第8話 里咲Ⅳ

「ちょっと里咲、やばいって」

 モモが店に入って来るや否や、カウンターの中で酒を作っていた里咲に詰め寄った。カウンター席では幸四郎と村田が談笑していたのだが、モモの只ならぬ気配に二人は耳をそばたてる。店長がモモにお絞りを差し出した。モモはそれで手を拭くと、少し落ち着いたのかカウンターのスツールに腰を掛けた。

「ええとね。何から話せば良いものやら。とりあえずビール」

 はいはい、と里咲は答えてビールを注ぐ。幸四郎と村田がちらちらとモモを見ている。モモはそれどころじゃないらしい。例の如く一息にビールを喉に流し込む。

「ああ、やっぱりここのビールは美味しいわあ。って、違う。それどころじゃないのよ」

「まあ、落ち着いてよ」

 里咲が小皿に盛ったキスチョコを差し出した。モモは小さな歓声を上げてそれを摘まんだ。

「仕事終わりでお腹ぺこぺこだったの」

 村田が目尻を下げている。彼はモモの隠れファンなのだった。

「で、何がやばいの」

「リンダよ、リンダ」

 幸四郎が遠慮なく身を乗り出して聞き耳を立てる。

「案の定やばい男ととつるんでいたらしいの。ヤクザの息子か暴走族の息子か、はたまたその両方か」

 暴走族の息子?里咲の中にはてなが浮かぶ。

「でもさあ、そんなのリンダにはあり得る話じゃん。何がそんなにやばいのよ」

 里咲が落ち着いてモモの話を促した。

「問題は、リンダがどうやら行方不明という事よ」

 眉間に皺を寄せてモモが言う。可愛いなあ、と村田が呟いて、モモがきつめの視線で一瞥をくれる。

「私達も当分が連絡付かないじゃない。それがね、安藤ちゃんによると、リンダったら一昨日から無断欠勤が続いているらしいの」

 がちゃん、と音がして里咲は洗っていた灰皿をシンクの中に滑り落とした事に気付く。失礼しました、と呟いて、モモに向き直る。

「リンダは真面目だけが取り柄の様な子だよ。無断欠勤するなんて、何かに巻き込まれているか、アパートで野垂れ死んでいるとしか思えない」

 幸四郎がいよいよモモの隣に来た。村田もどさくさに紛れてモモの隣に座る。モモは幸四郎と村田に挟まれる形となったが、今日に限ってはどちらにも愛想を振り撒かない。

「その男の情報は?」

 いつになく真剣な面持ちで店長が訊ねる。モモは、うーんと言いながら額に指をやる。

「ハンマーだったかな」

 すると村田が横からすかさず口を挟んだ。

「ヤンマーだったと思うよお」

「村田さん見かけたんですよね。特徴は?」

 里咲が訊ねると、ちょっと待って、とスケッチブックを取り出した。

「あまりに面白い髪の毛だったからねえ」

 ぺらぺらとスケッチブックを捲り、あったあったと、あるページを開いて見せた。そこには奇妙なヘアースタイルの男の後ろ姿が描かれていた。まるでダイナマイトを束ねたような。里咲の中の点と点が繋がった。

「モモ、ハンマーじゃなくてハマーね。村田さん、ヤンマーじゃなくてヤーマンね」

 ああ、それそれ、とモモと村田は口を揃えて頷いている。里咲は溜め息を吐いた。まさかあの男とリンダが。モモの言う通り少しやばい事になっているのかもしれない。リンダはあんな風だけれど、里咲よりもモモよりも、うんと真面目な人間だ。それがあんな法に反する男にどっぷり浸かるには危険すぎる。

「さっきもリンダに電話してみたんだけど、やっぱり繋がらないんだ」

 横で幸四郎が電話をかけているが、幸四郎も繋がらないらしい。留守電になる、と呟いた。

「ハマーさんなら、どうにか伝手はあるよ。というか、二人の出逢いは恐らく私のライブだと思う。ちょっと当たってみる」

 店長がカウンターの内側の端に置かれていた里咲の携帯を取って里咲に手渡した。今いいよ、と言って里咲の背中を優しく押し出す。里咲は店長に甘えて非常階段の扉を開けた。


「どうしたの」

 ユズの穏やかな声が受話器越しに里咲の耳を震わせた。その向こうには騒々しい音がする。

「頼みたいことがあるの。今いいかな。外?」

「うん、今渋谷。頼みたい事って?」

「ハマーさんって、ユズの知り合いだよね。私の親友のリンダって子と今一緒にいるかもしれないんだけど、確認する事できる?」

「うん、勿論。確認したら折り返すね」

 いつもと変わらない爽やかな様子でゆずは電話を切った。里咲は拍子抜けした様な、安心した様な複雑な心境で掌の中の携帯電話を見詰めた。ゆずは変わらない。あの出来事以降も、何も。

 平日の「CHERSEA」は空いている。常連たちがぽつりぽつりと来てはゆったりと夜を過ごしている。モモと村田と幸四郎はカウンターで酒を飲みながらユズからの連絡を待っている。三人の前に置かれた里咲の携帯電話が、気のせいか緊張して見える。

 電話をしてから三十分後、里咲の携帯がカウンターの上で光り、振動した。モモが取り上げる。

「里咲、電話」

 殆ど叫び声を上げる。里咲は店長に頭を下げて、その場で電話に出た。

「もしもし、里咲?」

 皆の前でユズの声を聞くのは思いの外照れくさい。この期に及んでその様に思う自分に辟易する。

「どうだった?」

「うん、何か仲間と夏休み中だって。リンダっていう女の子もいるみたいだよ」

 ひとまず、アパートで野垂れ死んでいる線は消えて、里咲は少しほっとする。一緒に夏休み中らしいよ、と里咲は電話から耳を離して、モモ達に小声で伝えた。

「ないないないない。だったら無断欠勤するわけがない」

 モモが首をぶんぶん横に振る。里咲は携帯電話に耳を寄せた。

「どこに居るか聞いた?」

「長野にあるハマーさんの別荘だって」

 ユズがのんびりとした口調で答えて、里咲は少し考えた。

「明日そこに行きたいんだけど、ユズ、住所聞いてくれない?」

「え?行くの。いいなあ、僕も行こうかな」

 何も事情を知らないユズが呑気に言う。どこまでマイペースな男なのだろう。けれど、ユズを連れて行くのは、この際好都合かもしれない。里咲にとって得体の知れないハマーは、ユズをリスペクトしている。何かあった時にユズの存在が助け舟になるかもしれない。

「ユズも一緒に行こう。住所聞いたらメールしてくれる?詳細は追って連絡する」

「オッケー」

 ユズはまるで遠足を前にした少年の様な声音でそう答えて電話を切った。

「という訳だから」

 携帯電話を置いて、里咲はモモ達に向き直る。

「明日、リンダを見に行こう。状況によっては連れ帰ります。コウちゃん、車貸してくれない?」

「勿論。貸すどころか、俺が運転して行くよ」

「仕事は?」

 モモが驚いて幸四郎を覗き込んだ。

「明日は風邪でもひくよ。配達は父さんに頼めば何とかなるから。リンダの一大事だもん」

 家族経営の酒屋で仮病も何も無いような気がするが、幸四郎がそう言うなら心強い。暫く運転から遠ざかっていた里咲だけに、自分が運転するのは恐くもあった。

「僕は、明日は、銀座の画廊に用があるからなあ」

 村田が申し訳なさそうに言って、里咲とモモは顔を見合わせて吹き出した。

「村田さんは、再来週、湘南で里咲のライブがあるから、それに一緒に行こうね」

 いつもの甘ったるい声で、モモが村田をたぶらかし、村田は目尻を下げて蕩けそうな笑顔を見せた。

 気が付けば、湘南のライブまで「いよいよ」なのだった。


 次の日の朝、八時過ぎに里咲とモモと幸四郎は待ち合わせ、幸四郎の車でユズを迎えに行った。僕も行く、と自ら志願したユズは、待ち合わせの場所に来なかったのだ。

 ユズの住むマンションに着くなり、里咲は遠慮なくチャイムを連打した。今日ばかりはユズに来て貰わないと困る。携帯電話でユズに電話を掛けながらチャイムを連打する事五分、やっとユズが眠そうな眼を擦りながら部屋から出てきた。誰よりも大きなリュックサックを背負っている。

「ごめん、二度寝しちゃった」

 これからハマーの別荘に向かう趣旨を、ユズはそういえば何も知らないのだった。リュックの中には着替えでも入っているのだろうか。日帰りなのだけど。里咲は頭を掻いた。

「眠かったら車の中で寝なよ」

 申し訳なく思えて、里咲は労わるような優しい声音で言った。昨晩は渋谷にいると言っていた。仕事に関わる事だろう。それ以外で深夜の渋谷にユズが居る理由が見当たらない。遅くまで渋谷で過ごし、帰って来て荷造りをしたのだろう。

「ありがとう」

 殆ど開いていない眼でユズは笑った。


 幸四郎は飛ばし屋だった。色白で繊細そうな、その見てくれからは想像も出来ないくらい荒い運転をする。里咲は窓の上にあるアシストグリップを握った手を離せずにいる。掌の中は冷や汗で濡れている。寝ているユズは、さっきから、がっこんがっこんと頭をあらゆるところにぶつけまくっているが、一向に目覚める気配は無い。こんなところでも、天才は非凡さを発揮するのか、と里咲は素直に感心した。モモは窓を開けて、ラジオから流れる流行りのラブソングを幸四郎と二人、大声で歌っている。リンダ、大丈夫だといいけど。里咲は心から願った。

 幸四郎の荒い運転のおかげで、予定よりも早く目的地に着く事が出来た。

 そこは静かな森林だった。傍には細い小川が流れていて、耳を澄ませば、川のせせらぎと美しい鳥の鳴き声が聞こえてきた。遠くには、啄木鳥が木を突くような音がする。

 四人は車を降りて、同時に大きく深呼吸をした。樹と緑の濃く湿った匂いが肺を満たし、肩の力がみるみる抜けてゆく。

「ここが世のセレブ達が夏になるとこぞって訪れるという避暑地というやつですか」

 モモが口を尖らせて言う。幸四郎は気のせいか顔色が悪い。いつもに増して白く見える。緊張しているのかもしれない。ユズはすっかり目覚めて、爛々とした瞳で辺りを見回している。完全に一人、遠足気分だ。

 車を置いて、細い小道を、草を掻き分けて進んだ。里咲は森林の匂いの中に妙な匂いが混じっている事に気が付いた。それは本当に微かだったが、あきらかにマリファナの甘くえぐみのある匂いだった。どくんどくんと里咲の鼓動が早まる。マリファナだけならばまだ良い。ハマーはヤクザの息子と噂される男だ。六本木界隈の仲間を連れて、この山奥の館で何が行われているのか。リンダは酷い目にあっていないだろうか。

 鬱蒼とした草木に囲まれたチョコレート色のログハウスを前にして、里咲は深呼吸をした。頼みの綱はユズだ。

「ユズ」

 声をかけるも返事が無い。里咲とモモと幸四郎が振り返ると、ユズは小道の遠くの方で手を振っている。

「里咲、僕ちょっと鳥の鳴き声をサンプリングしたいからまた後でね」

 叫んだと同時にすたこら走って行ってしまった。あの大きなリュックサックの中には機材が入っていたのか。里咲は唖然として、声も出ない。

「なんかさ、ユズ君って相当」

 モモも驚いて言う。

「変人と天才は紙一重」

 里咲は大きく溜め息を吐いて、モモの代わりに呟いた。いつかユズに抱いた苦しく切ない恋心が、少々滑稽さを帯びてきている。

 幸四郎は更に顔を白くして硬直している。もう私がしっかりするより他に方法は無い。里咲は拳に力を入れて、ログハウスの扉を叩いた。


 

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