が困難に思えた。逃げ出したくて堪らないけれど、今逃げ出せば、密告を恐れた男達に連れ戻されるに違いない。それにハマーを裏切る事になる。

 つい先ほどまで、ステーキハウスで照れた笑みを浮かべていたハマーの顔が甦る。あの時、自分が感じた愛おしいという感覚は本物だった。やっと「愛」と呼べるかもしれないものの傍まで来る事が出来たのに、この有様だ。つくづく自分の男を見る目の無さに辟易する。

 今ハマーから逃げる事は「愛」を裏切る行為になるのではないだろうか。数々の男達から散々裏切られてきたリンダだけに、裏切られた者の胸の痛みは容易く想像出来る。頭がふわふわと揺らぎ始めた。昔観た「極道の妻」という映画のワンシーンが瞼の裏に甦る。煌びやかな着物の裾を翻して女達は闇と渡り合う。その表情からは覚悟が窺える。そうだ、自分に足りないものは覚悟だ。リンダは眠りに落ちていった。


 鳥の鳴き声で目が覚めた。木漏れ日が部屋の中を柔らかく照らしている。横にはいつの間にかハマーが眠っている。木目の天井に吊るされた、繊細な装飾がされたガラスのランプシェードをじっと見詰めた。

 いつにも増して深く眠ったような気がする。あの白い煙を吸い込んだからだろうか。一体今は何時なのだろう。壁に掛けられた古びた時計を見て、リンダは飛び起きた。時計は四時を指している。それが早朝の四時でないことは、外の様子で一目瞭然だった。

ベッドから足を踏み出すと、少しよろけて壁に手を付いた。その音でハマーが目覚める。

「おはよう」

 上半身を起こして、のんびりとした口調でハマーが言う。リンダはハマーから目を逸らしたまま、お早う、と答えた。今から東京に戻って、バイトまでに間に合うだろうか。最悪、少々遅刻する程度で済む気がする。そういえば、携帯電話は充電が切れている。何もかもが途端に面倒臭くなった。

「バイト行かなきゃ」

 リンダは振り返って、ハマーに言う。ハマーは両手で顔を擦ると、眠そうな眼でリンダを見上げた。

「辞めちまえよ。偽物の愛を切り売りするバイトなんかさ」

「でも」

「俺が後の事は何とかするから。お前はもう俺の女なんだから」

 リンダを遮るようにして、ハマーが低く静かな声で諭すように言う。

「じゃあ、生活はどうすればいいのよ」

 リンダが溜め息を吐いて言うと、ハマーが手を伸ばし、リンダの腕を強く掴んで引き寄せた。

「だから、俺に任せろよ」

 リンダを強く抱き締めてリンダの薄い唇に自分のそれを重ねた。そのままハマーは首筋から鎖骨へと、それから、もっと下の方へと徐々に唇を移動させた。リンダは小さな呻き声を上げながら、昨晩の煙の香りが強く染み込んだハマーの髪に鼻を埋めた。どうやら、自分の意思とは関係なく、腹を括らなければならない状況の中にいるみたいだ。自分の事を愛していると言う男を、たとえ犯罪者であろうとも、今更裏切る事などリンダには出来そうもないのだった。


 一体、夏休みはいつまでなのだろう。今日、キャバクラを無断欠勤したら三日目になる。彼らは入れ代わり立ち代わり、宴は三日三晩続いた。川に流されたミュウタの死体はまだ見付かっていないのだろうか。もし見つかった場合、ここに警察が訪れるのだろうか。サスペンスのワンシーンの様に、先に若い刑事とベテランの刑事が事情を聴きにやってくるかもしれない。それでも、そうなれば、確実にアウトだろう。怪しげな男達と独特の匂いで、この館で何が行われているかは一目瞭然だ。

リンダは寝室のキングサイズのベッドの上で頭を抱える。ここに来てからというもの、ずっと頭を抱えている。腹を括る、と決めてからもリンダは恐怖に慄いていた。これまでリンダは、厳しい母親に、兎にも角にも真面目に生きるよう散々躾けられてきた。娘が刑務所に入るような事でもあれば、母親は首を括り兼ねない。そしてまた、この状況で母親の顔ばかり思い浮かべる自分にも驚いている。これまでだって、厳しい母親が聞いたら激怒する様な人生を送ってきたはずだ。それが何を今更。

「人様に迷惑だけはかけてくれるな」

 母親の言葉が耳の奥に甦る。自分はその言葉に幼い頃から支配されて、甘える事を知らずに生きてきた。やっと甘える事が出来そうな男に出逢ったと思ったら犯罪者だ。幸の薄い女というのは、きっと自分の事を指すに違いなく、リンダはほとほと虚しくなった。自分は一体何をどうしたいのだろう。そもそも、どのように生きていきたいか、随分と長い間考えていなかったように思う。里咲とモモの顔が脳裏に浮かぶ。里咲も、そして、ああ見えてモモも、夢を叶えるために日々切磋琢磨している。どんな時も凛として見えるのは、きっとそのためだ。自分に夢と希望が少なくともあったとしたら、それらは常に男の存在にべったりと貼り付いていて、そもそも自分自身が本当に望むものなのかどうかも怪しい。そして気が付けば男は自分の許を去り、自分の許には何も残らない。その繰り返しだ。

 里咲とモモの存在が遠いものに感じる。随分と逢っていない気がする。懐かしく思えて、リンダは涙ぐんだ。今のこの状況を知れば、二人は呆れて怒るに違いない。それでも、今無性に逢いたいのは、その二人だった。連絡を絶っていた事を後悔する。きっと罰が当たったのだ。リンダはうっすらと瞳に滲んだ涙を指で拭った。その時だった。

 強く玄関の戸を叩く音が聞こえる。リンダは身を固くした。刑事達かもしれない。男達はリビングで雑魚寝をしている。昨晩も明け方まで騒いでいたのだ。

 ごんごんごん、と響くその音に、リンダは考えを巡らす。男達がその音で目覚めて、玄関を開けてしまうのはまずい。あの風貌の男達が刑事に真っ当な対応をするとは思えない。リンダは震えながらベッドを降り、そっと寝室を出る。その間も戸を叩く音は止まない。力強く殴りつける様に響く音に、只ならぬ気配を感じる。恐る恐る玄関の戸に近付いた。

「リンダ、いる?」

 戸の向こうから懐かしい声が聞こえた。里咲だ。リンダは飛び付く様にして玄関の戸を開いた。

「リンダ」

 モモが叫び声を上げて抱きついて、リンダはよろけ、里咲が慌ててそれを支えた。

「生きてた?」

 里咲が呆れた様な、でもどこか優しく響く声音で聞く。リンダは声にならず、ただ頷いた。

「荷物纏めて帰ろう」

 里咲がリンダの背中に手を当てて言う。

「でも」

 リンダは下を向いたまま呟いた。

「でも、じゃないよ。どうせ碌な事無かったでしょう」

 里咲が強くリンダの背をさする。さすが里咲だ。大体を見通しているらしい。それでも渋るリンダに、里咲は溜め息を吐いた。

「取り敢えず、ここを離れよう」

 幸四郎が言い、リンダは驚いて顔を上げた。

「コウちゃんも、心配して、ここまで私達の事を連れて来てくれたんだよ」

 モモが説明する。幸四郎は照れたように鼻を擦った。


 四人は少し歩いて、沢の畔の岩にそれぞれ腰掛けた。穏やかな水の流れる音と、時折吹く、沢で冷やされた風が心地良かった。

「何があった?」

 里咲がリンダの顔を覗き込む様にして、優しく訊ねた。リンダはそれまでにあった事を頭の中で反芻するが、何から話せば良いのか整理がつかず、答えあぐねた。

「あの匂い、マリファナでしょう」

 里咲が唐突に切り出して、リンダはどきりとする。

「何で分かるの?」

「それは、さすがに分かるよ。それよりも、辛い目に合わなかった?」

 リンダは頭を振る。自分は何も辛い目には合っていない。それどころか、ハマーから今までに経験したことの無い程大事にされている。けれど、人を一人殺したかもしれない。里咲とモモと幸四郎は、心配そうに黙ってリンダの言葉を待ち続けた。リンダは顔を上げて、里咲とモモと幸四郎の顔を順に見詰めた。

「私ね、警察に捕まるかもしれない」

「なんでよ」

 モモが眉間に皺を寄せる。

「人が殺されるのを、止めずにただ見ていたの。そして、それを警察に通報もしていない。きっと彼らと同罪よね」

 里咲と幸四郎が顔を見合わせる。

「詳しく説明して」

 里咲が静かに低い声で言う。

「ケミカルに手を出したとかなんかでよく解らないけど、ハマー達によってたかって殴る蹴るの暴行を受けて、それで意識が無くなって、最後は多分息をしていなかった。皆で川に流しに」

「誰が」

 里咲がリンダの話を遮る。

「誰が殴られたの?」

「ミュウタっていうハマーの子分みたいな男」

「ミュウタ君なら」

 突然ユズの声がして、皆で振り返ると、ユズがマイクを片手に満面の笑みを浮かべて立っていた。

「昨日の晩、渋谷のクラブで見たよ。試合直後のボクサーみたいな顔をしていて、一瞬誰だか分からなかったくらい。そっか、ハマーさん達に殴られてああなったんだ」

 随分と澄んだ明るい声で言う。モモが噴出した。

「よ、良かったね。死んでないって」

 そう言ってモモは更にけたけたと笑い声を上げる。ユズはきょとんとした表情でモモを見詰める。一体何がそんなに可笑しいのだろう、といった顔だ。モモにつられて里咲までも笑い始めた。

「それで思い悩んで、キャバクラを無断欠勤していたわけ?」

 里咲が笑いながら言う。

「何で知っているの?」

「皆それだけ、リンダの事を心配してるのよ」

 モモが代わりに答えた。ずっと一人で生きてきた気分でいた事を、リンダは生まれて始めて恥ずかしいと思った。人様に迷惑を掛けないようにしてきたつもりが、数々の人間達に、今こうして想われている。不意に、胸に熱いものが込み上げた。

「帰ろう」

 改めて里咲がリンダの顔を見詰めて言った。

「でも、彼を裏切る事は出来ないよ」

「今は酷かもしれないけど、ハマーさんとは金輪際絡むのをやめて。リンダには合わないよ。頼むから帰ろう」

 里咲が強く言って、幸四郎が深く頷いている。

「でもさあ」

 モモが心配そうな顔をして言う。

「そんな簡単に別れられるかな」

 数々の修羅場を潜って来たモモが言うものだから、皆一斉に押し黙った。静寂を切り裂いたのは意外にもユズだった。

「まじ、来るもの拒まず去る者追わず」

 機材を大きなリュックサックに仕舞い込みながら、ユズは言う。

「ハマーさんの口癖だよ。もう帰ろう。僕、家に帰って曲が作りたい」

 リュックサックを背負うと、伸びをした。背骨がぽきぽきと軽快な音を立てる。どこまでもマイペースな男だ。

「ユズの言う通りだよ。帰ろう。何かあれば私もユズも力になれると思うから」

 里咲が言う。ユズはすでに車に向かって歩き始めていた。

「リンダ、帰ろ」

 モモも言う。リンダは力なく頷き、幸四郎が手を差し伸べて、リンダを立ち上がらせた。

 誰も何も話さずに一列に並んで歩く森の小路を、決して一生忘れる事はないだろう、とリンダは何となく思った。自分を心配してここまで訪れたこの人達を、それこそ悲しませてはならない。天秤にかけるわけではないが、友人たちとハマーでは、今のリンダにとって掛け替えが無いと心の底から思えるのは、明らかに前者だったのだ。

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